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僕は彼の右腕でありたい。

⓪はじめに

こんばんは。
隙自語おじさんこと、シンゲキ所属サイトウです。

僕は隙自語おじさんなのですぐ自分の話をしますが、それだとみんな嫌だろうなということで今日は僕の恩人の話をします。

その人こそみんなご存知、島根を代表する大作家かつ大演出家、稀代の天才、100年に1人の美少女(?)、我らが作演出の伊藤圭祐くんです。

何を隠そう彼と僕は高校の同級生、しかも高校一年生の時には同じクラスでした。
僕は彼によって演劇を知り、彼の導きによって今こうやってnoteを書いているわけです。いやこれほんと。

①出会い


彼との出会いは高校一年生。
正直記憶は曖昧ですが、第一印象は「優しそうで、少し気弱」。
僕のイメージでは初対面なのにいきなり「一緒に演劇部入らん?」と言われた、です。
実際には初対面でいきなりではないんだろうけど、そのくらい唐突なお誘いだったのは確かです。

当時の僕は中学三年まで6年間続けたバスケをやめて高校では何しようかなぁ、という状態でした。
とりあえず活動が少ないらしい、しかも学校の金で宿泊研修に行けるらしい、という噂のJRC部(ボランティア部みたいなもん)に入って、でもそれだけだと暇だなぁ、なんて思ってました。

そんな所に突如演劇部のお誘い、ここですんなり入っていればまた違った人生を歩んでいたかもしれません。


そう、僕はその誘いを断ったんです。


だって……ねえ?いくらなんでも急すぎない?
演劇部なんてあるんだ、知らなかったわ。
そんな感じ。

それに当時の僕にとって同年代の人達が演技してる姿を見るのは何だかこう、むず痒いというか恥ずかしいというか、そんな感覚でした。

なので断ったんです。そんなの見てらんないよ、と思ったので。(言ってはないですさすがに)

ここまでは4月の出来事。もしかしたら5月にかかってるかも。

それから月日は流れ7月だか8月だか、演劇部の皆さんにはおなじみ大会が始まる前の期間です。
またも伊藤くんからお誘いがありました、というより、お願いか。

「スタッフの数が少なくてさぁ、手伝ってくれん?」

ええ、また……?
いや、またじゃないけど、ええ……?

と思いましたがさすがに2回も断るのはあまりに心無いということでまあスタッフの手伝いくらいならいいか……と引き受けました。

そして初めて演劇というものを見ました。

最初はなんだか気恥ずかしかったですよ、ええ。
だって同級生、しかもクラスメイトが演技してるんだもん、体の内側が痒くなる感じ。たしかにありました。
でも見てるとだんだん慣れてくるもんですね。なんなら面白くなってくる。

そうして練習を重ねて臨んだ松江地区大会。
ここで僕は2つ目の運命的な出会いを果たします。

②運命の1本


上演順1 松江工業高校「贋作マクベス」

衝撃的な面白さ。初見でもわかる、素人でもわかる、面白い舞台。こんな世界があるのか!!!
ドカドカ笑いをとってかつ小気味よいテンポでかつ上辺だけじゃないメッセージ性、共感性。どれをとっても100点満点、僕の人生を180度変えるのには十分すぎる舞台でした。
この「贋作マクベス」はその後中国地方から一校しか選ばれない全国大会への切符を手にするのでやはり面白いのには違いない。
演出、主演を務められた松崎 義邦さんは今も様々な形で演劇を続けておられます。またお会いしたいなあ。

そんなこんなで全国レベルで面白い舞台にガツンと頭を殴られ、たった60分で僕は演劇の虜になったわけです。

一方我らが松江南高校も5年ぶり?だかの県大会進出を決めて湧きに湧くのでした……

③演劇部に入ろう


悲報です!!
演劇の虜になった少年サイトウくん、入部するかと思いきやここから約半年入部しません!!!

いやね?終わってみたら終わったなあって感じで落ち着いちゃって。
自分がやるかと言われるとそれはまた少し違うというかなんというか……

ということで冬の公演を見に行ったりなんだりしながらもなかなか入部はしませんでした。
でも部活体験で贋作マクベスの読み合わせは嬉々として行いました。

そして年も明け、高校二年生になり、今度は自分たちが主役の大会が近づいてきます。僕たちの学校は進学をメインにする学校だったので高三の夏から秋にかけて行われる大会には時間の都合上参加出来ません。なので実質2年生で迎える大会が最後の大会になるわけです。

僕は相変わらず入るんだか入らないんだかフラフラしていました。

というのも1年生の時の大会、数年ぶりの県大会進出を決めましたが、島根県から2校が選出される中国大会へは進めず、悔しい気持ちを抱えたまま終わった大会になったのでした。

