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【試し読み】『占領期の性暴力――戦時と平時の連続性から問う』 国策売春、人々のまなざし・・・ジェンダーと性的人格権の視点から

読者のみなさま
こんにちは。

新日本出版社です。

こちらのページでは、弊社12月新刊『占領期の性暴力――戦時と平時の連続性から問う』の序章部分を公開いたします。

本書は、1945年の敗戦直後、日本政府がつくった占領軍向け「慰安」施設をとりあげ、売春施設の経緯と実態を解明する中で、当時の日本人や、日本に占領軍として着任していた軍人・軍属、メディアの特派員として赴任していた外国人が日本人女性や性売買をどのように見ていたのかという分析をしています。また、占領軍向け「慰安」施設の問題を、占領下の特殊な問題として位置付けるのではなく、その根底にある日本社会のジェンダー観や人権意識まで掘り下げて検証し、戦時と平時における性暴力の連続性に着目している点も特徴です。

序章では、なぜ占領期の性暴力を議論すべきなのかという本書の中核となる問題意識がストレートに綴られています。性暴力と人権の関係性、戦時と平時の連続性など、著者の立脚点や序章以降で展開される理論の基盤となる考え方が整理されていますので、ぜひご覧いただければ幸いです。

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序章 なぜ占領期の性暴力を議論すべきなのか

 筆者は、一九九六年に海外研究で初めてニュージーランドを訪れた。そのおり、国立ヴィクトリア大学の社会政策担当教授より、「日本では、第二次世界大戦後、占領軍兵士向けの性的『慰安』施設があったが、その点に関してあなたの意見を聞かせてください」との質問を受け、返答に窮してしまった。この頃やっと、第二次世界大戦中の朝鮮半島、中国、フィリピン、台湾、そしてインドネシアなどの植民地や占領地出身者が従軍「慰安帰」として強制的に日本軍兵士に性奴隷にさせられていた問題がクローズアップされたばかりで、第二次世界大戦後における同様の問題は大きく報道されることはなかった。

 結局、筆者はその教授の問いに、「存在は知っているが、詳細に関しては知らず、ましてや論ずることは雌しい」と答えるしかなかった。その経験が頭に残り、その後約四半世紀の間に収集した資料と、社会保障分野の研究者として培った生命の尊厳と人権という視点から、あらためて占領軍「慰安」施設の設置経緯と性暴力の実態を詳らかにしたいと考え、本書をまとめた。

 本書では、当時の日本人や、日本に占領軍として着任していた軍人・軍属、メディァの特派員として赴任していた外国人が、日本人女性や性売買をどのように見ていたのか、エゴ・ドキュメント(日記や回想録)の分析も行う。さらに、戦時と平時の性暴力の連続性に注目し、「性的自由権、性的自己決定権、性的人格権」の視点から「性売買」の課題を非犯罪化の二つのモデル、ニュージーランド・モデル(完全非犯罪化)と北欧モデル(部分非犯罪化)の比較から見えてくる問題点も提起したい。

 この序章では、本題に入る前に占領期の理解と性暴力と人権に関する概念を整理したい。

一「占領期」の理解

 日本が敗戦を迎えた日は、一九四五年八月一五日とされている。しかし、同年八月九日二三時五〇分から開催された御前会議では、多くの閣僚が天皇の地位保障のみを条件としポツダム宣言受諾を主張した(一九四五年七月、ベルリン郊外のポツダムにてポツダム会談が行われた)。翌八月一〇日午前三時から行われた閣議において、天皇が和平を望む言葉を直接発したことから、議論は「無条件降伏」へと収斂した。

 日本政府は、八月一〇日午前八時から海外向け国営放送にて、日本語と英語で三回にわたり「ポツダム宣言を受諾し全日本軍の降伏を決定」したことを放送した。しかし、一般市民や日本軍兵士には、この事実が知らされることはなかった。八月一五日(日)正午に、昭和天皇による「玉音放送」がなされたことで、全ての国民が「ポツダム宣言受諾」を知り、実態的に日本が太平洋戦争に敗れたことが広く認知された。

