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影をなくした猫

砂漠には、夏になると赤い花をつけるサルスベリの木が一本ありました。その木には一ぴきの年寄りの猫がすんでいました。
このところ猫は憂鬱で眠れずにいました。それは独りぼっちなことに加え、猫には影がなかったからです。散歩の途中、どこかに落としてきたのか、うっかりしていたらもう影はなくなっていました。それがいつのことなのか、猫にはぜんぜん思い出せないのです。
影がなければ、自分がほんものの猫なのか、生きているのかどうかさえ不安になるものです。そこで猫は思いきって、自分の影をさがす旅に出たのです。

猫はずいぶん歩きましたが、広い砂漠には影のことを訪ねようにも、見渡しても虫一匹の姿もなく、また、どこにもそれらしい影は見つかりません。いいかげん疲れて休もうとしたときに、砂に隠れた影が見つかりました。こんなところに落ちていたのかとその影を拾った瞬間、影はぺたりと猫にはりつきました。猫はちょっと驚きましたけれど、どうやらそれは猫の影ではなさそうです。猫はがっかりしたものの、くっついた影は離れようとしないので、仕方なくその影を引きずったまま歩いていきました。

猫に引きずられていた影はしだいに元気を取り戻し、そのうちに立ち上がって猫と一緒に歩くようになりました。それは笛吹きの影でした。猫は笛吹きの影に、なくした影のことを訊ねてみたのですが、そんな影は知らないと言います。
「あたしはずいぶん長いこと砂に埋まっていたのでね。そのかわり笛を吹いて猫さんを元気づけることならできますよ」
と言って、影をさがす道々、笛吹きの影は美しい音色の笛を吹くのでした。フィーロロロー、プララララーと心地よい音が砂漠に流れます。猫はその笛の音に勇気をもらって歩いていきました。
しばらく行くと、電線にひっかかっている影がありました。電柱は遥か彼方にあるらしく、たるんだ電線しか見えません。その電線に影は洗濯物のようにはためいています。でもそれはどう見ても猫の影ではありません。笛吹きの影を連れた猫は、そっと影の下を通り過ぎようとしました。ところが、
「ぼくも連れていってくださいよぅ」
と、その影に気づかれてしまいました。でも影はずっと高いところにいるのです。
「ごめんね、あなたのいるところは高過ぎてわたしにはどうやったって届かないわ」
すると笛吹きの影が
「あたしに任せてください」
と言ったかと思うと、ひょいっと手に持っている笛を長く伸ばし、ひっかかっている影をえいやっと振り落としました。影はその勢いで雑巾のように地面に叩きつけられました。
「おや、笛吹きの影さん、あなたずいぶん手荒なことをするのねぇ」
「なんの、あたしたちは影ですからね、ちっとも痛かありませんよ」
と笛吹きの影はすましています。
「ええ、そのとおり。ぼくはへいっちゃらですよ。さあ、猫さん、ぼくも連れていってくださいな」
と足もとの影が言うので、猫が影を拾うと、やっぱりその影も猫にぺたりとくっつきました。
その影は太鼓たたきでした。太鼓たたきの影はすぐにトゥラッタタタ、と元気に太鼓をたたきました。笛と新たに加わった太鼓で、旅は賑やかになりました。
 もっと歩いていくと、小さなオアシスがありました。水辺に生えている二本のヤシの木の股に影が挟まっているのが見えました。これもまた猫の影ではなさそうです。それはマンドリン弾きの影でした。
「猫さん、おいらをここから引っぱり出してくれませんか」
猫はお安い御用とばかり、よいしょ、と影を引っぱり出しました。するとその影はもう猫にくっついているのでした。
こうしてマンドリン弾きの影も、ほかの二人の影と一緒に、ディララン、ドュロロン、と演奏に加わり、影をなくした猫と影の一行は楽しく進んでいきました。

砂漠の旅はどれほど続いたのでしょう。暑い夏をやり過ごし、いつの間にか秋も過ぎ、季節は冬に入っていました。
太陽が傾いて空に夕焼けがはじまると、三人の影たちは夕日と反対方向にものすごい勢いでぐんぐん伸びていきます。猫は三人の影にひっぱられて足を踏ん張らなければなりません。
「どうしたの、みんな、どうしてそんなに遠くに行ってしまうの?」
そして夕日が砂丘の向こうに消えた瞬間、伸びきった影たちはするりと猫から離れました。遠くの方から笛吹きの影の声が聞こえてきました。
「猫さん、あたしたちはもうお別れしなけりゃなりません」
「楽しかったけれど、さよなら、猫さん」
太鼓たたきの影も手を振っています。
「猫さん、さようなら。いつかまた」
とマンドリン弾きの影もマンドリンをかき鳴らしました。そうして影たちはわずかに残る夕焼けの空に消えてしまいました。
突然のさよならに声も出ずにいた猫は、長いしっぽを振って、心の中で「さよなら」と答えました。そのとき空に新しく星が三つ、シャララン、と輝きました。
あたりはすっかり夜です。星影に照らされて一本の木がありました。それは、あのサルスベリの木でした。
猫は懐かしいサルスベリの木の下に疲れたからだを横たえました。耳をそばだてると、かすかに影たちの奏でる音楽が聞こえました。それはだんだんはっきりしてきます。猫はもう自分の影がないことなどどうでもよくなりました。そして優しい音色にうっとりしながら、深い眠りに吸い込まれていきました。

その夜、砂漠には嵐が起こりました。サルスベリの木にもその下に眠る猫にも砂粒が容赦なく叩きつけました。けれども猫はもう目をさますことはありませんでした。
嵐に蹴散らされてできる砂模様はひとときもとどまってはいません。さまざまに形を変え、そのたびに新たな影を生みました。
砂嵐の上の空は黒々とどこまでも澄み、無数の星屑が散っています。その中でもあの三つの星たちはことのほか大きく輝いています。その近くに一つの星が加わりました。

砂漠に朝が来ました。昨夜の嵐が嘘のように穏やかな朝です。そこにはサルスベリの木が一本あって、地面に深い影を落としていました。

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