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芥川龍之介「恋愛はただ性慾の詩的表現を受けたものである。」の極めて個人的解釈

Twitterの中国語が達者なフォロワーから、「芥川龍之介の"恋愛はただ性慾の詩的表現を受けたものである。"という格言はどんな意味なのか、教えて」と質問を受けました。

面白い質問だったので、回答を共有します。

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こんばんは。
質問ありがとうございます。
簡潔に答えてみます。

この言葉は、
『或阿呆の一生・侏儒の言葉』 (角川文庫)に収録されている言葉ですよね。
いま、手元にもあって読み返してみました。

解釈するには、後ろの言葉と合わせて理解するといいかなと思います。

この言葉の全文はこうです。
「恋愛はただ性慾の詩的表現を受けたものである。少なくとも詩的表現を受けない性慾は恋愛と呼ぶに値しない。」

ここでポイントは、
引用されるときに書き落とされることの多い、以下の箇所だと思います。
「少なくとも詩的表現を受けない性慾は恋愛と呼ぶに値しない。」

たぶん、僕たちは、詩的な表現(例えば誰かのことを思ってときめいたり、「夢に見たから」と嘘をついてでもLINEをしてみたり。
誰かのことが心から好きになると、そんなあざとさとか、意味のない駆け引きをしてみたくなるのだと思います。

別に好きでもなくても、見た目がそれなりに好みなら、排泄みたいに、性欲を処理するようなセックスをすることはできると思います。
(実際にするかはさておいて)

でも、そんな獣じみた性欲の発散は、恋愛とは呼ばなくて。

穴があって棒があって…という異性の肉体以上の、「心」というよく分からないものまで欲しくなる。

そんなときに、詩的な表現をして、その局地が夏目漱石の「月が綺麗ですね(I love you.)だったりするのだと思います。

いま思いついて、即興で書いたので論理の筋はやや粗いですが。
いかがでしょうか。

***

明けましておめでとうございます。
今年もいい年になりますように。
宜しくお願い致します。

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