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さらばゴールデンカムイ

[ご注意]本稿はネタバレを盛大に含みます。

まずは作品について

『ゴールデンカムイ』は2014年から週刊ヤングジャンプに連載された漫画作品。作者は野田サトル。Wikipediaから引用すると「明治末期(日露戦争終結直後)の北海道・樺太を舞台にした、金塊をめぐるサバイバルバトル漫画」だそうである。「冒険・歴史・文化・狩猟グルメ・GAG&LOVE 和風闇鍋ウエスタン」というキャッチコピーもあったが、的確という声もありながら個人的にはこの「全部入り」表現が雑に感じられて好きではない。しかし実際のところ、8年間の長期連載ながら高いテンションを保ち続ける中には、この全部入り感がパワーの源泉だったと言える部分もあるだろう。

なお、2019年に大英博物館で行われた「The Citi exhibition Manga」の入り口の「顔」を、この『ゴールデンカムイ』のヒロイン・アシリパのイラストが飾ったのは記憶に新しい。

『ゴールデンカムイ』は個人的に長く読んでいた作品というわけではない。話題になっているタイトルなのは知っていたが、最近まで食指が伸ばせずにいた。読み始めたのは今から少し前である。なので自分は「遅れてきた読者」というわけだ。それでも作品に魅了された漫画好きの一人として、敬意を表してエントリでもしたためてみるかという気になった。
言いたいことはたくさんあるが、特に終盤の熱量と疾走感には圧倒された。絵としては、人物のタッチなどは正直荒削りな印象。だが、登場人物の動きを捉えるカメラ(構図)がダイナミックで、十分に引き込まれた。ページをめくったところに大ゴマで意外性のあるシーン(ヒグマが突然現れるとかね)を配置するなど、構成の工夫も効果的でよかった。北の大地を描いた背景も美しかった。

しかし、何と言ってもキャラクターの魅力が素晴らしいのである。本作は女性の主要人物が比較的に少なく、男くさい作品だと言えるのだが、その中でヒロインといえばアイヌの少女・アシリパになるのだろうか。だがアシリパはヒロインというよりも、物語の中心にあって北極星のように象徴的な存在だったという気がしている。そのアシリパが最も信頼を寄せるのは主人公の杉元だが、杉元は最後の最後まで「アシリパさん」という敬意を込めた呼び方を崩さない。信頼関係は深まるが恋愛関係に移行するようなこともない。その距離感のキープの仕方が良かった。男性の裸はわりかし頻繁に出てくるが、女性の裸はほぼ出てこない作品である。というところでヒロインは実は谷垣源次郎あたりではなかったかと個人的には思っているのだが(「思っているのだが」じゃない)。

しかし、通して読んで思ったが、8年間テンションが落ちずに走り続けて、さらに最後の大ヤマを盛り上げ、きちんと綺麗に物語を終えるというのは非常に幸せな完結だったと言えると思う。惜しみない賛辞を贈りたい。

以下、各キャラクターについてコメントを寄せてみる。コメントにはそれぞれの画像をぜひ添えたいのだが…と思ったところに、おあつらえむきに単行本の各表紙が主要キャラクターで展開されているのに気づいた。これはいい。というわけで、登場人物に合った単行本のリンクを貼ることにした。


杉元 佐一

主人公。顔もそうだが身体中に無数の傷を持つ男。軍帽を風呂でも肌身離さず、加えていつもマフラーをしている。作中でもかなりの深傷を何度も負うが、決め台詞でもある「俺は不死身の杉元だ」という言葉にたがわず、ダメージ耐性が非常に高い。20代前半という設定らしい。なお、名前の「佐一」は、実際に日露戦争に従軍した作者の曽祖父から取っていると聞いた。

