シン・ゴジラ解読――「この国」日本と「かの国」アメリカ

はじめに

 この文章は、シン・ゴジラとはどのような物語だったのか、をテーマとしたものです。ネタバレ全開なので注意してください。

 執筆のためイムログさん(ツイッターアカウント:@Imrogfada)と長時間にわたるディスカッションを行い、多大なヒントをいただいた結果、実質的には二人の合作というべき内容になっています。そのほか、ツイッター上で多くの方々からいただいた助言も参考になりました。記憶に頼って書いているのでセリフまちがいなどはあるでしょうが、大筋はこれで正しいはずです。

アメリカはなぜ無人機を提供したか

 映画の後半で、カヨコ・アン・パタースンはアメリカを代表して矢口蘭堂に、ヤシオリ作戦のため無人航空兵器を提供する意志があると伝える。ゴジラは米軍機の大型貫通爆弾にダメージを受けて以来、接近する飛行物体を光線で無条件に撃ち落すようになっていた。この習性を利用して、無人機相手に光線を撃ち尽くさせ、事前にゴジラを弱らせようというわけだ。

 カヨコは、米軍から日本に協力したいという申し出があったのだと述べる。「この国は、好かれているわね」というカヨコ。願ってもない話だから、矢口は承諾する。

 しかしアメリカは、本当に好意から無人機を提供したのだろうか。

 ヤシオリ作戦がもし失敗すれば、ゴジラへの核攻撃は予定通り決行されることになっていた。この核攻撃はミサイルで行う予定だったらしい。ゴジラは当然、光線でミサイルを撃ち落そうとするだろう。これを予防するため、アメリカ側はなんらかの手段を用意していたはずである。

 つまり無人機でゴジラに光線を撃ち尽くさせる作戦は、もともと核攻撃の前段階として、ヤシオリ作戦とは無関係に予定されていた可能性が高い。

 矢口に無人機提供を申し出る直前のシーンで、カヨコはアメリカの政治家らしき人物と会話している。矢口に肩入れするカヨコに、彼は言う。このままでは核攻撃を主張する主流派の反発を招く。カヨコのキャリアにも傷がつき、四〇代で大統領となる夢は潰えてしまうだろうと。

 カヨコとしては、ヤシオリ作戦は支持したいけれど、出世コースを外れるのは困る。そこで主流派をなだめるため、無人機作戦をヤシオリ作戦に組みこむという案を考えたのではないだろうか。

 この案で、アメリカは次のようなメリットを得られるからだ。すなわちヤシオリ作戦が失敗すれば即座に核攻撃に移れるし、成功しても日本に貸しを作ることができるのである。またカヨコは矢口に無人機提供を申し出るとき、費用は日本が受けもつという約束を交わしているから、アメリカが金銭的な損失を負うこともない。

 ヤシオリ作戦成功後、カヨコは上機嫌で矢口に、わたしが大統領になったとき、あなたが総理なのがベストだと言う。カヨコの政治的駆け引きはうまくいったのだろう。すると矢口は、傀儡だろ? といささかげんなりした様子で答える。

 おそらく矢口はカヨコに利用されていることを知っていたのだ。それでもヤシオリ作戦の助けになるならと、彼はあえて無人機提供の話に乗ることを選んだのである。

矢口の成長ドラマ

 このくだりにかぎらず、「シン・ゴジラ」ではことあるごとにアメリカと日本の関係がクローズアップされる。劇中の人物たちは、しばしば日本を「この国」と呼ぶ。カヨコの「この国は好かれているわね」というセリフもその一つだ。いっぽうで、アメリカはくりかえし「かの国」と表現される。日米の対比が重要なテーマであることを暗示するためだろう。

 「シン・ゴジラ」が描く「この国」――日本は、集団による意思決定システムの国だ。映画の前半では「巨大不明生物」に対処する日本政府の姿を通して、意見をすり合わせるために会議をくりかえす集団意思決定の面倒くささがコミカルなほど強調される。ゴジラという災厄を前に、災害対策本部を設置するかどうか決定する会議を開かなければならないシーンが典型だ。