 国際法上、日本の経戦は、「ポツダム宣言に定めた降伏文書に調印した日」、つまり一九四五年九月二日である。この九月二日から連合国軍の占領が始まり、一九五二年四月二八日にサンフランシスコ平和条約発効により日本の独立を回復するまで「占領期」は続いた。したがって、国際法上は、連合国軍による「占領」は、一九四五年九月二日から一九五二年四月二八日までとなるが、実質的な敗戦が一九四五年八月一五日であることを勘案し、本書においては一九四五年八月一五日から一九五二年四月二八日までの期間を「占領期」として、その間の性暴力に関して、特に「特殊慰安施設協会」(RAA)の設立の経緯とその実態から分析することとした。

 当然、占領期を扱うことで、その七年間の事象を扱うこととなるが、本書は戦時と平時における性暴力の基底にある共通性、つまり「女性を性売買・性暴力の対象として蹂躙している」、「男性によるジェンダー秩序を維持する」問題を探ることで現代社会における性的自己決定権、性的人格権と性労働の関係性にも一定の問題提起を行いたい。

二 性暴力と人権の関係性

(1) 性暴力の前提としての性的自由権・性的自己決定権の意義と限界

 性暴力は、一般的には、性犯罪、性的暴行、性的搾取、性虐待、セクシュアル・ハラスメントを指すが、その内容は、社会的・文化的成熟度、ジェンダー平等の発展度合によって変容する概念である。現時点では、性暴力行為の中身は、「強制性交・準強制性交、強制わいせつ、のぞき、ストーカー、盗撮、わいせつ物頒布、下着泥棒、買春、児童ポルノ製造、公然わいせつ、人身取引、JKビジネス、AV(アダルト・ビデオ)出演強要、DV、デートDV、いじめ、ポルノを見せる、避妊に協力しない、中絶の強要、戦時性暴力」等といえる。

 性暴力の中でも犯罪行為とされるのが「性犯罪」であり、様々な法律に規定されているが、以下に見るように、「性暴力」に関しては必ずしも法に明記されているわけではない。

 性犯罪は、刑法では、一七四条「公然わいせつ罪」、一七五条「わいせつ物頒布罪」、一七六条「強制わいせつ罪」、一七七条「強制性交等罪」、一七八条「準強制性交等罪」として規定されている。

 刑法の性犯罪に関する一七七条と一七八条は、二〇一七年に一一〇年ぶりに改正された。被害者の告訴がなくても加害者を起訴することができることとなった。また、「強姦罪」、「準強姦罪」から「強制性交等罪」、「準強制性交等罪」への構成要件拡大により男性も被害者とされることとなった。しかし、一七七条では、性犯罪となるためには「暴行又は脅迫」、一七八条では「心神喪失若しくは抗拒不能」との要件があり、性暴力のうちほんの僅かしか性犯罪として裁かれないということである。

 また、「児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律」(一九九九年施行、「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」が二〇一四年に改正・改称)は、同法三条の二において「何人も、児童買春をし、又はみだりに児童ポルノを所持し、若しくは第二条第三項各号のいずれかに掲げる児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写した情報を記録した電磁的記録を保管することその他児童に対する性的搾取又は性的虐待に係る行為をしてはならない」としている。本法律は、児童買春、児童ポルノを規制する法律であることから、対象を児童(子ども)に限定している。

 発達途上にある児童が、自ら児童ポルノと認識できない場合が多いなか、法により児童ポルノ概念を明確化したことには意義がある。しかし、欧米では規制の対象となっている創作物としてのポルノ漫画等の準児童ポルノに関しては、日本ではまだ検討が進んでいない状況があり、今後さらに議論すべきである。

 「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律」(二〇〇一年法律第三十一号)において、一条では「配偶者からの暴力」とは、「配偶者からの身体に対する暴力(中略)又はこれに準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動」としている。

 同法においては、「配偶者からの暴力」の中に「性暴力」が含まれていると考えられるが、具体的には記載がない。したがって、刑法一七七条の強制性交等罪の「暴行又は脅迫を用いて」性交をしたという暴行・脅迫要件を立証し性犯罪とすることになるが、夫婦間における「性暴力」を立証するのは難しいのが現状である。

 ポルノグラフィーやAVについては、「性をめぐる個人の尊厳が重んぜられる社会の形成に資するために性行為映像制作物への出演に係る被害の防止を図り及び出演者の救済に資するための出演契約等に関する特則等に関する法律」(AV出演被害防止・救済法)が成立し、二〇二二年六月二二日に公布、翌二三日に施行された。