隠されたアイヌの金塊を巡って登場人物たちが争奪戦を繰り広げるこの物語において、杉元が金塊を求める目的は、幼なじみであり親友の妻でもある梅子の目の病気を治し再び見えるようにしてあげるためであった。この目的に象徴されるように、彼は自分のために行動するのではなく、誰かのために身命を賭ける人物として描かれている。過剰なまでに暴力的なファイターでありながら杉元というキャラクターが愛されるのは、芯のところにそういった「信義」を感じるからであろうと思う(ちなみに信は「友情に厚く、言明をたがえないこと、約束を守ること、誠実であること」であり、義とは「利欲にとらわれず、なすべきことをすること」のことである)。

愛された理由としては、信義に厚い性格のほかに、アシリパとのコミカルな掛け合いに見られるチャーミングさもあっただろう。狂犬のような戦闘民族といった風情の軍人・杉元においてさえも、アシリパとの食事のシーンは非常に微笑ましく描かれている。いわゆる「フード理論」に見られるように、メシを美味しそうに食べるキャラクターに我々はどこか「善人」を見てしまうのである。

最終回の1話前、鶴見中将と蒸気機関車と共に函館駅に突っ込んだ杉元は、生死不明という「引き」で最終回へ。作品中で何度となく繰り返された「俺は不死身の杉元だ」というフレーズを伏線とするなら、杉元の生存問題はもう少し引っ張っても良さそうなものだった。だが最終回において、杉元は実にあっさりと復活し、登場する(このあたりの展開はもしかしたら、大幅加筆されるという単行本では多少補足される可能性があると思う)。
生き残った杉元は東京の梅子のもとへ行くのだが、梅子の目はすでに手術によってある程度見えるようになっている。杉元の旅の目的が梅子の目を見えるようにするためであったと考えると、これは少々肩透かしとも言える展開だ。結局、杉元は五稜郭で得た金塊の粒を小袋に入れて梅子とその息子に渡し、自身はアシリパたちと共に生きることを選ぶのだった。この杉元の選択は読んでいてもそれほど違和感がない。むしろここで杉元がアシリパと別れ、それぞれの道を歩いていくというラストだったらどうだろうか。長い間のバディとしての二人を見守り続けてきた読者にとっては、それは少々寂しいラストに感じられたかもしれない。だからこれでいいのである。

『ゴールデンカムイ』は、たくさんのキャラクターが散っていく話である。特に物語の終盤、決戦の五稜郭からラストの蒸気機関車のシーンで疾走感は最高潮に高まり、旅を彩ってきた主要人物たちがそこで次々に退場する。牛山、土方、尾形、そして鶴見(正確に言えば生死不明)。しかし「不死身の杉元」の名の通り、杉元は最後まで不死身のまま、生き残って大団円を迎えるのだった。

アシㇼパ

アイヌの少女。この作品におけるシンボリックな立ち位置で、ヒロインという言葉から連想される華のある存在というよりも、杉元と並ぶもう一人のヒーローといった風情である。北の大地を生き抜くたくましさがあり、ヒグマのような獣にも、屈強な大人にも物怖じをしない頼もしさがある。弓矢を武器とし、サバイバルの知識もある。アイヌの伝統をよく知り、胆力があっていつも堂々としている。年齢は明らかにされていないが、10代前半。母はアイヌ、父は樺太アイヌとポーランドのハーフでウイルクという人物。このウイルクが物語の重要なキーパーソンなのだが、詳しい説明はここでは省く。

『ゴールデンカムイ』は杉元とアシリパを中心として話が展開される。ヒグマに襲われた杉元がアシリパに助けられ、そこから物語はスタートする。序盤はそんな2人の旅と食事風景がコミカルに描かれる。アイヌの狩猟と食生活をアシリパが杉元に教示する形で、さながらサバイバルグルメマンガの風情である。有名なセリフ「ヒンナヒンナ」(アイヌ語で食事に感謝する言葉)はこの序盤で登場する。特に杉元の味噌を「オソマ」として、食べるのを頑なに拒むシーンは楽しい。

さらにコントのような白石との関係をはじめ、さまざまな人物と出会い戦いながらもキャッキャウフフと旅をする序盤は楽しさが際立つのだが、物語が核心に迫ってくるとシリアスさが加速し、アシリパの存在がひときわ重要性を増してくる。父にまつわるアシリパの記憶こそが、隠されたアイヌの金塊を見つける鍵だからである。