 映画前半で、主人公の矢口官房副長官は、政府のこうしたあり方にいらだちを隠さない。冒頭の会議では、気が急くあまり唐突に場を仕切ろうとして周囲に唖然とされる。またゴジラ被災地の惨状を前に「二時間もあったのに、対処が遅れて残念です」と、閣僚たちを責めるような発言をしたりもする。

 そんな彼の前にあらわれるのが「かの国」――アメリカの大統領特使カヨコだ。アメリカは劇中で、日本とは対照的な決断力ある国として描かれる。カヨコは矢口に、ゴジラへの対応について「わたしの国では大統領が決める。あなたの国ではだれが決めるの?」と言う。日本政府のもたもたした意思決定を揶揄しているのだろう。

 はじめのうち、矢口のいらだちはそれなりに正しく見える。彼は政府内で最初に東京湾の水蒸気噴出が生物の仕業である可能性を示唆した、大胆な発想と鋭い直観の持ち主だ。いっぽう政府のゴジラ対策は後手後手に回り続ける。日本の集団意思決定システムは、未曽有の事態を処理できるだけの機動力を欠いているかに思えてしまう。

 しかし、再上陸して都心に向かうゴジラに、アメリカが空爆を決意する時点で物語の流れは変わる。ここから、今度は決断力ある国アメリカの冷酷さ、横暴さが強調されるのだ。シン・ゴジラは日米の統治システムを、どちらも長所と短所をもつものとして描き、優劣をつけてはいない。

 アメリカは大使館を守るという名目で、日本の承諾を待たずさっさと戦闘機を東京に向かわせる。日本政府が知らされた想定被害区域は、予想を超える広範囲に及ぶものだった。あわてて都民とともに避難する閣僚たち。しかし米軍の攻撃で暴れだしたゴジラは、総理らの乗った避難用ヘリを光線で撃ち落す。日本は閣僚の大半を失ってしまったのだ。

 アメリカはその後、国連安保理でゴジラへの核攻撃を決議させる。この件について官房長官代理の赤坂が「ここがニューヨークでも、彼らは同じことをするそうだ」と述べているのは興味深い。このセリフは、劇中で問題にされているのがアメリカの対日感情ではなく、アメリカのもつ冷徹な決断力であることを強調するためのものだろう

 話を閣僚たちが死んだ直後に戻そう。甚大な被害の重荷を背負う立場となった矢口は情緒不安定になっていく。総理も官房長官もいなくなってしまって……と嘆く志水秘書官相手にヒステリーを起こし、いなくなった者をあてにするな!と怒鳴る。友人の泉に「まず、君が落ち着け」と諭され、彼はようやく自分を取り戻す。

 この一件で、矢口は変わる。先達の耐えていた重責を知り、自分が守られていたことに気づいたのだ。

 矢口が不安定になったのは、言葉とは裏腹に、彼自身が今は亡き閣僚たちを心の底で頼っていたからだろう。ゴジラの犠牲者には、矢口の直属の上司で、彼を引き上げた人物である東官房長官も含まれていた。東は旧内閣がゴジラに対処する際、穏健派の大河内総理と強硬派の花森防衛大臣の仲をとりもつなど、細かい気配りを見せていた人物だ。おそらく暴走しがちな矢口をかばうためにいままで骨を折ってきたのではないだろうか。

 もともと矢口は、強いリーダーシップで他人を引っ張れる人物ではない。一途すぎて不器用なのである。上にはしばしば生意気をいうくせに、下との意思疎通もさほど得意ではない。

 巨災対が結成されたとき、矢口は新しい部下たちに、ここでの発言は人事査定の対象とならないから上下関係を気にしないようにと言う。しかし矢口の言い方は堅すぎるので、部下たちはいまいち意図をつかめない。厚生労働省の森課長が、巨災対はそもそも出世と無縁なはぐれ者や変わり者の集まりだから好きにやっていい、とかみ砕いた説明をしているのはそのためだ。

 森課長との関係からもわかるように、矢口はむしろ周囲に支えられるタイプなのである。政治的手腕はつたないが、その情熱や理想は本物だ。だからこそ、矢口のまわりには味方をしてくれる者たちが現れる。

