何気ない日常に『幸せ』を感じるか

 多くの人々はルーティンな生活を送っている。毎日全く違う経験を送っているのは旅人くらいかもしれない。ただ旅にもいずれ終わりがやってきて、またルーティンな生活が訪れる。

とはいっても通勤する際に違う経路で行くこともあるだろうし、ランチでいつも食べない巷で話題のハンバーガー屋さんに行くことだってあると思うので、少しずつ違うだろう。 だが、広義の意味でいうと学校なり業務範囲の決まった仕事なりを毎日しているということでにおいてはルーティンであるはずだ。

 しかし何気ない日常でも、意識の方向を変えるだけで人は全く違う感情になる。夜、気の知れた仲間を家に呼んでチーズをつまみにハイボールを飲み、好きな女優について話したり、本当にどうしようもない他愛もない話で笑ったりして。でもそんなひとときに幸せを感じれるかどうかって凄く大切なことなんじゃないかなって思う。

 きっと世界にはそんなことすらできない人々が日本の人口以上は少なからずいて、そう考えると日本で生きる毎日がなんて幸せなことか。もちろん比較したってそれ自体には何の意味のないことではある。ただし、結局「幸せ」を推し測る基準は綺麗事を置いておくと人との比較で成り立っていると言っても過言ではないだろう。

僕の周りにも「他人と比較したがる人」「目に見えない何かと戦っている人」が多くいて、これが東京という街なんだなと時々思うことがある。 

経済大国である(今はでは変わりつつあるが)日本の首都「東京」には、日本全国から毎年若者がこぞって移り住んでき、「目指すべき何か」のために汗水を流し、時に血を吐きながら戦っているのだ。世界中の大都市を訪れたことのある僕からすると、東京は最も「野望」と「欲望」で満ち溢れてる街だと思う。「おれにはもっとやれる」「親の期待に応えたい」「周囲に褒められたい」そんな欲求で溢れかえっているのだ。

それはそれで大切だし、僕も少なからず抱いているし、否定は全くしない。でも、もっと落ち着いて、1日1日に幸せを感じて生きていく。それだけでひとまず生きている価値になるのではないだろうか。

朝起きて朝日を浴び、顔を洗ってテレビを付ける。そこには女子大生がたどたどしい感じで天気予報を伝えてる。「ああ、頑張ってるなー」そう思うとその1日頑張れそうな気がする。僕は僕なりに良い1日にしよう。その日起きる全ての素敵な事を大事にしよう。そう思えたらそれは「幸せ」への一歩なのではないだろうか。

 勝ち負けがない戦いに躍起になって人と比較するだけの生活は辞めて、もっと今を生きて。自分の立ってる場所を見て、そして自分の進みたい方向へ進む中で「幸せ」を1つ1つ噛みしめれば良いのだ。

今朝、部屋の窓のベランダから外を見ると、子どもがお父さんと犬と遊んでいた。きっとお父さんにとっては幸せなひとときだろう。それらの一瞬一瞬のかけがえのない事すべてに小さな幸せを見い出せたとしたら、人生もっと豊かなになるんじゃないかな? 

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