棄権してほしいのは“今回の”選挙だけ?――東浩紀の反選挙思想

10年前にも「選挙はお祭り」

 批評家の東浩紀が、「積極的棄権の声を集める」という署名活動をはじめた。「人々に棄権を薦めるような言動をするなんて、とんでもない!」と批判の声があがるいっぽう、現時点で東のもとには5000人の署名が集まってもいる。

2017年秋の総選挙は民主主義を破壊している。「積極的棄権」の声を集め、民主主義を問い直したい。

 東は、自分の意図をこう説明している。今回の選挙は実施するに値しない。そう考えているのは自分だけではないはずだ。よって「積極的棄権」の署名によりその意思表示をすべきである、と。

「今回の選挙、くだらなすぎる」 投票棄権の賛同署名を集める東浩紀さんの真意とは?

 しかし東の意図が「今回の選挙」を批判することだけにあるなら、たんに安倍首相の衆議院解散への反対署名を集めればよい。なぜ東は「棄権」という言葉にこだわるのか。

 じつは東が選挙に否定的な主張をしたのは、今回が初めてではない。今から10年前、2007年に行われた、批評家の大塚英志との対談でも、東はこんなことを述べている。

(前略)ぼくは最近、選挙ってそんなに重要なのか、とよく考えるんですよね。そもそも投票権の行使と言ったって、三年に一回、あるいは四年に一回、お祭りをやるだけですし。(『リアルのゆくえ』、p239-240)

 ちなみに今回の署名活動の宣言文では、東はこう述べていた。

選挙だからしかたない、どこかに投票しなければというのは思考停止です。総選挙には600億円を超える税金が投入されます。議員たちはその血税を原資にお祭りを演じているにすぎません。(「2017年秋の総選挙は民主主義を破壊している。「積極的棄権」の声を集め、民主主義を問い直したい」)

 選挙は無意味なお祭りである、という考えが、10年を隔てたこのふたつの文章で共通している。すると東は、たんに「2017年秋の総選挙」に怒っているだけではなく、もともと選挙は無意味だという考えをもっており、今回の件に乗じてそれを表に出したのではないだろうか。

 東は今回の選挙が「民主主義を破壊している」といい、自分は民主主義の大切さを理解しているがゆえに、あえて「棄権」署名を行ったのだというポーズをとっている。もし、東がもとから選挙に批判的な考えの持ち主であったなら、このポーズは信頼できない。

大塚英志が指摘していた東の「反民主主義」

 東の思想に反民主主義的傾向があるとにらんでいたのは、ぼくだけではない。先述の大塚英志は、2000年代はじめにはすでに、東にそうした懸念を抱いていたようだ。二人はこの問題について、対談で何度か論戦している。これについては、以前次の記事に書いたとおりだ。

東浩紀の伝言ゲーム――アーキテクチャー論をめぐる、大塚英志との論戦について

 論争のくわしい経緯は上の記事を参照してもらうことにして、大塚との争点がどのようなものだったかを簡潔に紹介しておく。

 東日本震災より以前には、東周辺の論者たちは、政治的意識にめざめたり権力を批判したりするのは危険なことであり、現状にひたすら適応するのが良いのだとさかんに主張していた。たとえば東の主著『動物化するポストモダン』は、政治とか社会とかいった「大きな物語」に興味を抱かず、萌え要素で欲求を満たして生きるのが現代風のライフスタイルだ、と論じた本である。

 東が07年に大塚と対談を行ったさい、選挙を疑問視するような発言をしたのも、こうした文脈によるものだ。じっさい東はおなじ対談で「オタクたちが楽しく遊べる遊び場をどのように維持していくか(『リアルのゆくえ』、p188)」が現在の自分の関心であるとも述べている。「遊び場」というのはもちろん、「動物化」したオタクたちが政治にとくに関心を持たず生きていくような社会を指す。

 大塚はこのとき、そんな東を「君が言っていることっていうのは、読者に向かって、君は何も考えなくていいよと言っているようにぼくにはずっと聞こえるんだよね(『リアルのゆくえ』、p211)」と批判した。東の考えにしたがえば「特定の知識人たちで国家を運営していくことになってしまう(『リアルのゆくえ』、p232)」だろうと。

 東のいう「遊び場」も、当然誰かに管理されているはずだから、この批判はもっともだ。『リアルのゆくえ』に収録された対談では、東は大塚のこうした批判にまともに答えることができなかった(詳細は先述の「東浩紀の伝言ゲーム」を参照)。

「選挙のない未来」を提唱

 東が選挙や政治参加を嫌う理由は、長くなるので別の機会に説明しよう。ともあれ、東が大塚の批判にめげなかったのはたしかだ。そのことは、東が例の対談集の三年後に刊行した『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』からもうかがえる。

 東は同書で、次のように主張した。従来の民主主義はコミュニケーションを重視していたために、いまや限界に突き当たっている。現代は「情報の流通量が飛躍的に増加し、人々があまりにもたやすく繋がるようになってしまったため、逆にあらゆる人が『議論の落としどころを探れない他者』に悩まされるようになった(『一般意志2.0』、p95)」時代であり、もはやコミュニケーションは成立しないからだ。東はその根拠として、差別主義的なネットユーザーを挙げる。

