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責任を取らない経営者がもたらす致命的な弊害

責任を取ることは、経営だけが担える重要な役割です。

経営者にとっては数字こそが人格なので、コミットした予算を達成できないイコール人格が認められない、人権も認められない、ということになります。

人格も人権も認められない以上、社員や株主に足蹴にされ、罵倒され、叩き出されても文句は言えない訳です。

では、予算未達で人格、人権を剥奪された経営者は何をすべきか。

まず、一過性の原因による予算未達であれば、たとえば減俸を甘受して自らの責任を明らかにした上で、来年度に向けた予算必達の具体的行動計画を詰めなくてはいけません。

それでも翌年、再び予算を外したら、もはや適性がないことは明らかなので、潔く身を引くしかないでしょう。

また、翌年を待つまでもなく、経営者の能力不足に起因することが明らかであれば、その場で職を辞するしかありません。それが、能力のない経営者が会社に対してできる最大の貢献だからです。

では、経営者が責任を取らないと、どうなるか。

社内に「この会社では、誰も責任は取る必要はない」というメッセージを強烈に発信することになります。

経営者は、部下に何ら責任を問う資格を失います。

部下はどんな指令も真に受けなくなり、部門予算はおろか、細かい業務指示にすら従う動機を失います。

通常であれば、「業務指示」には責任が伴い、その通りに履行して失敗すれば指示者が責任を取り、その通りに履行しなければ部下の責任を問うことになります。

しかし経営者が責任を取らない(=課せられた役割を果たさない)会社であれば、それ以下の誰も、役割を果たすいわれはないのですから、業務指示に従わないのはもちろん(「その通りにやって失敗したら、誰のせいですか?」)、予算を達成する動機すら生まれません。

ましてや、多くの痛みを伴う改革に付き合う理由など、これっぽっちもなくなります。

責任を取るつもりのない経営者は、論理必然的にこのような会社づくりを目指しているといえます。

そうなると指揮命令系統は崩壊し、早晩、会社は潰れます。

一方で、自分は責任を取らないが、部下の責任だけは厳しく問うタイプの経営者も多いですね。この手の会社は、責任追及を恐れる部下が(会社を辞めない限り)頑張るので、意外と短期的な業績が悪くなかったりします。

そのような会社には、共通して以下の特徴があります。

■ 「何が正しいか?」でなく「誰が正しいか?」=「経営者!」が価値観なので、自分の頭で考える社員が消滅する

■ 「経営者に近くなる=正解に近くなる」という価値観なので、経営者に近づくことで正当性を得よう(威を借りよう)とする社員ばかりになる

■経営幹部も無謬でないと経営者にダメージが及ぶので、経営者のミスを幹部が一緒になって隠蔽しようとする(帳簿の改ざん等)

■結果、重大な経営判断ミスが放置、あるいは増幅される(簿外の損失が拡大する等)

■経営者のミスを転嫁されないよう、みんなで予防線を張り、新しい取り組み(特に社長案件)から懸命に逃れようとする

■経営者のミスを(運悪く)転嫁された社員をみんなで寄ってたかって責め立てることで、自分自身に火の粉が及ぶのを避ける(いじめ加担者の心理)

■あまりに馬鹿らしいのでまともな人間はすぐに辞める

■辞められない人間は、冷笑主義で自分の身とプライドを守るか、常に次のターゲットを探して延命を図る

■メンタルヘルスに問題のある社員が業界水準の何倍も発生していて、休職者も異常に多い

■新しい取り組みは何も生まれないので、緩慢な死を迎える

このような会社は、さらにタチが悪いです。緩慢な死を迎えるまでに、多くの害悪を社内外に撒き散らし、崩壊の過程で多数の従業員や取引先を道連れにするからです。

経営者が責任取らないと、その害は広範囲・長期間に及び、多くの関係者が不幸になります。

責任を取りたくないという人は、人類正義のため、ぜひ経営の座にはつかないで頂きたいと切に願います。

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