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まさかの欺瞞100%の思考を信じていただけ

当然のごとく狂気的な思考は普通に湧き上がり続ける。湧き上がり続けても問題がないので歓迎してる。

いわゆる「裁きの思い」なのだけども
なぜだろうか?その「裁きの思考」に力がない。

投影する自分を眺めていて、その思考の無価値性を認識し眺めている。
投影しているし、無価値な思考が思考され、それが私の中で採用されている。

自動的にプログラムが流れ続けている。

そうやって、くだらない時間の先延ばし作戦がなされようとしている仕掛けを見ていくと

それらはあまりにも、あまりにも価値がなく意味がなく、うんこ以下のくだらない頼りにならない、自分を目覚めさせない思考、信念なので

その欺瞞に満ちた信念思考に自分の信じる力を与えるのを、ただやめる。
ただそうする。という感じで粘着質がないのだ。

呆れるほどくだらない、意味がなく価値がない、その価値の無さを認識できる単純さ。そのシンプルな心の状態。

これは幼子の知覚の仕方に似ているのかもな、、と思う。


それに比べ
賢い大人的な自己概念、知ってる自己概念、I know mind から複雑怪奇な信念思考、不可解な思考に自分の信じるパワーを与えた瞬間、急にその信念思考が重大なものとして認識され、幻覚がひき起こったかに見える。

それが「世界を夢見る心の病気」という状態なのだろうな。

なので私たちは「価値なきものに力を与えない」というシンプルさに戻り
幼子のようなまったく何も知らない無垢性に巻き戻っていく必要があるのだと思う。

私の経験では
今まで例外なく、自分で決断していったら絶望的な結果しか生じなかった。(状況の絶望的さではない、心の絶望)

というふうに、ちゃんと絶望をした結果「私は個人の私のものの考え方をまったく信用できない。私は今までずっと全面的に間違ってきたんだ」
と、すすんで、積極的に声明して祈る意欲しかないし、祈りたいのだ。


その祈り・声明の結果の
【粘着質の減退】なのだろうかな。


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