このアシリパについてもう一つあるとすれば、彼女が一人の人間も殺さないという「不殺の誓い」を貫く部分である(この「アシリパのイノセンス」については、尾形百之助の物語と主題的に大きく関わってくるが、尾形についてはまた後述する)。杉元はアシリパの「不殺の誓い」を守る、つまり彼女が人を殺さないという「清らかさ」ごと彼女を守るという意志があり、その危機を実際に何度か救うわけだが、自らの記憶でしか解けない金塊の秘密という事実を盾に、アシリパも杉元を守る「弾除け」となる覚悟を決めるのだ。

アシリパの父であるウイルク(のっぺら坊)が「刺青人皮」に秘した暗号を解くためにはアシリパの記憶が頼みになっている。アシリパがいなければ金塊は手に入らない。だからアシリパは殺されない。杉元と共にある限り彼女は杉元の強力な弾除けとなり得る。過酷な北海道での生活においてはアシリパは杉元の「師」たり得るが、第七師団をはじめとする「人殺しも辞さない人間の欲得」を前にしては、アシリパは杉元に守られる立場なのだ。言ってみれば「不殺の誓い」は二人の「守り/守られる」という関係を象徴するものだとも言える。しかし「『道理』があれば、私は杉元佐一と一緒に地獄へ落ちる覚悟だ」という彼女のセリフにあるように、アシリパは自分だけが人を殺さないという「聖域」に居続けるわけにはいかない、という覚悟を表明するのである。

すべてが終わり、最終話の舞台は3年後の北海道。杉元とアシリパが並んで歩く後ろ姿が描かれる。そこには明らかに以前より、身長差の縮まった二人の姿があった。


白石 由竹

本作のコメディリリーフ的ポジション。「(昭和の)脱獄王」白鳥由栄がモデルとされる。杉元、アシリパ、白石の三人ユニットが本作の基本「主人公側」という風情である。個人的に、作者の野田サトルにもっとも愛されたキャラクターではないかと思う。白石!シライシー!

最終回のラストもそうだし、時々「どうでも良さそうなシーンなのに白石の大ゴマ」という扱われ方から見ても白石の愛されっぷりがわかる。ギャンブルや遊郭が好き、享楽的でヘラヘラしており、戦わせても弱く、おっちょこちょいでミスを連発する白石は、作中ではアシリパたちから何度となく「役立たず」と呼ばれる。しかし、例えば難攻不落の網走監獄への潜入・脱出においては、彼がいなければ状況を打破できなかったと言えるほどの活躍を見せるのである。

疾走感がアップしていく物語の後半においてはコメディリリーフ的な側面は(比較的に)なりを潜め、この「昨日の友は今日の敵」という関係性の少なくない本作においてなお、アシリパさんを託されるなど、杉元から全幅の信頼を得ているようなやりとりのシーンも登場する。へなちょこに見える白石もこの物語において欠かせない重要なファクターなのだ。あとは何しろ最終回の「オチ」で、彼が文字通り「全部持っていった」というのは、やはり作者のなみなみならぬ白石愛を感じずにはいられないのである。

鶴見 篤四郎

異様な風体、狂気、野望、残忍、カリスマ性、人たらし…といった形容が並ぶであろう本作の「ラスボス」。まずルックスにギョッとする。こういうキャラの立て方もあるのだなあと感心する一方で、そう簡単には飲み込みにくい気味の悪さ、不気味さを感じることも事実。怪我によるものとされているが、感情が昂ると額からドロリと液体(脳汁)が垂れてくるのも気持ちが悪い。なのだが、キャラクターの背景を非常に丁寧に描き込まれた人物でもある。そして、彼の過去名である「長谷川幸一」時代のエピソードが、彼本人のみならず、この物語に圧倒的な奥行きを与えている。