  周囲の助けあってこその自分なのだと気づいた矢口は、日本の集団意思決定システムを――全面的にではなくとも、ある程度は――受け入れていく。

 映画後半で、カヨコは矢口に「この国では、好きにするのは難しい」と言う。このセリフは「あなたの国ではだれが決めるの?」と同じく、日本型システムを揶揄したものだ。しかし今の矢口はカヨコに、「ぼく一人ではね」と答えることができる。彼は多くの人が協同するからこそなせることもあると学んだのだ。このセリフに続くのは、泉と赤坂が里見総理代行に矢口プランを提言するシーンである。

牧教授のゲーム

 さきに触れたように、この映画は日本とアメリカのシステムに優劣をつけているわけではない。牧悟郎元教授をめぐるエピソードからも、それはうかがえる。

 牧こそは、このゴジラ騒動を引き起こした張本人であるらしい。彼の失踪と同時に、水生生物だったゴジラは巨大化し、上陸して変態を重ねる。以前のゴジラは放射性廃棄物を食べていたが、上陸後のゴジラは食料を必要としない完全生物だ。こうした変化は、牧によってもたらされたものだろう。

 放射線障害で妻を亡くした牧は、放射性物質を作り出した人類、そして妻を見殺しにした日本を憎んでいたという。放射能をまき散らしながら日本に上陸する完全生物ゴジラは、彼が復讐のために作り出した存在なのかもしれない。

 しかし牧は奇妙なことに、人類に災厄をもたらしつつ、それを解決する鍵をも提示した。ゴジラの元素変換細胞膜を抑制する極限環境微生物の分子構造データだ。この微生物こそがヤシオリ作戦を成功させる最後の鍵だった。矢口はカヨコに、牧は人間を試したのかもしれないと述べる。ゴジラの上陸と進化は、牧にとって一種のゲームだったのだ。

 牧は「私は好きにした。君らも好きにしろ」というメッセージを残している。「私は好きにした」とは、ようするにゴジラを進化させたことだろう。では「君らも好きにしろ」とはどういう意味だろうか。

 巨災対の間准教授によれば、完全生物ゴジラを倒すには二つの手段しかない。核による細胞すべての滅却か、ヤシオリ作戦で行われた血液凝固剤による原子炉の停止と凍結である。人類がゴジラと戦えば、早晩この二つの選択肢に追い込まれることになる。だから、どちらか好きなほうを選べばいい、と牧は言っているのだろう。

 もちろん放射性物質を憎んでいた牧が、核攻撃に好意を持っていたはずはない。あきらかに極限環境微生物を利用したゴジラ凍結こそが、牧にとっての正解だったはずだ。

 だとしても、牧はなぜゴジラ凍結を実現できるかどうかで人間を試せると考えたのか? という謎は残る。たんに解析表の謎が解けるかどうかの知恵比べをしたかったのではあるまい。極限環境微生物のデータには、牧にとって重要な意味があったはずだ。

 問題は、データが残されていた場所にある。カヨコは、米国エネルギー省に残された牧のデータは意図的に歯抜けにされていたと説明している。牧の遺品から見つかった図面と合わせたとき、完全版になると。この遺品は東京湾のボートにあったものだろう。つまり日米が手を組んで情報を共有できたときのみ、極限微生物の分子構造が人類に与えられる仕掛けになっていたのである。

 牧の悲願は、国際協調だった。日米は協同してゴジラの危機に立ち向かえるか、それともアメリカによる日本への核攻撃という過去の悪夢をくりかえすのか。牧はそれを試したかったのだ。

 映画の結末で、日本は外交手段を駆使して核発射を延期させ、ぎりぎりのタイミングではあったがゴジラ凍結に成功する。すると人類は、牧のテストをクリアすることができたのだろうか?

 しかし本稿冒頭で触れた無人機提供のエピソードからもわかるように、日米の協力体制は騙しあいをはらんだものでしかない。また凍結されたゴジラが動き出せば核攻撃のカウントダウンは再開される。ゴジラの尻尾にみられる繁殖の兆しは、国際協調の困難さ、危うさを表しているのだ。だから矢口はラストで、「まだ終息には程遠いからな」と語るのである。

追記

「たとえニューヨークであっても同じ選択をするそうだ」は、ゴジラ84に登場するセリフのオマージュだということです。この点については僕の深読みだったようです。 

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