 同法二条で「性行為」は「性交若しくは性交類似行為又は他人が人の露出された性器等(中略)を触る行為若しくは人が自己若しくは他人の露出された性器等を触る行為をいう」としている。また同条で「性行為映像制作物」とは、「性行為に係る人の姿態を撮影した映像並びにこれに関連する映像及び音声によって構成され、社会通念上一体の内容を有するものとして制作された電磁的記録(中略)又はこれに係る記録媒体であって、その全体として専ら性欲を興奮させ又は刺激するもの」として定義されている。

 この法のはらむ問題は、性暴力に関し、人権という視点から考える必要性を示す典型だと思われる。同法において、性行為に「性交」を規定していることから、法律が、「商業的な性行為を容認する」こととなり、対価を得て性交させることを合法化していると理解できる。演技において、「性交」を法的に容認したことは、演技者に対して金銭による性支配を行っていることになり、性的人格権(後述)を守ることはできないと考えられる。

 従来からも、ポルノグラフィーやAVでは、演技者が金銭を授受して「演技」として性行為を行う/行わされているが、それは「表現の自由」として、ほぼ規制されることなく行われてきた。しかし、AV出演における性暴力が潜在化している中で社会問題が存在することを訴える運動が起こってきた。そのきっかけは、二〇〇七年に、AV監督バクシーシ山下が著した『ひとはみな、ハダカになる。』〔山下2007〕という書物だった。山下は、一九八○年代後半から、女性を侮辱・陵辱し、性暴力のかぎりを尽くす「嗜虐的性願望」AVを監督し、この分野の「開拓者」とされている。同書は若者向けの嗜虐的性願望分野アダルト映像の解説書であるが、女性に陵辱の限りを尽くす性暴力を「表現の自由」を盾に映像や出版物に無制限に晒すことの問題が提起された〔宮本2022、四〜一二ページ〕。

 またアメリカでは、市民活動家のタラナ・バークが、家庭内性虐待を受けている少女から相談されたことをきっかけに、若年黒人女性を支援するNPO法人“Just Be Inc”を立ち上げ、二〇〇七年には性暴力被害者支援の草の根運動のスローガンとしてMe Too(「私も」)が使用されるようになった。欧米では、性被害を告発する運動として、#Me Tooが広く使用されている。Me Tooは、二〇一七年以降、多数のハリウッドスターの賛同を得て世界的な運動となり、日本においても映画俳優やAVに関わった出演者が性被害の告発をするようになった。同運動では、映像制作に関わる者が、「表現の自由」を拡大解釈し、出演者に対して無制限に性的表現を強いることの問題を提起した。

 しかし、世界的にも「性犯罪」を規定する法律は存在するが、広く「性暴力」を規定する法は存在しない。したがって、「性暴力」を告発する運動は、ややもすれば、性道徳・性倫理・性規範を押し付け、表現の自由や性的自己決定権を侵害するのではないのかとの批判に晒されることもある。

 性暴力概念は、多分にその社会における文化的成熟度との関係性で変容すると考えられることから、固定的なものではないが、現時点では、国連経済社会局女性の地位向上部が定めた「身体の統合性と性的自己決定を侵害するもの」〔国連経済社会局女性の地位向上部2011、三七ページ〕との概念が世界的に共有されている。ただし、国際法ではないことから、その概念の使用に関して強制力は乏しい。

 「身体の統合性」とは、私の身体は私のもの、私の心は私のものという感覚を指す概念であり、「性的自己決定権」とは、自己の身体、生殖、セクシュアリティやジェンダーに関して――いつ誰と性的関係を持つか持たないかも含めて――その人自身が決めることとされ、「本人が望まなかった性的な出来事は、全て性暴力」〔国連経済社会局女性の地位向上部2011、三七ページ〕としている。したがって、国連の性暴力概念は「性的自由権・性的自己決定権」を唱えたものと理解できる。

 内閣府が二〇二二年一月七〜一七日に、オンラインアンケートを、また同年一〜二月にかけてワンストップ支援センター五カ所、支援団体等五カ所の計一〇カ所においてオンラインヒヤリングを行った。表 序─1はその際用いられた「性暴力被害の分類と例示」であるが、国連の定める「本人が望まなかった性的な出来事は、全て性暴力」との前提で性暴力被害を分類したものである。

