愛されているのを本当に経験したいなら、実感したいなら、すべきこと。
「愛されていると実感したい。知りたい。愛しかないって教えてほしい。愛を経験したい」
という言葉を口にすることは、まあまあ簡単なのだけど、それが実際に経験される原因は、100%自分自身の決断なのだ。
誤解を生むかもしれないけど
聖霊がそれを叶えてくれるわけでもない。
なぜなら聖霊はもうその仕事を終えてるので、どっちかというと聖霊が私たちを待っているのだ。
「さあ、いつこの心はこの訂正を受け入れてくれるかな?」
という感じで待っている。
私たちは、状況がどうあれ、人間関係がどうあれ、それらをそのままにして、ただ「すでに愛されている事実を受け入れる決断をする」「覚悟と腹括りをして断固として、誰が何と言おうと自分の心の中の自我が何と言おうとそれにかまけず、すでに愛されている事実をありのままに受け入れるのだ」
もしも本当にそうしたら、経験は起こる。非難者が自分のそばにいても、愛を経験する。
無条件の愛を経験する。
これには相当のマインドトレーニングが必要で、繰り返しの訓練をしてゆく時間も必要だけど
絶対に経験は起こる。完全無条件の愛を経験する。
なぜなら、神の子がその心のパワーを使って真の自分の姿を受け入れたなら、たとえ永続しなくても一時的に圧倒的な経験をする。絶対する。保証されているし、約束されている。
この決断をする心は、心の中の自我の脅迫や泣き落としや誉め殺しに力を与えない。
自我の声という偽りを、ありのままに偽りとして認識し、幻想中毒の発作状態を裁かず認識して、その闇、発作を光へと運ぶのだ。
シンプルだけど、それなりの訓練と意欲が必要。でも本当にこの訓練をすればうまくいく。
うまくいかないなら、自我に信じる力を与える傾向や習慣をありのままに自覚して、その無価値性をはっきりと理解する段階をしっかり踏む必要があるのだろう。
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