ウラジオストクで妻と娘とともに写真館を営みながらスパイをしていた鶴見(偽名:長谷川幸一)のもとに、露皇帝爆殺事件の首謀者として逃亡してきたウイルク、ソフィア、キロランケの3人が身を寄せ、しばしの時を過ごす。しかし長谷川がスパイであることがバレ、当局から写真館が襲撃に遭う。これがすべての始まりで、その時の銃撃戦の流れ弾1発によって、長谷川の愛妻と赤子であった娘が命を落とすのである。

『ゴールデンカムイ』は北の広大な舞台を、横へ横へと広がっていく物語だ。そのエリアはまさに広大。小樽に始まって網走、果ては樺太に渡って流氷を歩き、函館まで南下してフィニッシュを迎える。それだけでも見応えとしては十分な冒険譚なのだが、鶴見の存在が物語に歴史という「縦軸」を与えている。長谷川幸一時代からの鶴見の目線に立ってみれば杉元もアシリパも金塊も歴史の一部に過ぎない。物語の核心にもっとも濃密に関わっているのは、主人公である杉元たちではなく、実はこの鶴見なのだ。

最終話の1話前、機関車の先頭で杉元との戦いのさなか、アシリパから奪った権利書の入った矢筒と、それまでずっと大事に持っていた妻子の指の骨片が同時にその手から滑り落ちる。どちらを取るか?瞬間の選択。鶴見の目線は指の骨をずっと追っているが、彼が掴んだのは権利書の方だった。そして指の骨は機関車の車輪に轢かれて砕け散る。その瞬間、鶴見は穏やかな「長谷川幸一」の顔になって、散りゆくその骨を見送るのだ(この顔が鶴見のベストショットである)。

誰しも、個人的な思いを抱えて生きている。それは社会的立場とは往々にして相容れないものだし、その二つが普通に共存することによって個人の内面は引き裂かれる。鶴見/長谷川もまた、引き裂かれたまま生きたキャラクターだったのだろう。そして暴走する機関車の轟音の中にあって、妻子の小さな骨片が砕け散るのを眺めるこの一瞬の静寂のようなシーンは、鶴見/長谷川が長く大事に秘めてきた、個人的な思いとの美しい決別のように見える。

キロランケ

「ゴールデンカムイ」という物語には、さまざまなオマージュが登場する。きっとまとめサイトがあるに違いない、と思って今検索したらやはりあったので載せておく。

そして上記サイトにも記載があるが、もっともわかりやすいのはダ・ヴィンチの絵画「最後の晩餐」のオマージュだろう。オマージュということは含意がある。「最後の晩餐」は、イエスと12使徒の計13人による晩餐において、イエスが「この中の一人が私を裏切る」と発言した瞬間の場のざわめきを描いた作品である。裏切るのはユダだ。ユダの位置にいるのは、キロランケである。これはなかなか面白い仕掛けなのだが、さまざまな人が考察しているように、キロランケの今後の裏切りを示唆しているとされる。
(以下、上記サイトより引用)

キロランケの裏切りとは、具体的には網走でのウイルクことのっぺら坊の射殺(撃ったのは尾形)である。アシリパにも「キロランケニシパ」と慕われ(この物語の中ではアシリパが慕う人物は信用に足るというジャッジメントが機能している)、それまでの道中をともにしたことで、読者にも「味方」という印象が強かったキロランケだけに、意外性のある展開ではあった。だが、杉元やインカㇻマッからはどこか信用し切れない人物として警戒されていた。

少々乱暴な言になるが、この物語の登場人物の中で「キロランケがもっとも好き」という人はそれほど多くないのではなかろうか。一般に、目的や意思の不明瞭なキャラクターに人はそれほど惹かれないからである(ミステリアスで素敵、という方向性の魅力は別だが…)。ただ、全体的な印象として謎の多いキロランケだが、その目的は説明はされている。純粋パルチザンとして、露で戦っている同志のためにアイヌの金塊を資金として「極東連邦」を作ることが彼の目的である。その時にかつての同胞・ウイルクがその思想を軟化させたことが許せず「狼のやり方で」ウイルクを殺害するに至るのだ。