 

 今日の性暴力を理解する上で重要な権利である「性的自由権・性的自己決定権」は、世界共通の権利として認知されつつある。中里見博によれば、性的自由権の核心は「性に関する他者からの強制や妨害の排除、すなわち自己決定の自由にある」〔中里見2007、二〇八ページ〕。「しばしば『性的自己決定権』といいかえられてきた」〔同前二〇八ページ)。性的自己決定権とは、「いつ、だれと、どのような性行為(あるいは生殖行為)を行うのかの決定権は、本人のみに帰属する」(同前二〇八ページ)とされる。

 一九八〇年代以降の世界的な性暴力の告発の中で、特に第二次大戦下の日本軍により旧植民地・占領地出身女性が強制連行され従軍「慰安帰」にされた人々の声は、日本においても戦時下の性暴力を真剣に考えるきっかけとなった。これらの告発の前提となったのは、性的自己決定権を奪ったことにあったことはいうまでもない。

 確かに、従軍「慰安婦」問題では「軍や警察による強制連行」があり、まさに「慰安帰」にされた女性の性的自己決定権を侵害したことは明白であり、彼女たちの尊厳を蹂躙したことから、日本国政府による性暴力被害者への謝罪と賠償は当然のことである。しかし、性暴力を、性的自己決定権の侵害のみから理解することには限界があるのではなかろうか。例えば、性産業における性暴力被害、特に売買春(性的サービスを直接売買する分野、「援助交際」や「パパ活」等も含まれる)やAV (性的演技を金銭で提供しその行為を映像として記録し販売する産業)出演問題における性的自己決定権がどのように保護法益(法律によって保護される利益、価値)として機能しているのかが重大な問題として提起されている。

 宮台真司編集の『〈性の自己決定〉原論』(紀伊國屋書店、一九九八年)において、宮淑子は、アメリカの性産業に携わる女性の声を収録した『セックス・ワーク』一九九三年、パンドラ)に言及して、「本に登場する女性たちは、セックス・ワークは自由意志で選んだ職業であり、性の自己決定である、と宣言しているのである。売春を労働として認めようともいっている。以来、自由意志の性労働(セックス・ワーク)という存在が可視化するにつれ、『売春を労働と認めていいのか』という議論や、今まで売買春は性暴力だ、売春婦はその犠牲者だ、とひと括りにしてきた考え方が揺らぎ始めている」〔宮1998、八一ページ)としている。まさに性的自己決定権を行使して性労働に従事する人は、「性暴力の犠牲者ではない」との主張である。

 また、宮台は、「戦時下、日本軍によって強制連行され、逃げることもできなかった性奴隷である従軍慰安帰の存在と、白発的に自由意志でセックスワーカーになった女性の存在を同一視し、『性の商品化』の脈絡で、性暴力の被害者の脈絡で、語るフェミニストたちのなんと多いことか」(宮台1998、一〇三〜一〇四ページ〕とも嘆いている。

 ただ、売買春を「性労働(職業としての性売買)」に収斂させ性的自己決定権の帰結によるとする発想には、二つの問題が存在する。一点目は、売買春やAV出演が自由意志による性労働なのか、との疑間である。現代社会が抱える貧困・格差問題に苦しむ女性の中には、比較的短期間で稼ぐことができる分野に仕方なく従事することを選択せざるを得なくなっている人々もいるのではないか。また情報化社会の中でさまざまな社会的・文化的誘導が存在することから、自発的に性サービスに従事した/しているといえるのかという疑問も残る。

 二点目は、性売買においては、雇用されたと仮定した場合、雇い主から一定の指示を受けて性的サービスを行うと考えられ、当然被用者は一定程度自己決定権が奪われ、つまり性的自己決定権行使が制限されるのではないかとみる疑問である。また、自営業として性的サービスを行う場合も、一般的に買春者と売春者は閉ざされた空間での行為となり、金銭を支払った買春者の方が力関係として強い権限(決定権)を持つ可能性が高く、対等・平等な関係性は保てないし、さらに、買春者は、売春者に金銭を渡したことで「売春者は、自らの性的自己決定権を一定放棄」したと理解し、売春者が買春者からの暴力に晒される可能性が高い。

