見出し画像

お能「道成寺」(宗一郎の会)へ

畏友の林宗一郎さんによる「道成寺」に家族で参りました。まずは、コロナ禍での全席を利用しての開催に敬意を表したいと思います。満員御礼です。誰かが、まず、第一歩を踏み出さねばなりません。そのタイミングに答えはありませんが、そろそろ頃合いだとは私も考えております。

画像1

(以下、当方、能の専門ではないので、用語など間違いがあるかもしれません…)

シテ方(白拍子・毒蛇)の林さんはもちろん、ワキ方(僧)、狂言方、囃子方それぞれの至芸が舞台で繰り広げられ、目の前に道成寺の光景が立ち上がって参りました(20年ほど前だったと思いますが、道成寺で絵解き説法を聴いた記憶がございます)。間の狂言では、時代を越えて誰もが声を出して笑うことができる明解かつ懐の深い笑いを堪能することができました。

何と言っても、圧巻は舞台の天井に吊り上げられる鐘で、二時間のほとんどは、その鐘を見つめていたような気がします。最後に鐘が橋掛から持ち去られる時には、おもわず鐘に向かって拍手をしそうになりました。

鐘入り前の小鼓とシテ方との緊迫した掛け合い(乱拍子)に続き、落ちてくる鐘に飛び入る場面が見どころ。さらに、後に、鐘が吊り上げられた時の見たモノから伝わる恐ろしさは、筆紙に尽くしがたいものがあります。そこには、得体の知れない何かがありました。白い装束に着替えた毒蛇役の宗一郎氏が、衣装で身体を包んでうずくまっていたのです。

語弊を恐れずに述べると、今回、改めて感じたのは、能を見に行くには「気合いがいる」ということ。「敷居が高い」「難解である」という意味ではなく、見る側も相当の精神力を使います。能という芸能そのものが持つ力、能楽師の気迫などに惹き込まれ、完全に受身になることはできません(あくまでも私の感想です)。四拍子(笛、小鼓、大鼓、太鼓)と歌による説得力のある音、美しい装束は、否応なしに、我々を物語の中に惹き込みます。見終わった後は、間違いなく、心地良い充実した疲れを感じるでしょう。

以前、ワキ方の有松さんから「能は実はワキ方目線の物語としても捉えられる」的なことをお伺いしたこともあってか(実際はもう少しニュアンスが違ったかもしれません)、以前にも増して、ワキ方の重要性を感じることもできました。

能は、長い歴史の中で「これ以上、省略すると、物語が成り立たない」というギリギリの所まで、削ぎ落とした芸能のように感じます。ますます情報過多になっていく現代において、物事の本質の大切さも教えてくれるような気がします。

冒頭では、林さんの娘さんお二人が、それぞれ「賀茂」と「屋島」の仕舞を務められました。祭でも、子供による口上は独特の、愛らしさと清らかさがあります。学校の音楽で倣う歌とは、まったく異なる息遣いが、ここにあります。世阿弥が『風姿花伝』の中で、その年齢に応じたお稽古のやり方があって、子供の時分は、子供の内側から自然と沸き上がる心を大切に、といったようなことが書いてあったと思います。姉妹の仕舞と歌に「日本」を見ました。祇園祭・岩戸山の子供たちによる歌も、これくらい通る声を目指したいところです。

「道成寺」で後見を務められた観世流宗家の観世清和氏による舞囃子「乱」では、独特の足さばきを初めて見ました。

講演後は、拙著『日本だんじり文化論』を褒めてもらうべく、四日市の前田憲司さんと木屋町で食事。道成寺を振り返りつつ、今回も祭談義で盛り上がりました。充実した一日となりました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?