仲正昌樹教授は、連載ブログでなにを語っているのか――番外:ジャック・デリダ『哲学の余白』 をめぐる捏造

そのⅠ そのⅡ

 今回はポストモダンを論じている論者ではなく、ポストモダニストの代表格であるジャック・デリダその人を扱います。「仲正昌樹教授は、連載ブログでなにを語っているのか そのⅠ」の続編にあたる内容なので、未読の方はまずそちらをお読みください。

今回取り上げる仲正先生の記事は「日本的な反ポモ集団は、読解力の低さによって“結束”しているのか?―山川ブラザーズの甘えの構造」です。 http://meigetu.net/?p=5996 魚拓はこちら http://archive.is/KMAtd

 仲正先生は、以前ぼくにこんなことをいってくれました。

「ブランクスレート」説というと、何か新しい概念のように聞こえるが、これは高校の倫理などで習う、「タブラ・ラサ(心は白紙)」という考え方のことである。高校の倫理レベルの哲学史の知識があれば分かるように、タブラ・ラサは、ロック以降のイギリス経験論の基本にある考え方である。イギリス経験論の系譜に連なるのは、構造主義/ポスト構造主義等の((1)の意味での)“ポストモダン系思想”ではなくて、むしろこれと水と油の関係にあると思われている分析哲学である。西欧哲学史の常識があれば、「ブランクスレート」説批判を、「構造主義」批判とほぼイコールで結ぶのは見当外れであることが分かるはずだ。山川には高校生や大学一年次の哲学概論レベルでの常識もないのだろうか?「ポストモダンをめぐる大陰謀論」(http://meigetu.net/?p=5417)

 ブランクスレート説とは仲正先生のいうとおり、ラテン語の「タブラ・ラサ」を英訳したもので、人間の心や思考が生物学的要因にあまり左右されていない、という考えのことでした。生まれたての赤ん坊の心は新品の石板のようにまっさらだ、というわけです。

 仲正先生によると、ブランクスレート説と関係が深いのは分析哲学のほうであってポストモダンではなく、そんなこともわからないのは、ぼくに「高校生や大学一年次の哲学概論レベルでの常識」がないからだそうです。

 黙っているのもしゃくなので、ぼくも反論してみることにしました。じつは、ジャック・デリダがこんなことをいっているのです。この発言を、ツイッターで仲正先生に投げかけてみました。

差異はトポス・ノエートス(叡智界)のなかに書き込まれているのでもなければ、あらかじめ脳髄の蝋板に書かれているのでもない。(中略)ただ諸差異だけがそもそものはじめから徹頭徹尾「歴史的」でありえるのだ。(『哲学の余白 上』、p48)

 トポス・ノエートスというのは、プラトンのいうイデア界を指しているようです。差異はイデア界に存在しているわけでもなければ、あらかじめ脳髄の蝋板に書かれてもいない、とデリダはいっています。人間は、知覚情報にさまざまな差異や同一性をみいだして分類や整理をしなければ、外界を認識することができません。デリダは、この差異が脳髄の蝋板に書かれておらず、徹頭徹尾「歴史的」でありえるものだ、といっているのではないでしょうか。すると、デリダは、人間の認識が根本から文化的産物であるという、ピンカーが次のように批判した説を唱えていることになります。

モダニズムとポストモダニズムは、とっくに否定された知覚に関する説――感覚器官は色や音の集まりを未処理のまま脳に提示するだけで、知覚体験の中にあるそれ以外のものはすべて学習された社会的構築物だという説にしがみついている。(『人間の本性を考える (下)』、p251)

 仲正先生はこれにたいして、まずは、ピンカーがポストモダンを敵視していないという、そのⅠで指摘した捏造をくりかえしています。

また、「ブランクスレート説」批判を展開している主要な論客である認知心理学者スティーヴン・ピンカーは、ポストモダンを主要な論敵に想定しているわけではない。哲学史的には、「ブランクスレート=心は白紙」説は、ロック以来の英国経験論の特徴とされている。経験論的な立場を取るのが、山川の言う「ブランクスレート」説だとすると、英米の分析哲学の大半がブランクスレート説に従っているダメな学問ということになってしまう。このことはきちんと指摘したはずだが、山川は相変わらず、自分でもよく分からないまま、適当なイメージで「ブランクスレート」という言葉を使い続けている。

 しかしそのあとで、仲正先生の主張は混乱していきます。次のくだりなど、本気でなにを述べているのかわかりません。

また、「脳髄の蝋板」という表現にひっかかって、デリダがインチキ認知科学を展開していると思い込んでしまう山川は、国語力が著しく低いか、科学の基礎知識が中学生レベル以下であるかのいずれかである。人間の脳内が蝋板のようになっているとでも思っているのか?空間とか時間、因果関係のような基本概念がどの程度生得的に定まっているかは別にして、脳全体が反液体状のまとまった物質になっていて、どの場所にどの情報が貯蔵されているか正確に決まっているわけではない。基本概念の生得性の度合をめぐる問題と、脳内の機能分化は別の問題である。デリダは当たり前のことを言っているにすぎない。

 仲正先生は、基本概念の生得性の度合をめぐる問題と、脳内の機能分化は別の問題であるといっています。はい、そうですね。そして何度も述べたように、ぼくが話題にしているのはブランクスレート説、つまり基本概念の生得性の度合についてです。デリダも、脳内の機能分化の話をしているつもりはないでしょう。どこから脳内の機能分化の話がでてきたのでしょうか?まったくわかりません。