 性暴力被害、女性の人権に関する事件を多く担当してきた弁護士の角田由紀子は、「男性の経済的かつ性的支配欲の満足が、売春の重要な『魅力』である」(角田2001、一三一ページ〕とし、売買春における買春者が、金銭と交換された性交において圧倒的力を発揮すると指摘している。具体的に角田は、「金の力が、それなくしてはできない行為を可能にする。『強姦』や『強制わいせつ』を模すことは、犯罪まがいの行為である。自分の恋人や妻には、同じ行為を強制することができない人であっても、見知らぬ女性に金を払えば、実行できる。女性も金銭の支払いと引き換えであるから、そのような行為の相手をする」〔同前一三〇ページ〕と述べている。

 つまり、性売買においては、売春者が常時「暴力に晒される」環境にある。これを性的自己決定権行使による「労働」と解していいのだろうか。二〇一九年五月には、改正労働施策総合推進法(通称・パワハラ防止法)が成立し、大企業は二〇二〇年六月、中小企業は二〇二二年四月からハラスメントヘの対応が義務化されている。こうした状況において、買春者による売春者への暴カ・ハラスメントを生業と見る「労働」論の下で、そうした生業の中にある人権問題が、一切顧みられることなく放置されてよいのであろうか。

 韓国では、売買春を性売買と呼び、性売買に関わった当事者が二〇〇六年に「性売買経験当事者ネットワーク・ムンチ」を結成し、性売買に反対する運動を展開している。「性売買は金銭を介した性暴力である」(金/小野沢2020、二ページ〕として、彼女たちは異議申し立てを行い、自らの経験と買春男性の実態を社会に広く知らしめる活動を行っている。

 結局、「性的自己決定権を行使し売買春やAV出演を行っている」とするには――当事者の自己理解としてはそういうありようはもちろん否定され得ないが――さまざまな矛盾がある。こうした言説は、少なくとも人権の問題を考えるうえでは、かなり限定的にしか理解できないものではないだろうか。

 この点に関し、中里見は「今日主流の売買春は、明白な物理的・経済的な強制から、文化的で問接的で曖味な強制へとその手段を移行させ、女性の外型的・形式的『合意』に基づくもの」〔中里見2007、二二五ページ〕と述べ、「現代的売買春に性的自己決定権が適用されると、それは性差別・性暴力批判として威力を失い、逆に『性的自由の放葉を自己決定』というように売買春における性差別・性暴力を肯定し正当化する」〔同前、二二五ページ〕と鋭く指摘する。彼は、「何のための性的自己決定権だったのか」の出発点に帰るべき、と訴えている。

(2) 性暴力を性的人格権から提える視点

 二〇一七年の刑法の一部を改正する法律の附則九条により、性犯罪に係る事条の実態に即した対応を行うための施策のあり方の検討の一環として、法務大臣の指示により「性犯罪に関する刑事法検討会」の第一回会議が二〇二〇年六月四日に持たれ、その後、計一六回開催された。同検討会は、二〇二一年三月五日に『「性犯罪に関する刑事法検討会」取りまとめ報告書』を法務大臣に提出した。

 同報告書では、「性犯罪の保護法益を『性的自由・性的自己決定権』であるとしており、そのような見解に異論はないとの意見が述べられた一方で、保護法益を性的自己決定権と解することに対しては、幼い子供が被害者である場合に法益侵害を観念し難いとの意見や、暴行・脅迫の程度が自己決定権を凌駕するような強度のものであることが必要となるといった意見も述べられた」〔性犯罪に関する刑事法検討会2021、三ベージ〕としている。

 保護法益に関しては、これらの他に「性犯罪は、心身の境界線の侵害であり、『身体の統合性』を破壊する行為であって、相手を対等な存在と認めないことにより、その『尊厳』を踏みにじる行為」、「性的自由に加え、尊厳、自律、身体の統合性を含んだ概念である『性的統合性』を保護法益とすべき」、「一定の上下関係に基づいて行う性的行為自体に侵害性があり、その上下関係を利用して性的利益を奪い取ることに性犯罪の本質があるから、『人格的統合性』や『性的尊厳』を保護法益とすべき」〔同前、三ページ〕との意見が出された。

 これまで性暴力・性犯罪においてはその保護法益を性的自由権・性的自己決定権であると捉えるのが一般的であったが、同報告書では、あえて人格統合性・性的尊厳を保護法益とすべきとの一部の委員の見解を掲載した。このことは意義深いといえる。

