見出し画像

【渋谷の歴史 vol.1「レコード屋の街、宇田川町の歴史:刑務所と音楽の交差する歴史」】

【渋谷の歴史 vol.1「レコード屋の街、宇田川町の歴史:刑務所と音楽の交差する歴史」】

*写真は「渋谷の記憶 写真で見る今と昔」から


レコード屋を始めて約30年、渋谷に毎日来るようになっても約30年経ちました。

とは言え考えてみると渋谷の地元の繋がりも今までは非常に希薄でした。渋谷という土地に今まで助けられてきたのに何も貢献できていなかったと反省しておりました。

そして渋谷の歴史もほとんど知らなかったので良い機会だと思い色々と調べて見ました。

【宇田川町には刑務所があった 】
弊社フェイスレコード渋谷店の前の通りは非公式ながら「シスコ坂」と言われております。由来はCISCO RECORDSが1970年頃に、渋谷西武地下1階から移転されて現在の当店の場所、そして向かいの柳好ビル別館にあったからと言われております。

そしてそのシスコ坂はCMや動画などの撮影地としても有名でそのファンの方たちも多く訪れる言わば名所のようになっておりますが、それではいったいここは誰の土地なのか?私道なのか公道なのか?という疑問がずっとありました。近所の方からは「公道だから坂での撮影は許可が必要」「いや私道だからいらない」という論争があり長年モヤモヤしていたので思い立って区役所で確認しました。すると区役所でもわからず、わざわざ登記簿と地番図を入手して確認しました。

しかしこれがきっかけでいろいろと面白いことが判明してきました。

さらに昔からずっと気になっていた石碑がオルガン坂下の神南小学校下のT字路の所、渋谷区清掃事務所宇田川分室の敷地内に今でもあり、その意味もやっと解けました。


(陸軍用地の石碑)



ハンズの向かいにポツンと佇む小さい石標、そこには「陸軍用地」とあり、なぜ陸軍?とずっと思ってました。そんな時に代々木公園にあった米軍住宅の事を調べてるうちにその点と点がつながってきました。

様々な資料を確認した結果「シスコ坂から神南小学校一帯の地域は東京衛戍監獄という陸軍の刑務所」だったことがわかりました。そして代々木公園は第2次世界対戦まで陸軍の軍事訓練を行う場所でした。陸軍の土地であったがゆえに終戦後アメリカ軍に接収されこの一帯がワシントン・ハイツという米軍の兵舎・家族用居住宿舎になりました。ワシントン・ハイツには900戸近い住居があり数千人が暮らす都内最大の米軍の住宅エリアだったのです。そしてそこはアメリカ合衆国のパスポートが無いと入れないエリアでした。

そしてさらに調べていると、こちらのブログにたどり着きました。(非常に勉強になりました!ありがとうございます)
http://zassha.seesaa.net/article/343700967.html

こちらに掲載されている手書きの地図の衛戍監獄から裏門への通路がシスコ坂であるはずです。

このようにシスコ坂はもともと陸軍の刑務所の裏口でした。陸軍省→大蔵省→渋谷区となっており、現在は渋谷区の所有ということがわかりました。


刑務所の隣で敵性音楽を売るレコード屋
さらに深掘りすると、我がフェイスレコード宇田川町店も元々は陸軍所有の「刑務所の隣」だったという事がよくわかる昭和10年頃の地図を発見しました。

(昭和10年頃の宇田川町の地図)


地図にはまだオルガン坂から法務局に抜ける道もありません。当時は民家も少ない山と崖だったと推測されます。(現状でも清掃事務所の裏側に擁壁があります)土地の所有権も調べた所、陸軍省→大蔵省(現在の財務省)→民間へ売却されていました。

(当時の登記簿)


現在、我々の店は元刑務所の隣で営業しているのです。昭和10年の地図では店がある場所に関しては36という地番が振られていてこの36は現在も地番として利用されています。
そして元シスコレコードやオルガンバーがある場所も刑務所だったのです。
その後、この陸軍の土地であった代々木練兵場(軍の訓練施設)と陸軍衛戍刑務所は第2次世界対戦での敗戦後すぐにアメリカ軍に接収されワシントンハイツと呼ばれた米軍の家族向けの住宅地とワシントンハイツの車両基地になり、のちに東急本店の場所にあった「大向小学校」がこの場所に移転し、後に近隣の小学校と合併し、宇田川町にあるのに「神南小学校」となったそうです。


【音楽と自由を求める人が集まる街・渋谷区宇田川町】
終戦後すぐに陸軍代々木練兵場一帯は接収され、戦後の日本の生活様式の変えファッションや音楽の源流にもなった「ワシントンハイツ」になりました。そこにもっとも隣接した土地でレコード店を営んでいるとは本当に驚きです。そして80年前であれば敵性音楽として聞くことさえ禁止されていた米国音楽のレコードを販売するなんて何とも感慨深いです。
親米派や反戦を唱えていた人達、そして敵性音楽のジャズ愛好家も、そういう反戦的な考えの方が集められていた(収監されていた)であろう衛戍監獄と、アメリカの音楽と精神的自由を求めて宇田川町に吸い寄せられる現代のレコード・ディガーがオーバーラップして見えてきました。


しかし30年も渋谷で商売していてこの事実を知ったのがつい最近でした。こんな興味深い歴史が伝承できていなかったのは非常に残念であります。私の勉強不足でしょうが、文化の継承がこんなに難しいわけだから音楽の文化の継承はさらに難しいのかもしれないとしみじみと思いました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?