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美の来歴㉖ 猫が見た夢をめぐって    柴崎信三

〈函館〉が生んだ長谷川四兄弟とモダニズムの時代

  伝説の画商でエッセイストとしても知られた洲之内徹がこの絵と出合ったのは、一九六〇年代の初めだったようである。画家、長谷川潾二郎の東京・荻窪のアトリエで見た作品、『猫』に一目ぼれして虜になった。
   深く鮮やかな紅色と灰色で仕切られた、スタイリッシュな背景。茶虎模様の猫がゆったりと体を伸ばして寝ている。洗練された色と構図で仕切られた画布から、このおっとりとした猫の平和な寝息が聞こえてきそうである。けれどもこの絵が猫という生き物を描いた写実絵画なのかといえば、それはどこかでリアルな猫を超えた、夢の気配を探して描いた作品のようである。
   画家が大切にしている自宅の年老いた飼い猫、タローがモデルである。
   作品はすでに完成しているようなので洲之内が「譲ってほしい」とその場で伝えたところ、画家は「まだ髭を描いてないから」と難色を示す。
   「では髭を描き込んで下さい」とたたみかけると、重ねて彼は言う。
   「いや、猫がこの格好で寝てくれないと描けないのです。こういう格好で寝るのは春と秋だけで、それまで待ってほしい」。一年が過ぎ、二年が過ぎて待つうちに、モデルのタローが死んで鬚を描き込むことができなくなった。
   画家はようやく仮想の髭が入った猫を描き上げて洲之内との約束を果たしたが、それでも画布には片側の鬚しか描かれていない。描きこまれた髭は、画家がこの猫とともに過ごした〈時間〉への追憶であったのだろうか。
   長谷川潾二郎は戦争を挟んで〈昭和〉を生きた画家である。世塵から離れて静物と穏やかな風景ばかりを描き続けた。ほとんど波乱のないその歩みを見れば、静謐と孤高に生きた風景画家と呼ぶのがふさわしい。
   しかしながら、ルノワールやアンリ・ルソーの素朴派の影響を漂わせたその風景や静物は、モダニズム絵画が目指してきた現実を正確に再現するメチエ(技法)によるものかといえば、そうではない。画面は平面的で奥行きが乏しく、陰影を抑制することによって、近代のリアリズムが一点の光源をたよりに成し遂げてきた〈現実の再現〉という命題を、むしろ否定している。
そこでは現実の風景や静物を超えて、この画家が対象に温めてきた詩情と夢想が、あたかももう一つの現実のように浮かび上がってくるのだ。
   のちに『猫』を評して「この人はどうしても実物を据えておかないと絵がかけないのである。それはこの人の律義さ潔癖さであろうか」と洲之内が述べたのに対し、画家は次のように反論している。

〈私は彼の言う通り目の前に或るものを描く。しかし、それは実物によって生まれる内部の感動を描くのが目的ですから、実物を描いている、とはいえません。つまり私が描いているのは実物ではありません。しかし、それは実物なしでは生まれない世界です。この間の事情は外部の人には一寸判りにくいところがあると思います。一番重要なことは、描く前の心のあり方です〉

   「目前にあるものが美に輝くとき、それは神秘の世界から現れた贈物のように見える」という画家の言葉は、写実絵画が持つモダニズムの逆説をとらえて、作品の後景に広がる画家の深い詩情の根源へわれわれを導いてゆく。
   現実と夢の間を行き来する潾二郎の世界は〈風景〉を描いても同じである。1935年の『時計のある門』という作品は、東京・麻布にあった天文台の大きな時計をつけた正門から塀越しに人気のない庁舎を描いている。

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    ◆長谷川潾二郎『時計のある門(東京麻布天文台)』(1935年、油彩・カンバス、個人蔵)