 性売買を「性労働」と位置づける論者の中には、性を人格から切り離すことを主張する者も見られる。例えば、上野千鶴子は、「性が人格とむすびつき、性を侵すことが人格を侵すこととむすびつくという見方が続く限り、性労働は他の労働に比べて逆説的な特権を持つ。(中略)性が人格から独立し、性的欲望が権力関係と結びつくのをやめたとしたら? ひとびとが凝った肩をもみほぐしてもらうように、性的緊張を解きに専門家のもとをおとずれるとされ、性労働者から社会的なスティグマが拭い去られるようになったら。そうなれば、性労働者はマッサージ師とかわらない一般職となるだろう」〔上野1998、七九〜八Oページ〕と、性と人格を切り離すことで、性売買が一般職となり性売買におけるスティグマが払拭されると唱えた。

 しかし、人格とは、「その人固有の人間としてのありかた」であり、また人間の尊厳の基本要素、基本的人権の源であることから、性(生殖としての性、快楽としての性)も、その人固有のものであり、性的人格権が付与されると考えるのが自然である。であれば、上野が提唱するように性と人格を切り離すことは不可能であろう。

 例えば、日本国憲法一九条では、「思想及び良心の自由」を侵し難い人権として位置付けている。もちろん、国家権力からの侵害、私人による侵害からも守られるとしたものであり、いわば人間の精神の自由を保障する自由権であり、人間の尊厳を形成する根源ともいえる。角田は、「思想及び良心の自由」と同様に「性的自由」も売り渡すことのできない権利として位置付けられ、その根底に「性的人格権がありうるのではないか。人権というものの考え方は、人間存在の根源をなす人間の尊厳を確認することに基礎がある」〔角田2001、 一三八〜一三九ページ〕と指摘している。

 また、中里見は、性売買批判として「性的人格権」を位置づけている。

 「性的人格権は、身体的自由権と精神的自由権の両方を結合した権利として、一切の強制から絶対的な保障を要請する。すなわち、公権力はおろか、夫の権力、親の権力、血縁的権力、社会的権カーーとりわけ経済的権カーーを含む一切の権力による強制から自由が保障されなければならない。したがってそれは、性が金銭によって売り買いされることを否定するものである」〔中里見2007、二二七ページ〕

戦時と平時における連続する性暴力への注視

 角田と中里見は、性暴力を理解する上で重要な「性的人格権」を提起した。本書も、両氏の人権視点と思考を基底に論を進めていきたい。

 また、以下の指摘も性暴力・性被害を論じる上で重要な視座だと考え引用する。中里見も副理事長をしていたNPO法人ぱっぷすは、性的人権に関し、性的人格権だけではなく、新たに「性的平等権」を掲げている。性的平等権とは、「レイプは女性という社会集団を性的に従属させ支配する行為でもあります。そこで侵害されたのは、女性という集団が平等な人間として扱われる権利です」と謳っている。

 性暴力がはびこる現代社会は、女性という集団(もちろん、性被害者は、女性だけではなく、男性も、LGBTも含まれるが、多くは女性である)が平等な人間として扱われていないことを明示する重要な権利性の指摘だといえる。この点は、戦時と平時における性暴力の根源にあるジェンダー不平等を見落とさないためにも、常に重視しなければならない点である。

 佐藤文香による、「平時の社会で女性が劣位に置かれているというジェンダー秩序が、戦時の女性に対する性暴力に繋がっていること、逆に、戦争における経験が平時の女性に対する男性の暴力を形づくるものである」〔佐藤2021、四六ベージ〕という提起は、示唆に富む指摘である。

 本章1章でも論じるが、日本軍による従軍「慰安帰」問題は、一九八〇年代以降、戦時性暴力の典型事例として日本政府による謝罪と補償を要求する大きな問題となった。従軍「慰安婦」問題は、その根底に、植民地支配による人種差別、官憲による強制連行などがある。性奴隷化した「慰安婦」から自由を剥奪し最大の恐怖を与え、人間としての尊厳すら奪った卑劣なものであったことは多くの人が承知している。しかし、この問題が、「戦時の特殊事例だから」謝罪と補償が必要だとの問題認識では、性暴力の本質を見えなくしてしまう危険性がある。

