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⑤Jesus: A Gospel of Love(メキシコ7日目)明晰さの中で自我は消え去る。

非常に小さなことから大きなことまで明晰さを保ち、コミュニケーション、コラボレーションして生きていく時、そこには自我の居場所や逃げ場はない。

自我の仕掛けは、ただあらわになって消滅するのみ、なんだな。

毎月の献身滞在やリトリートをしてきたから、そういうことには慣れているけど、ここではもっともっと妥協なく微細なことにまでガイドラインが明確化されている。

その理由は別に【完璧に身の回りを整理できる人になること】じゃなく、行為者を超えて

夢みる者、心として、世界や日常のあらゆる微細なこと、微細な瞬間瞬間、あらゆることに気づき、それらを通して兄弟とコミュニケーション、コラボレーションしてお互いが透明で、明晰である訓練のためだと思う。

そして、その根底には「Put God First /神を一番にする」がある。
何もかもすべて神のためにしているのだ。自分の決断ではなく聖霊の決断に耳を傾け心を傾け続ける訓練だと思う。

神がそれを必要としているからではなくて、これは、神との完全なる一体性を忘れてしまった自分のために、『神に仕える』という究極的なメタファーだと思う。そこで「私」は消え去るのだ。

だからこそ自我は明晰さを嫌っているのだ。

私たちがあらゆることや関係において完全に明晰である時、そこに自我が入り込んでハイジャックする余地がなく、取り消されてしまうから。

今日の夜、エミリアとエレーナと私でボランティアをする人たちにとってのガイドラインを読んだり学んだところだけど、本当に精妙で「こりゃ自我には逃げ場がないわな。。」と感心したのだった。

こういうことに触れて訓練できるのもコミュニティに滞在させていただく事の恩恵の一つだな。

とにかく自分の中を空にし続けて、聖霊を心の中心に招き入れ続けることだ。私が正しいのではなくて、常にずっと必ず聖霊が正しいのだ。


(仮邦題)「イエス・愛の福音」  デイヴィッド・ホフマイスター
"Jesus: A Gospel of Love"  by David Hoffmeister

✨以下、本書の「1. Who Is Jesus Christ? / イエス・キリストとは誰か?」より、いくつかの文章を抜粋しています。仮翻訳段階ですが、ハートで受け取っていただければ幸いです。

罪悪感のポケットとは、これまで疑問視されたことがなく未だに事実だと信じられている信念のことです。
時間は同時ではなく直線的なものだという考えが、このような信念の根底にあります。

罪悪感のポケットが解放されると、自覚に平安が戻ります。心の訓練の「成功」の度合いは、あなたが感じる平安によってわかるでしょう。

真の知覚、幸せな夢、救済、実相世界は、裁きのすべてが解放された後の赦された世界を指し示します。この見方では分裂がないので、知覚は全一です。これが聖霊の視点です。

現在とは、時間以前または時間があるように見えた以前です。したがって、「アブラハムが生まれる前から、『私はある』」と、「私と父とは一つである」は、この視点を反映しています。

簡単に言えば、「智識あり」です。純粋な存在には言葉も反映もありません。宇宙と身体は、純粋な存在、つまり智識とは何かを思い出す前の「最後のステップ」として脇に置かれます。

"Jesus: A Gospel of Love" by David Hoffmeister - 1. Who Is Jesus Christ?(仮日本語翻訳)


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