悔しいなぁ、中国大会出たかったなぁ
その気持ちをうすーーーく引きずっている僕にとって、入部したところで中国行けないんじゃ意味ないよ。という感覚はとても強く残っているのでした。

そこで少年サイトウくん、けいちゃんに対してこんなえらそうな条件をふっかけます。

演劇部入るからさ、その代わり中国大会に連れてって

……タッチの世界観??俺は南ちゃんだった??
もちろんけいちゃんは双子でもなければ誰も亡くなってませんし、僕らがやってるのは野球でもありません。

でもどうせ入るなら勝ちたいじゃん??
せっかく部活入るなら中国大会に出たい!
そう思っていたんです、どうやら

というのもこれは後でけいちゃんに言われて(そんなこと言ったっけ……)となった話なので僕自身はそんな記憶大してありませんでした。えらそうなこと言ったのに覚えてなくてごめんね。

そんな僕のわがままにけいちゃんは「わかった!一緒に中国出よう!」と男らしく返事をしてくれ、晴れて?ついに?ようやく?いまさら?僕は演劇部に入部したのでした。

④演劇部にて


そして入部後、僕は照明として、けいちゃんは役者兼演出としてひとつの舞台を作り上げます。
その舞台が「冒険授業」
高校演劇界の重鎮中村勉先生の1作で、The 抽象劇といった1作。役者もスタッフも、顧問の先生やOBOGまで巻き込んでみんなで頭を捻りながら作り上げた1本でした。

そしてその冒険授業で、僕達は目標であった中国大会進出を決めるのです。

県大会終了後の円陣、最後に演出から一言どうぞ!の時間にけいちゃんは先程の話をしてくれました。
齋藤との約束を守れてよかった、中国大会出られてよかった、と。
なにこれ激アツやんこれなんて漫画????
事実は小説よりも奇なりとはよく言ったもので、このエピソードは飲み会で熱い話をする時の鉄板ネタになりました。

そうして演劇の魅力にのめり込んだ僕は、大学でも演劇を続けるのでした……

ちなみに中国大会進出をきっかけに繋がったご縁が今も続いています。
アーリーサマーも先日のマチブンも見に来てくれる友達は、同じ年に中国大会に出場していた他県の代表校の生徒でした。
全ては演劇が、そして元を辿ればけいちゃんが繋いでくれた縁です。本当にありがたいね。

⑤大学、社会人、演劇との距離感


高校時代を共にした演劇部のみんなとは、大学進学を機に離れ離れになります。
けいちゃんは岡山へ、僕は地元島根に残り、それぞれの道を進みます。
そこからのけいちゃんの躍進というとそれはもう目覚ましく、岡山県内ではちょっとした有名人です。先日お邪魔したハレノワガチ演劇祭でもいろんな大人の方に挨拶して回っていました。
一方の僕は大学の演劇部に少し所属してみたり、雲南市の市民創作演劇にお邪魔してみたり、けいちゃんと二人で小さく公演をしてみたり、といった風に細々とやっておりました。

そんな大学生活も終わり、社会人として仕事をするようになると状況はまた変わります。
コロナウイルスの流行、生活様式の変化、各種行動の制限、規模の縮小、とやりたいことも満足にできず、仕事に忙殺され演劇にもほとんど関わることのできない日々を過ごしていました。

一方けいちゃんは岡山の仲間たちと立ち上げた天神幕劇において自主公演を成功させるなど変わらずの活躍ぶり。
僕はそんなけいちゃんが羨ましく、何なら少し妬ましくさえ思い、その活動をあまり追わなくなっていました。

しかしそんな生活の中、やっぱり演劇やりたい、またけいちゃんと一緒にやりたい、そう思った僕は意を決して彼にメッセージを送るのです。

「ぶたいやりてえ」(原文ママ)

何回見ても頭悪そうだなこいつ。せめて漢字にしろ。
そして僕たちの人生は大きく動き出すのでした…
(この後の話はこちらを読んでいただいたほうがわかりやすくまとまっています)

⑥僕は彼の右腕でありたい。


そして今、島根と岡山、二つの地でたくさんの人を巻き込みながら「アイのセンタクキ」は回っています。
これこそ去年話していた「芸術山脈」!
演劇に懸ける熱い思いは中国山地なんてやすやすと飛び越えてしまうのです。最高!!!

そしてこの先、僕たちはどうなるのでしょう。
まだまだやりたいことはたくさんあるし会いたい人もたくさんいる。
すべての原点であり、運命だった彼の存在。

5年後、10年後、どれだけ時が経っても僕は彼の隣を歩んでいたい。

この先もずっと


「僕は彼の右腕でありたい。」

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