そんなこと(山川注:現代はコミュニケーションの成立しない時代だという東の説を指す)はない、と思う日本人の読者は、2ちゃんねるあたりに出向いて、ネットユーザーがとくに好きな日韓関係や日中関係について「議論」を交わしてみるとよいだろう―たいていは途中で時間と労力が尽き撤退に追い込まれるはずだが、そのありかたそのものがハーバーマス(山川注:コミュニケーション重視の政治思想を語った哲学者)が考えた規範へのわかりやすい反例になっている。(『一般意志2.0』、p97)

 この主張は強引すぎる。話の通じない差別主義者は、現代特有の存在ではない。ナチスがものわかりのいい人たちだったとでもいうつもりだろうか。

 しかしこの点に深入りするのはやめ、議論の続きを追うことにしたい。東はコミュニケーション不全な現代社会にも対応できる新しい民主主義システムなるものを提唱する。彼によれば、このシステムはコミュニケーション抜きで人々の無意識的な欲求を救いあげられるのだ。

来るべき国家においては、有権者が責任をもって民意を託す選挙、およびそのまわりに張り巡らされる熟議の空間(中略)とは別に、大衆の不定形な欲望を対象とする巨大な可視化装置が準備されなければならない。(『一般意志2.0』、p182)

 具体的にいうと、こうだ。新しい民主主義システムでも、選挙や議会は従来どおり行う。ただしこのシステムではそれにつけくわえて、議会をニコニコ動画のように、一般の人からコメントをつけられるかたちで公開する。これが「大衆の不定形な欲望を対象とする巨大な可視化装置」だ。東によると、議員らは大衆のコメントによる圧迫を感じながら意思決定をすることになる。

 ようするに、東はニコニコ動画のコメントを無意識の垂れ流しと考えているらしい。よって、ニコニコ風コメントで議員に圧力をかければ、無意識を政治に反映したことになる、といいたいようだ。

 あまりにしょうもない主張なので、がっくり来た読者もいると思う。まずニコニコのコメントが無意識のあらわれであるとする点からしてあやしい。東のシステムの場合、コメントをつけるのはおもに政治的関心の高い人々だろうから、なおさら意識的なものばかりになるはずだ。政治に関心のない人々は、そもそも議会中継などみない。

 しかし、重要なのはこの先だ。東は同書の最終章で、はるかな未来、このシステムにより、どのように国家が運営されているかというヴィジョンを語っている。そこでは、無意識をすくい上げるシステムはますます優秀になり、人々の不満はすぐ政治に反映されるので、彼らは日常生活でほぼ政治を意識しない(議会にふだんからコメントをつけつつ政治を意識しないで生活するのは不可能だと思うが、ともかく東の議論ではそうなっている)。

 では、この未来国家で、ある政治家がコメントを無視して議事を進行したらどうなるか。当然、コメントは荒れてしまう。

ではそこで(中略)、もし、荒れたコメント群を自動的に分類し分析し、視聴者の支持を集める有力ユーザーを何人か抽出するようなシステムがあったらどうだろうか。言うまでもなく、その抽出は、単純に情動的な支持だけではなく、問題の討議についての知識や過去の実績も考慮されて行われねばならない。(『一般意志2.0』、p244)

 東は、こうした方法で選ばれたユーザーが次の政治家になるかもしれない、という。つまり未来世界では、政治家は選挙によってではなく、ニコニコ動画風システムのコメントを利用して選ばれる。

 おそらく、東の意図はこうだ。選挙をはじめとして、積極的な政治参加を否定したいという考えは、大塚と論争したころから変わっていない(『一般意志2.0』の描く未来の理想社会でも、人々はふだんほとんど政治を意識しないものとされている)。しかしそれでは大塚のいうとおり「特定の知識人たちで国家を運営していくことになってしまう」。東もさすがに、たんなる独裁政治を望ましいとは思わなかった。

 そこで東は、ニコニコ動画のコメントに目をつけた。ニコニコのコメントは、無意識の垂れ流し以外のなにものでもない(東の主観では)。これを政治に活用すれば、人々は意識的には政治参加せず、かつ民意を政治に取りいれていることになる。将来的には選挙もこのシステムで代替すれば、東流のユートピアが完成、というわけだ。

 しかし東は、ニコニコ風コメントを選挙のかわりにする具体的な方法を思いつけなかった。だから、この理想をSF風ヴィジョンとして語ったのだろう。どの程度コメントが荒れたら政治家を交替させるのか、有力ユーザーを抽出する手段はなんなのかといったことを、すべて未来のテクノロジーに丸投げできるからだ。

 『一般意志2.0』の語る発想は、子供じみたものといえる。独裁を望むのでなければ、選挙をするしかない。東はこの当然の理を受けいれまいとして無理な議論を積み重ね、完全に現実ばなれした思考に陥っている。

 東が今回「積極的棄権」を訴えたのは、この反選挙思想がふたたび浮上したためかもしれない。東はもともと、自分の真意をあいまいにしつつ、もっともらしくみせる文才に長けた人物だ。今回の署名呼びかけでも、安倍の衆議院解散に反感をもつ人々が、つい乗せられかねない程度には、巧妙な言い回しを選んでいる。しかし、本記事で紹介した過去の発言をふまえれば、彼の主張がいかに無責任なものか、よくわかるのではないだろうか。

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