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「マッサゲタイの戦女王」刊行記念エッセイ 第八回「パラダイス」の語源

英語の「paradise:パラダイス:楽園」の語源は、なんと、古代ペルシア語だそうです。
もともとは、「paridayda- "walled enclosure"」で「石垣に囲まれた場」という意味でした。
東部ペルシアのアヴェスター語にも「pairi(囲む)-daêza(壁に)」とあり、さらに古いアヴェスター系言語のメディア語にも「paridaiza」という言葉が残っています。
メディア語については単語も音も研究不可能なほど散逸したそうですが、この言葉は残っていたということに、いかにイラン系の民族にとって「庭園」が意味の深い文化であったか想像できます。

どうしてこれがギリシア語経由で欧州の言語に浸透し「楽園」という意味になったのでしょう。

これはペルシア故地が、イラン高原のそれも特に乾燥した南部であったことと関係があるのではと想像します。
とにかく、岩だらけの荒地なのです。半沙漠なのです。
イラン南部は、現代でも貧しい土地柄だそうですが、ペルシア人はその荒地で生き抜くために、ザクロスやアルボルズ山脈の地下水脈を探り当て井戸を掘り、その井戸の底を繋いで数キロ~十数キロメートルにも及ぶ地下水路(カナート)を掘削、低地の沙漠のあちこちにオアシスの村を造り、農業や牧畜を営んでいました。

オアシスは砂漠の島。
荒涼とした大地に、いきなり森と草地と耕地が出現したら、そしてそのオアシスに、豊かな緑と数々の噴水、色とりどりの花の咲き乱れる花壇に彩られた街があったら。

目を焼く砂と岩だらけ、灰色の潅木が点在するだけの沙漠を越えてきた外国人の目には、石垣で囲まれた水のあふれるペルシア人の街や村は、確かに楽園のように映ったことでしょう。

ペルシア風庭園は、西洋の庭園設計に大きな影響を及ぼしました。
とくに、キュロス大王の時代に確立された、幾何学的、左右対象の花壇配列、庭園内を縦横に走る運河や大小の水路、蓮の花の咲く池、そこかしこに設置された噴水。緻密に計算された並木道と、庭を囲む果樹園と森。

宮殿そのものが庭園の一部であった、始祖キュロス大王の建設したアケメネス朝ペルシア帝国の最初の首都、パサルガダエ(波:パサルガード)がペルシア庭園の起源ともされています。
今は石柱と土台、水路の跡が残る廃墟に過ぎませんが、往時の規模や美しさは発掘と研究が進んで、3D画像で再現するプロジェクトも。

三代後のダリウス大王の時代でも、宮廷に伺候する貴族や使節が、手に蓮などの花や、りんごの実などを手に持って集っているレリーフが、春の首都ペルセポリスの壁に彫られています。
現代でも、イランの花は蓮、チューリップ、百合。
花や果実は、ペルシア帝国における、平和の象徴だったのでしょうね。

アケメネス朝ダリウス2世の王子で、サルディスの総督であった小キュロス(BC424(?)~BC401)は、前任の総督から受け継いだ庭園をさらに拡張し、その壮大さと緻密さを兼ね備えた美しさに唖然とするギリシア人リュサンダーに「誰が設計造園したのか」と訊かれ、自分で設計し、植物も自分で選び、いくつかは自身の手で植えたことを自慢げに語ったとか。
上質で華麗な衣装と宝飾品をまとい、高価な香料を漂わせるキュロス王子に、リュサンダーが疑わしそうな目を向けたところ。
王子曰く
「I swear by Mithra, that I never take food till I have heated myself into a sweat by martial exercises or garden work.
 ミトラ神に誓って本当だ。私は庭仕事か闘技の鍛練で汗をかくまでは、けして食事をしないことにしているんだよ」(朝飯前に庭仕事や運動するという意味か)
――だそうです。

王様とか王子様というのは、庶民よりも働き者でないと勤まらないのでしょうね。

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