   画面の上半分は曇天の空が覆い、通りで幼子が一人ボール遊びをする。他に人の気配はない。白日夢のような非現実感はデ・キリコやダリの世界を思わせる。27歳でフランスに1年間遊学するにあたり、査証をとるために訪れたソ連大使館の裏手の天文台の風景が、画家の記憶にしっかりと刻まれた。帰国して数年ののちにそれは突然蘇り、現場を再訪してこの絵が描かれた。

〈塀は私が描きにくるのを待っていたようだった。そして私はこの塀を描くために巴里から帰って来た。そんな気がした。‥‥〉

   「現実は精巧に出来た夢である」という潾二郎にとって、〈写実〉とはそんな空間と時間の入り組んだ構造の中にあらわれる、詩情の再現なのである。

   長谷川潾二郎は1904(明治37)年、北海道函館に生まれた。生家はもともと佐渡で幕府の金座役人を代々務めてきた家で、父親の清は中学の英語教師からジャーナリストとなって函館へ渡り、「北海新聞」の主筆として反骨の筆を振るった。四男一女をもうけ、その次男が潾二郎である。
   日本の風土から抜け出したような、この画家の写実画の奇想と静寂の謎に分け入るには、画家を含めて昭和期のさまざまな表現領域に多彩な足跡を刻んだ〈長谷川四兄弟〉の事績と、産土(うぶすな)としての北方の国際都市、函館の風土について少しく語らねばならない。

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 ◆長谷川海太郎(1900-35) 林不亡、谷譲次、牧逸馬の筆名で〈めりけん・じゃっぷ〉や〈丹下左膳〉などのシリーズで人気作家となった。 

  長男、海太郎は4兄弟の中では最も広く知られた仕事を残した人物として今日その名が伝えられている。大正から昭和前期にかけて谷譲次、林不亡、牧逸馬という三つのペンネームを駆使して、雑誌『新青年』などに冒険小説、時代小説、風俗小説などを書き続けた作家である。なかでも渡米経験をもとに書いた〈めりけん・じゃっぷ〉のシリーズ(谷譲次)は排日運動が広がる米国を舞台にしたエンターテインメントで、日本では稀有の「移民文学」として活劇がベストセラーとなった。『丹下左膳』(林不亡)も虚無の影を湛えた新たな時代劇のヒーローとして人気を集め、何度も映画化された。
   三男、濬(しゅん)はロシア語を学んで満洲へ渡り、満州国国務院などに勤めながら翻訳や著述に活躍した。ロシアの作家、バイコフの『偉大なる王』の翻訳のほか、現地の作家たちとともに文芸運動にかかわり、満州の〈植民地文芸〉の興隆に一役買った。のちに満映(満州映画協会)に勤めて、終戦時に理事長の甘粕正彦の最後に立ち会った人物として知られる。
   四男の四郎も満鉄などに勤めたのち、敗戦でソ連に抑留された。その経験を描いた小説『シベリア物語』で注目され、『鶴』で芥川賞候補となった。ブレヒト、ロルカなどの戯曲や詩作品のほか、アルセーニエフの『デルス・ウザーラ』などの翻訳家であり、詩人にして舞台演出家、はたまたアジア・アフリカ作家会議のメンバーと、まことに多彩な活動を戦後続けた。
   こうした兄弟たちの波乱万丈の歩みに比べてみれば、潾二郎が生きたのはひたすら〈美しいもの〉だけと向き合う平穏で閑暇な日々である。17歳だった1921年4月14日、函館大火で元町の実家が全焼した折、家族と離れた彼はスケッチブックを持って函館山に上り、炎に包まれた街を写生していた。
   生涯を通じて生活のために働いたことさえ、ほとんど痕跡がない。家族を抱えながらいったいどうやって生計を立ててきたのかが不思議に思えるが、それを可能にしたのは4兄弟が育った長谷川家の自由な人のつながりと、その周囲で奇想あふれる美を育んだ函館という街の〈空気〉であったろう。
    旧制函館中学の同窓で親しく交友した阿部正雄は、のちに「言葉の魔術師」と呼ばれる作家、久生十蘭となり、同じく納谷三千男も雑誌『新青年』の人気作家、水谷準となった。上京後、画業のかたわらで〈小説家・地味井平造〉として推理小説に手を染めたのは、十蘭や下宿をともにした水谷の影響がかかわっていたのだろう。