鶴見の項にも書いたが、彼はかつてウイルクやソフィアと共に露皇帝の爆破事件に実行犯として関与し、鶴見/長谷川とも会っている。その点で、物語への関与は深い。だが、主要登場人物の中でもっとも早く退場するのも彼である。

少数民族(タタール系)出身のアイヌで、ウイルクとアシリパとも繋がりがあり、第七師団の隊員でもあるキロランケは、非常に複雑で多様な横顔を持つキャラクターであり、ある意味でストーリーを推進するための物語上のピースとして必要な存在だったのだろう…という見方はあまりに醒めているだろうか。

それはそうとして、彼が死ぬ間際のモノローグ「良かった…この旅は無駄ではなかった…いや結構無駄なことしたな」は最高。


尾形 百之助

作品中もっとも優れた狙撃の腕を持つ名手。味方にすると頼りになるが、敵に回すと悪魔のように恐ろしい。

尾形は杉元らと共に旅をする。そして鍋を一緒に囲んだかと思えば、最終的には殺しあう関係になる。旅の同行者でありながら、尾形は打ち解けないし、心を開くこともない。そしてアシリパの父であるウイルクを撃ち殺し、杉元の頭も撃ち抜いて死線を彷徨わせ、アシリパにすらも銃を向ける尾形はさながら死神のような存在なのだが、しかし『ゴールデンカムイ』を読み終えて、僕が一番好きだったのはこの尾形だった。

悲痛な過去を持つ人物である。「元第七師団長・花沢幸次郎中将とその妾の間の息子。母は浅草芸者で、父と本妻との間に男子ができたため、赤ん坊の時に母子ともに捨てられ茨城で母方の祖父母に育てられた」(wikipediaより)。妾の子であった尾形は幼い頃から決定的に愛情に飢えて育った。正妻に子ができた夫が家に寄り付かなくなり、寂しさから精神を病んだ母を殺す。自分を慕っていた異母弟の「祝福された育った本妻の子」花沢少尉を戦場で後ろから撃って殺す。そして、元凶であった父の師団長をも手にかけるのである。相当に闇の深い人物である。そんな尾形は、自らの血塗られた行ないについて罪悪感を顧みない姿勢を貫いていた。しかし最終的には物語の終盤の機関車のシーンで、アシリパ・杉元と対峙した際にアシリパの毒矢によって錯乱し、銃によって自害。殺した異母弟・花沢の幻影に連れ去られるかのように死亡する。
なお、尾形についてはここがよくまとまっていたので貼ってみる。

尾形がアシリパに異母弟・花沢少尉の影を見ていたことは作品中に明示されている。自らが歩んできた道で振り切ろうと苦しんだ罪悪感を、殺さないことでそれとは無縁の生き方をしている人間がいる。それはある意味で羨望であっただろうし、自らと対極にあって否定したい存在であったということだろう。尾形がアシリパに言った「…お前達のような奴らがいて良いはずがないんだ」は、かつて花沢少尉に尾形が言われた言葉「きっと分かる日が来ます、人を殺して罪悪感を微塵も感じない人間がこの世にいて良いはずがないのです」と呼応している。いや、言葉としては呼応しているが、言葉の発された意味としては真逆である。否定と肯定、抹殺と救済。

最後の場面、アシリパの毒矢を腹に受けて尾形は錯乱状態となる。そして尾形の中で「自分は欠けた人間ではなく欠けた人間に相応しい道を歩んだだけでは?」という自問が起こり、「違う、それではすべてが間違いだったことになる!」と否定しながらも、結局はそれがすべてだったことがわかる。愛情に飢えて愛情を渇望し、愛情の受け取り方がわからず、愛情の得られない寂しさから肉親を次々と殺した尾形は、自らが逃げ続けた罪悪感という巨大な闇を振り切れず追いつかれ、そして飲み込まれて死んでいったのである。