 そして仲正先生は、とうとうデリダの文意についてまで捏造を犯してしまいました。

山川や祭谷のように、哲学についても自然科学についても基礎知識があやふやなくせに、理系的な情報を孫引きして哲学者をバカにしたがる人間にありがちの勘違いを避けるべく、念のため言っておくと、デリダが「蝋 cire」という比喩を使っているのは、物質の本質をめぐるデカルトの「蜜蝋の分析」を念頭に置いているからである。これは、哲学をちゃんと勉強している人なら、必ず知っているはずの比喩である。デリダ自身が、脳を蜜蝋状の板でとしてイメージして、その前提で議論をしているわけではない。

 仲正先生は、デリダが脳髄の蝋板といっているのはデカルトの「蜜蝋の分析」を踏まえてのことであり、ブランクスレートは関係ないと述べています。「蜜蝋の分析」については、ここに竹中利彦さんという方の論文があります。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/24596/1/2502.pdf

 蜜蝋は過熱すると、見た目も手触りも匂いも、まったくちがうものになってしまいます。しかしぼくらには、やはりそれが蜜蝋であるとわかります。五感のとらえる情報がまったくちがうのに、人間が蜜蝋の同一性を認識できるのは、「精神の洞見」「知性」の力によるものだ、とデカルトは主張しているのだそうです。

 しかしこの話と、デリダの蝋板とは、うまくかみ合いません。デリダもデカルトも認識の話をしているとはいえ、デカルトの蜜蝋が外界の対象であるのにたいし、デリダの蝋板は脳内にあるのですから。

 じつは、デリダが脳髄の蝋板という言葉で意識しているのは、デカルトではなくアリストテレスなのです。ぼくも知人から教えてもらったのですが、ジョルジュ・アガンベンの著書には、次のように書かれているそうです。

…『霊魂論』第三巻に見られる一節である。アリストテレスは其処で、ヌース、つまり潜勢力という状態にある知性ないし思考を、まだ何も書かれていない書板に喩えている。『書板(グランマティオン)が、現勢力という状態にあっては何も書かれていない(が、潜勢力という状態にあっては字が書かれていると言える)のと同様のことが、ヌースについても起こる』。紀元前4世紀のギリシアでは、パピルスの紙の上にインクで書くというのは、唯一の通例の書き方ではなかった。薄い蝋の層で覆われた書板を尖筆でひっかいて書くというのがより普通であり、特に私用ではそうだった。自分の論考の決定点に至り、潜勢力という状態にある思考の本性と、思考が知性の現勢力へと移行する在り方とを探求するときに、アリストテレスが例として用いているのがこの種のものである。恐らくそれは、彼が自分の思考のあれこれをその瞬間に書き留めていた当の書板自体だったのだろう。(『バートルビー 偶然性について』、p11-12)

 アガンベンによると、アリストテレスは人間の知性を、なにも書かれていないグランマティオンという書板にたとえています。この書板は薄い蝋の層で覆われていて、先のとがった筆で文字を書くものだったということです。脳髄の蝋板とは、まさにこの書板を指しているのでしょう。

 アガンベンは、さらに興味深いことを述べています。

西洋哲学の伝統において、この譬喩は幸運に恵まれた。「書板 grammateion」を「白紙 tabula rasa」と初めて訳した『霊魂論』のラテン語訳者は、この譬喩を新たな歴史に委ねた。(『バートルビー 偶然性について』、p13)

 アリストテレスの書物がのちにラテン語訳されたとき、この書板が「tabula rasa」に置きかえられたのだというのです。するとデリダは脳髄の蝋板という比喩によって、まさしくタブラ・ラサ説、つまりブランクスレート説を主張していたことになります。

 ぼくははじめ、仲正先生もうっかりしたのかなと思っていました。しかしこれまでに彼が重ねてきた捏造を考えれば、ただのミスとは思えません。たとえアリストテレスについて知らなくても、書きこみのない蝋板といわれれば、ふつうはなにか字を書く道具なのだろうな、と考えるものではないでしょうか。ましてや仲正先生は哲学教授であり、〈ジャック・デリダ〉入門講義という著作もお持ちなのです。

https://www.amazon.co.jp/%E3%80%88%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%80%E3%80%89%E5%85%A5%E9%96%80%E8%AC%9B%E7%BE%A9-%E4%BB%B2%E6%AD%A3-%E6%98%8C%E6%A8%B9/dp/4861825784

 その仲正先生が、こんな初歩的な解釈ミスを犯すなど、ほぼ考えられません。やはりいい逃れのため、故意に無関係なデカルトをもちだして攪乱をはかったのだろう、とぼくは思います。仲正先生はいかなる思いで、デリダの思想を批判から守るために、当のデリダ思想を歪曲したのでしょう。デリダの権威や名声が守れれば、思想の内実はどうでもよかったのでしょうか。

 ともあれ、ひとつのことははっきりしました。デリダがブランクスレートであるというピンカーの主張は、相当説得力のあるものだということです。西洋哲学について深い教養をもち、デリダについて単著も書いている著名な学者でさえ、ブランクスレートの嫌疑からデリダを守ることができず、嘘をついてごまかすことしかできなかったのですから。

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