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【妖怪百科】沼御前

 ヘビ女系の妖怪の中で、沼御前が好きだ。なんとなく好きだ。そのなんとなくを解き明かすべく今日も駄文を書き連ねていこう。

 お偉いさんの奥様を古語では「御前」ということがある。沼から出てくる御前様なので沼御前。湖でもなく、池でもなく、なとなく汚くて嫌な雰囲気のする沼と、御前様という高貴な呼び名が合体して、言いようもない不思議な妖怪となる。御前なので妻という属性を持つ言葉で、ある程度の年齢の女性で気品漂うたたずまいがイメージされる。だが、出てくるのは沼。実に奇妙で甘美なシチュエーションだ。正体はいわゆるヘビ女なのだが、どうも蛇に取り憑かれたり呪われたバケモノではなく、蛇と合体手術を施された怪人でもなく、原始的な水神信仰を拠り所とし、仏教などの外来宗教に追いやられ妖怪化した地霊のような属性を持っているように思う。伝承として残っているものは、恐ろしい大蛇の大厄のような扱われ方だが、語られることなく滅びた物語の中に、御前の高貴さに結びつく美しい情景があったのかもしれない。しかし、本当のお話は誰にもわからない。

 話は飛ぶが、手塚治虫の「火の鳥 太陽編」では、政治と結びついた巨大な宗教の神が、地域密着型原始宗教を邪教として駆逐していく神々の戦いが描かれている。政治と結びついた巨大宗教の前で、小さな信仰はひとたまりもなく、邪悪な存在、つまりは妖怪として忌むべきものとなり力を失っていく。巨大スーパーに追いやられる小さな八百屋の如く、いつの時代もグローバルで巨大な力の前にローカルで小さきものはなすすべもない。そういった世の無常を、妖怪達は孕んでいるというのはいささかロマンチックすぎるだろうか。

 一方で水神信仰は、水害を中心とした水に対する恐怖と、田畑を潤す恵の水への感謝が入り混じって形成される。究極系は龍神と考えられ、水神信仰の頂点と思える。龍は蛇と結びつき、時として八岐大蛇(ヤマタノオロチ)のように巨大な恐怖として現れることもある。ここで水神信仰と蛇の結びつきは理解できるのだが、清姫伝説や雨月物語に代表される女性と蛇の結びつきはいかなるものだろう。女性の情念がヘビとなり云々という設定の物語は多く、日本人はずいぶんその結びつきを刷り込まれたものだ。では少しロジックで考えてみる。

 水神=ヘビ 信仰の歴史的に成立する
 ヘビ=女性性 物語文化的に多く成立する
 ヘビ=男性性 ヘビ男はあまり聞いた事がないので成立しないとする
 水神=女性性 成立することもある
 水神=男性性 成立することもある

 水神と女性性の関係においてイコールは絶対条件としては成立しない。女性はヘビとは結びつくが水神とは必ず結びつくわけではないと結論づけられ、経験的にというか印象的にもなんとなく合点がいく(わたしだけか?)。日本書紀に水神の属性を持つ女神は登場するが、男神の数より特段多いわけではなく、水神の条件に女性であることは必須ではないと理解いただきたい。
 さらに考察を進めると、水神と結びついたヘビは邪であれ、聖であれ神だが、女性と結びついたヘビは化け物、あるいは妖怪となると言えないだろうか。

 ここで沼御前の輪郭が見えてくる。神であったヘビが、信仰を奪われ化け物の地位に落とされ、化け物の属性ゆえに女性と結びついた。しかし元は神であったため、その高貴さは隠せず御前を思わせる姿となり世に現れたのだ。沼御前も御多分に洩れず男を惑わせ襲うのだが、清姫系の妖怪と異なり一人の男に執着せず、福島県大沼郡金山町の沼沢沼という場所を根拠に出現する(ここも神っぽい)。出てくる場所はどろっとした沼だが、沼御前の行動に恋愛や情念といったどろっとした感じはなく、割と万人に向け分け隔てない恐怖を平等に与える姿に好感が持てる。時に特定の男性に執着する妖怪のように描かれる事があるが、それは濡れ女と混同しているのではないかと思われる。まあ、妖怪のことなので、何が事実かは会ってみないとわからないが、江戸に創作されたであろうドロドロ色恋沙汰妖怪とは一線を画し、土地に根ざした怒りや恐怖、哀愁や格式を感じる事ができ、それが私を惹きつける魅力なのだろう。


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