谷垣 源次郎

秋田県の阿仁出身の元マタギ。本作のヒロイン(?)的ポジション。登場人物の中でもっとも純朴で常識的な印象の男。終始、サブ的な立ち位置ながら物語の主要キャラとして旅に同行する。ラッコ鍋の日、男衆と相撲を取った後にインカㇻマッと結ばれる(こう書くと何がなんだかわからないが、読んだ人はわかるはず)。最終回の後日譚によると、インカㇻマッを連れて故郷の秋田県・阿仁へと帰り15人の子どもをもうける。この15人という数は二瓶鉄造の子どもの数と同じだが、谷垣は長女以外はすべて男の子、二瓶は長男以外はすべて女の子、というように対比させている。

白石の項では白石を「作者に愛された」と書いたが、作者の谷垣愛も相当だったようである。ファンブックの作者コメントにはこう記されてある。「彼(谷垣)と杉元が合わさったようなキャラがゴールデンカムイの主人公という道もあり得たかもしれないですね」だそうである。義に厚い狂犬のような杉元と、心優しい谷垣がマッシュアップしたキャラクターというのはなるほど少年漫画の主人公的かもしれない。
そして作者コメントには続けてこうある。「彼の髪の毛の伸び縮みで時間の経過がわかるようになってますね。本当はすね毛や指の毛までしっかり描きたいんですけど、週刊誌ではもう無理です。作者が死んでしまいます。谷垣に殺されてしまう。殺されたい」

インカㇻマッ

本稿の前段「まずは作品について」において「女性の主要登場人物が少ない」と書いたが、その数少ない女性の一人。キツネをモチーフとしたような切れ長の目と、常に薄い笑みを浮かべた表情から、どこか正体のわからない人物として描かれる。占い師という属性もあいまって信頼のおけないようなタイプに見えるのだが、さまざまなことが明らかになるに従って、意外なほど情に厚い面や信念を貫く強さなどがあらわになる。

この項で言いたいのは、この作者・野田サトルはこの作品で「女性をあまり描いて(描けて)いない」ということだ。アシリパは子どもだし、フチは老婆だし、梅子は物語の外側にいるし、ソフィアはあれだし、家永カノは男性である。そうなると、どう考えてもこのインカㇻマッが女性キャラのメインとして立ち上がってきそうなものだが、インカㇻマッは言ってみれば「役割」であって、女性である必然性を感じない。もちろん谷垣と結ばれるという結末は男女の幸福感あふれるエピソードなのだが、いわゆるヒロイン的な人物ではない。占い師であり、第七師団に通じた人物であり、占いによって自らの死の運命に囚われた人間であり、過去のウイルクを知ることで歴史を繋ぐ存在であるのだが、ヒロインではない。なぜそう思えないのか?それはおそらく、インカㇻマッが今挙げたような少々特殊な属性を多数持っているからというのが一つ。あと一つは、『ゴールデンカムイ』という作品においては、お色気担当を男性(谷垣やキロランケ、そして杉元)が受け持っているからであろう。ラッコ鍋の夜のエピソードに限らず、男臭さがムンムンと立ちのぼることで「色気要素」を担保する、それがこの作品の特徴の一つなのだからしょうがないのである。

土方 歳三

それにしても、土方歳三という人物は作家にとってよほどロマンをかき立てる存在であるようだ。彼をモデルとした作品は非常に多い。

新撰組副長だった土方歳三は史実では箱館で戦死しているとされる。なのだが、「実は生きていた」というストーリーもロマンがある。個人的に思い出すのは手塚治虫の「シュマリ」である。蝦夷が北海道と呼ばれ始めた明治初期の北の大地を舞台にしたスケールの大きな作品なのだが、シュマリが集治監で囚人として出会った十兵衛という男が、実は身を隠した土方歳三なのである(そういえば「シュマリ 」も途中まで、北海道に隠された金塊を得る話であった。あれは榎本武揚が砂金にして隠したものだったが)。

『ゴールデンカムイ』における土方歳三は、眼光鋭く白い長髪をなびかせ、ただならぬ存在感と風格がある。愛刀は史実と同様、和泉守兼定。あと愛銃はウィンチェスターM1892。かっこいいセリフが特に多いキャラクターだが、個人的に好きな名言は「いいか小僧ども、この時代に老いぼれを見たら生き残りと思え」だった。