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◆久生十蘭(1902-57)絢爛たる文章で推理小説や戯曲を書いた。『鈴木主水』で直木賞。『母子像』でニューヨーク・ヘラルド・トリビューン国際短編コンクールの第一席となった。

       
   東京ではまず長兄の海太郎が借りた東中野の〈谷戸の文化村〉に同居した。小林秀雄や田河水泡らも住んだ若い芸術家たちの〈村〉である。その後、父が荻窪に新築したアトリエに末弟の四郎とともに住んだ。翌年の1932年、27歳の潾二郎はシベリア鉄道経由で渡仏、1年ほど滞在して異郷に絵画を学んだ。この時の下宿探しなどで世話をしたのは、パリに遊学中の久生十蘭だった。

〈晴天でも何処かにちょっと霞がある。光と影、明暗のバランス、絵画的な美が巴里の街を形成している。人工が人為を越えて自然に溶け込んだ街だ〉

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◆長谷川潾二郎『道(巴里郊外)』(1931年、460×547㌢、油彩・カンバス、宮城県美術館蔵)

   滞在中の手記にこのように記した画家は、日本とフランスの風土がもたらす光と空気の性質の違いを通して西洋絵画と日本の絵画の落差をたしかめ、その風景や静物に画家自身のまなざしと心象(イマジネーション)を重ねて描き出す、独特の絵画の世界観をつかんだのであろう。
   帰国後、結婚した潾二郎は29歳で二科展に初入選したのを皮切りに、各地の個展や作品頒布会で多くの作品を発表する。そうした活動はジャーナリストの父とベストセラー作家だった長兄の海太郎が支えたはずである。
   カンバスに描かれた風景や静物は、画家が視覚でとらえた物理的な現実ではない。それは画家のなかに立ち上がった美と詩情が画布に呼び込まれて描かれるのである。パリ時代に描いた『道(巴里郊外)』などの風景から戦後、晩年にかけて数多く描いた卓上の静物まで、一貫して画布には薄い皮膜に覆われたような非現実感が漂っている。「現実は精巧に出来た夢である」という、この画家の倒錯した詩人のリアリズムは、1988年に84歳で死去するまで終生持続して画風は変わることがなかった。
   画家は会派や集団には属さずに画壇の傍流を歩んで、戦争ともほとんどかかわることはなかった。家族と猫に囲まれて、心のなかの風景を晩年まで描き続けた境涯は、無名ではあれ「幸福な画家」と呼ばれるべきであろう。

  『猫』のモデルの飼い猫、タローの「履歴書」を画家が書き遺している。

〈タローの履歴書〉
姓名 タロー
現住所 東京都杉並区神明町29番地
出生地 東京都世田谷区上北沢町2-676番地 文士長谷川四郎宅
本籍地 エジプト国、デア・エル・バハリ神殿、スフィンクス通り2-1-11
職業 睡眠研究株式会社社長 万国なまけもの協会日本支部顧問
学歴 幼時家庭教師につきてフランス語と音楽を学ぶ(註 フランス語は特に次の二つの文章につきて造詣深し。
Le chat sage boit et mange avec sobriete 
賢き猫は節制をもって飲食す
Vivez conformement a ce que vous croyez
汝の信ずる所に従って生きよ
 音楽はクラシック、特にフランソワ・クープラン、及びエリック・サティーの曲を愛好す‥‥‥。

   これは愛猫へのオマージュであるが、同時に画家長谷川潾二郎の密かな自画像だったのではなかろうか。                                                             


◆標題図版 長谷川潾二郎『猫』(1966年、油彩・カンバス、309×409㌢、宮城県美術館蔵)





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