 特に、その後の占領期の特殊「慰安」施設で働かされた女性や、売春をせざるを得ない人々の問題は、ほとんど顧みられることすらない。それどころか、性的自己決定権の行使とされ、自己責任の類に矮小化されてしまう。つまり、戦時と平時における性暴力の連続性を注視しなければ、現代社会が、女性が不平等に置かれるきわめて歪な社会であることを隠蔽してしまう可能性がある。

 本書は、占領期の「特殊慰安施設協会」の設立経緯や、その当時の人々の女性観を問う。その理由は、性暴力の戦時と平時の連続性、またその根底にある男性優位のジェンダー秩序の維持という動機をえぐりだすためでもある。以下、第二次世界大戦における日本の敗戦後の占領期、日本政府と占領軍によって占領軍兵士用の売買春事業が実施された経緯を見ていくが、そこでは事実経過とともに、記録に残されたこの事業の関係者、あるいは当時の日本人の女性観、人権観についても随時ふれていくようにしたい。そこにある女性や人権に対するゆがんだとらえ方が、実は今日の社会にも残っていること、それが男性優位のジェンダー、それを上台にした社会秩序に結びついていることを確認するためである。占領当時と今日とでは、もちろん、我が国の人権状況は異なっており、今日では様々な進歩が確認できるが、同時に、日本社会に残る人権理解の遅れを、とくにジェンダー不平等の実態との関係で直視すべきと考えるからである。本書は、この論点においては、占領期の事態を検証することが有益であると確信している。

(続きは本書にて)


◆1 この運動の過程で、二〇〇九年五月にポルノ被害と性暴力を考える会(PAPS:People Against Pornography and Sexual Violence)が発足し、二〇一七年一一月にはNPO法人として認証され、二〇二〇年一〇月に正式名称「ぱっぷす」となった。
◆2 NPO法人ばっぷす https://www.paps.jp/humanrights   最終閲覧日二〇二〇年七月一〇日。

引用文献(著者名のアルフアベット順。以下の各章とも同様)
・バクシーシ山下2007『ひとはみな、ハダカになる』理論社、二〇〇七年。
・国連経済社会局女性の地位向上部2011『女性に対する暴力に関する立法ハンドブツク』信山社、二〇一一年。
・金富子/小野沢あかね2020『性暴力被害を聴く』岩波書店、二〇二〇年。
・宮淑子1998「性の自己決定とフエミニズムのアポリア」。
・宮台真司ほか著『〈性の自己決定〉原論』紀伊國屋書店、一九九八年。
・宮本節子2022「AV制作過程での性暴力被害を掘り起こす」、ぱっぷす『ポルノ被害の声を聞く』岩波書店、二〇二二年。
・中里見博2007『ポルノグラフィと性暴力』明石書店、二〇〇七年。
・性犯罪に関する刑事法検討会2021『「性犯罪に開する刑事法検討会」取りまとめ報告書』法務省、二〇二一年。
・佐藤文香2021「戦争と暴力ーー戦時性暴力と軍事化されたジェンダー秩序」、蘭信三ほか編『シリーズ戦争と社会1 「戦争と社会」という問い』岩波書店、二〇二一年。
・角田由紀子2001『性差別と暴カーー続・性の法律学」有斐閣、二〇〇一年。
・上野千鶴子1998『発情装置――エロスのシナリオ』筑摩書房、一九九八年。

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著者プロフィール

芝田英昭(しばた ひであき)
立教大学コミュニティ福祉学部教授(社会保障論)。1958年福井県出身。金沢大学大学院博士後期課程単位取得退学。博士(社会学:立命館大学)。福井県職員、西日本短大専任講師、大阪千代田短大専任講師、立命館大学産業社会学部教授を経て現職。自治体問題研究所顧問。水彩画家、社会運動家。『社会保障のあゆみと協同』(2022年、自治体研究社)、『くらしと社会保障』(2021年、日本医療福祉生活協同組合連合会)、『医療保険「一部負担」の根拠を追う』(2019年、自治体研究社)、『新版 基礎から学ぶ社会保障』(共編、2019年、自治体研究社)、『日本国憲法の大義』(共著、2015年、農文協)、『国保はどこへ向かうのか』(編著、2010年、新日本出版社)など著作多数。

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