土方歳三は物語の終盤、函館へと走る機関車の中で、鯉登少尉がふるった頭への刃が致命傷となり、最後を迎える。杉元に和泉守兼定を託し、これもまたかっこいいセリフを放つ。盟友の永倉新八に寄り添われながら、「あの頃は面白かったなぁ…でも…やっとこれからもっと面白くなってくるはずだったのに…悔しいなぁ…」と呟き、事切れるのである。

牛山 辰馬

作中最強の男と呼んで差し支えない。柔道家であり「不敗の牛山」と呼ばれる。モデルは木村政彦の師匠にあたる牛島辰熊(わかりやすい)。最後は機関車の中でアシリパを庇って手榴弾の直撃を受け、さすがに死亡する。作中屈指の紳士であると同時に、異常性欲の権化。本人による「男の選び方」についての金言によって、アシリパからは「チンポ先生」と呼ばれ、慕われている。額の長方形は硬質化したコブであってはんぺんではない。

ちなみに自分はこの作品をなぜか「札幌世界ホテル」のパートから読み始めたので、白石と牛山と家永の絡みからこの作品に入ってしまった。途中から読んだ自分が悪いわけだが、想像してみてください、あの辺から入る『ゴールデンカムイ』を…「なんなんだこの漫画は」というのが印象でした。

鯉登 音之進

キエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!(猿叫)

門倉 利運

ピタゴラスイッチ。以上。

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まとめ

というわけでこの長いエントリもまとめに入る。ヤンジャンアプリの全話無料公開が終わった後に書き始めたので、細かいシーンのディテールを確認するのに、検索で出てきたまとめサイトが大いに役に立った。そして同時に、みんなかなり細かく深く考察をしており、いかに愛された作品だったのかということを思い知ったのだった。

自分自身、ここに至るまでなぜ食指が全然伸びなかったのかというと、ひとえに「絵がさほど好みではなかった」ということになるだろう。実際にそれほど好きなタッチというわけではない。あと、何より人体が傷むシーンが多く、それもキツかった。皮剥ぎだの耳削ぎだの、ヒグマの爪で皮膚がえぐられる描写だの、まあキツい。「シモ」に振り切った描写も多い。そういうのが好きではないのはどうしても想像してしまうからである。

ただ今回、そんなあれこれを振り切って、そう、最後の函館駅に突っ込む機関車のような勢いで最後まで疾走的に読んでみたことで、やはりこれはちょっと看過できない、強いパワーのある作品だということを認識できたのだった。最終回は自分の予想と微妙に違ったところはあったが(上にも書いたが杉元の生死の判明があっさりしていることなど)、十分に満足のいく、サブタイトル通り「大団円」のラストだったと思う。実に幸せな作品だ。

最後に、個人的に気になったことを。この人のキャラクター造形で特徴的なのが、目のハイライトのなさである。普通、生きて動いている漫画のキャラクターには目に光が描かれる。真っ黒に塗り潰された黒目は、通常であれば虚無の心情を表現したものである。そして目の光は「意思」と「心」を表すものであろう。この『ゴールデンカムイ』では、目に光のあるキャラとそうでないキャラが描き分けられている。青い目の美しさについて何度も言及されるアシリパはもちろん、杉元、谷垣らは目に光がある。白石にもある。尾形にはない。月島にもない。鯉登少尉にもない。第七師団のほとんどの人物に目の光がない。では、鶴見中尉はどうか?鶴見も目の光がないキャラとして描かれる。はるか昔、長谷川幸一の時代にはナイーブな表情と確かな目の光があった。しかし銃撃に巻き込まれて死にゆく妻子に本名を告げる、そのシーンの彼の目には光はない。そして物語の終幕近く、機関車の先頭で杉元と争い妻子の骨が砕け散るのを眺める鶴見中尉は、わずかだが長谷川幸一時代の面差しを漂わせ、その目には微かな光が灯るのである。

(了)


やぶさかではありません!