雑記:ライアン「監視社会」についての思いつき

 ヒース『ルールに従う』をちょっとながめていた。難解で知られる本だし、なんとなくわかるところを読んでいただけだけれど。動物の利他行動と人間社会の関係がどう論じられてきたかを整理した第6章が面白い。

 これを読んでいてふと、デヴィッドライアンの『監視社会』は、進化論やゲーム理論の観点を意識して書いたほうが明晰になったのでは、と思った。あの本はソーカル事件の少しあとに出ているので、ライアンはポストモダンと自分の議論はちがうと主張しているけれど、なんだかんだいってもポストモダンの尻尾を引きずってることは否めない。

 ライアンは同書で、次のように主張している。

近代に至って、交通や通信が人々を一段と流動化し、諸々の社会的制度が人々の関係を媒介するようになると、統合の様式は急激に変容し始めた。たとえば、署名が、正当なアイデンティティーの保証としてますます重要なものとなり、銀行等の組織にも採用された。(中略)個人識別番号といった信用の証拠が、従来からの、共在する個人間の関係に由来する信用の代用物となった。/(中略)通信情報テクノロジーによって、ファクスや固定電話による通信に加え、eメール、クレジットカード決済、携帯電話、インターネットも登場する。(中略)こうした関係の浸透が加速するにつれ、伝統的な統合様式を代替するものの追求も加速される。(中略)個人情報への集中的かつ意図的な注視、これを私たちは監視と考えるわけだが、これこそが、非身体的な関係を束ね上げる主要手段なのである。

 ライアンは、手紙とか郵便とか電話とかインターネットとか、知らない相手とやりとりするテクノロジーが誕生すると、顔を合わせたこともない相手とやりとりすることが増え、相手がどういう人間かを知るための情報が重要になっていく、という。そのために相手の個人情報を確認するための認証システムが必要となる。この傾向が暴走すると息苦しい監視社会がうまれてしまう、というのが、彼の主張の大まかな内容。

 じつは、同じような話が進化論やゲーム理論の世界でもされているらしい。「ルールに従う」には次のようにある。

互恵性に基づく利他的性向が維持可能なものとなるためには、それが過去に自分を助けた人を助ける性向だけでなく、過去に自分を助けなかった人を助けない性向をも含まなければならないことに注意すべきである。(中略)フリー・ライダーたちからこうした利益を剥奪する何らかのメカニズムがなければ、フリー・ライダーたちは、利他主義者たちの犠牲において、自分たちの人口比率を着実に増加させることになるだろう。(中略)もしゲームの各回の終わりに,各プレーヤーが選択した戦略に関して十分な情報が伝達されるならば,各人は協力者としての「評判」を発展させ、他者からより大きな協力を引き出すことができるだろう。(中略)このことは合理性に基づくゲーム理論家たちによって、広く自明なことと考えられていたが、進化理論家たちによって発見のようなものとして受け取られることになった。

 誰かと協力して行動するには、相手が信頼にたる相手かを判断するための情報が重要となる。そうでないと、こちらは恩恵を与えたのにお返しをしてくれないフリーライダーを排除できない。同じような議論がここでもされている。

 ただライアンは、「情報」が重視されるようになったのは直接顔を合わせないやりとりが拡大する状況が生まれたからだと考えていたけれど、そんなこともない。初対面の人や、近所に住んでて顔を合わせるだけの人だって、信頼できるかどうかわからない。

 なので、顔を合わせたやりとりしか存在しない小規模な共同体でも、「情報」の共有はやはり必要となるわけだ。人間がゴシップを好むのは、他人についての「情報」を共有してフリーライダーを排除するために進化した性向ではないかという説をどこかで読んだことがある。じっさい、顔見知りしかいないような地域が住人の相互監視にみちていて息苦しい、なんて話はよくきく。すると、監視社会の息苦しさは現代特有のものではなく、村八分が行われる地方共同体の息苦しさと同じ動機から生じているのではないか。こんなことは、もう誰かがすでに指摘しているかもしれないけれど。

 

 

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