目指せ出版! 日本史のセンセイと行く全国制覇の旅10 日光東照宮から栃木と茨城を考える

 神社紹介の3番目はこれまた世界遺産の日光東照宮(栃木県)。大坂の陣で勝利し戦国時代を終わらせた、江戸幕府初代将軍である徳川家康をまつった神社です。家康は亡くなるとき、
「自分が死んだら久能山(静岡県の久能山東照宮)に葬れ。一周忌を迎えたら、日光に小さなお堂を建ててまつれ」
と遺言しています。3代将軍・徳川家光は祖父である家康を心から尊敬していたため、小さなお堂ではなく、遺言とはそぐわない大規模な社を建てることとします。それがいまの日光東照宮です。東照宮は家康を「東照大権現」という神としてまつった神社です。本居宣長の言う通り、立派な人物が亡くなれば、それは神となることがあります。このとき神号を「大権現」とするか「大明神」とするかで議論が起こりましたが、
「大坂の陣で滅んだ豊臣家の秀吉は豊国大明神だった。大明神は不吉だ」 という意見が勝ち、大権現となった経緯があります。

 境内を進んでみましょう。一の鳥居のすぐ横には五重塔が建っています。この五重塔の耐震構造は非常に高い技術が用いられていて、21世紀に入って造られた東京スカイツリーも同じ工法で建てられているらしい。東日本大震災の時にも全く被害が出なかったんだそうです。ちなみに江戸時代以前に建てられた五重塔は現在22残っており、これもそのうちの一つ。五重塔といえば法隆寺や興福寺にあるように、寺にあるものが多いんだけれど、神仏習合の影響で、東照宮にもあるんです。

 日光東照宮の特徴は何と言ってもその装飾にあります。各社殿は彫り物や金具、彩色によって見事に飾られています。彫刻だけでもその数5000を超え、龍・麒麟・鳳凰などの伝説上の動物や、植物の彫刻など多彩です。なかでも龍の彫刻の数が多いんだけれど、これは家光が辰年生まれだったから、と言われています(寅年生まれの家康にちなんで虎、卯年生まれの2代・秀忠にちなんで兎も多く彫られています。ぜひ探してみよう)。

 そして最も豪華で多くの装飾がなされているのが陽明門。一日中見ていても飽きないことから「日暮門(ひぐらしのもん)」とも呼ばれている。この門、どこから見ても美しくて完璧な建築物に見えるのだけれど、裏側の白い柱の模様がさかさまになっている。これは間違えて造ってしまったのではなくて、
「完成したものは必ず壊れ始める。だからわざと完成させない」
という意味なんだ。昔の人が考えることは深いねぇ。 

【栃木県に行ったなら】
 県南部の足利市の観光をオススメします。足利市は室町幕府を開いた足利尊氏の一族・足利氏の本拠地で、足利氏は鎌倉幕府の御家人(しかも将軍家の一族としての扱いを受けていた)だったんだ。鎌倉時代を通して執権北条氏と良好な関係を持っていた足利氏の館跡が、日本百名城の一つにも挙げられている足利氏宅跡です。百名城のひとつ、というと天守閣があったり、大きな石垣があったりと想像するかもしれませんが、館の跡なのでそういうものは残っていません。堀と土塁に囲まれた、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士の屋敷をイメージさせるようなエリアになっています。正面の入り口にかかっている太鼓橋がひとつの見どころです。
 実はこの場所は現在、鑁阿寺(ばんなじ)というお寺になっています。足利氏の氏寺として発展した寺で、本堂は国宝に指定されているんだ。訪れるなら境内のイチョウの葉が見事に色づく秋がオススメ。城跡と神社を同時に見られるスポットとしては、他に武田氏館(山梨県)があります。武田信玄の城としては大きな城ではなく、息子の勝頼の代に織田信長と対立し、武田氏は滅びました。

 さて閑話休題。鑁阿寺から歩いて数分のところには足利学校跡があります。足利学校は平安時代~鎌倉時代にかけて創設されたと考えられる教育機関です。室町時代になって上杉憲実が衰退していた足利学校を再興しました。ここで教えられたのは儒学、易学(占いを体系化した学問)、兵学など幅広い学問で、特に易学を学んだものは戦国大名に仕えるなどして活躍しました(当時は占いが政治に及ぼす影響力が強かったので、易学に通じている人材は重宝されたのです)。キリスト教の布教のために来日したフランシスコ・ザビエルも、宣教師として有名なルイス・フロイスもこの学校について書簡や著書に「坂東の大学」として紹介しているよ。この時代に日本のことがイエズス会を通じてヨーロッパに紹介されていたというのも正直オドロキだね。

 江戸時代になると、足利近隣の人々を教育する郷校として栄え、また多くの書物を有する図書館としての機能も果たした足利学校。日本は近代国家の成立前から郷校や寺子屋、私塾などの教育機関が発達し、高い教育水準を示してきました。これが明治維新の時に日本が急激に発展した基礎となっているのです。この歴史的魅力を国内・海外に発信していこうというのが「日本遺産―近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源-」という文化庁が認定するストーリー。教育遺産群の中には、世界最古の庶民のための公立学校と言われる旧閑谷学校(岡山県)や、日本最大規模の私塾・咸宜園(かんぎえん)(大分県)や水戸の藩校・弘道館(茨城県)が含まれています。

 80年間で学んだものが4800人と言われるほど大きな私塾だった咸宜園を開いた広瀬淡窓(ひろせたんそう)は、全国から集まった学生たちに対して漢詩「休道之詩(きゅうどうのうた)」を詠み、学問することの厳しさ・大切さを示しました。ぼくはこの漢詩が大好きなので、皆さんにも紹介したい。
 
休道他郷多苦辛  道(い)ふを休(や)めよ 他郷(たきょう)苦(く)辛(しん)多(おお)しと
同袍有友自相親  同袍(どうほう)友(とも)あり 自(みずか)ら相(あい)親(した)しむ
柴扉暁出霜如雪  柴(さい)扉(ひ)暁(あかつき)に出(い)づれば 霜雪(しもゆき)の如(ごと)し
君汲川流我拾薪  君(きみ)は川流(せんりゅう)を汲(く)め 我(われ)は薪(たきぎ)を拾(ひろ)はん

(現代訳)
故郷を離れて学問をするのは苦しいな、と言うのはやめなさい
ここには一枚の綿入を一緒に着て苦労を分かち合う友がいて、自然と仲良くなるのだから
塾舎の柴の扉を開けて外に出てみると、霜がまるで雪のようにおりている
君は川の水を汲んできなさい、私は薪を拾ってくるから
 
 学問をするのは厳しい道のりだけれど、読み書きができるというのは人々にとって非常に大切なことです。字が読めない人たちができる仕事は自然と誰にでもできる仕事になり、収入が増えないからね。近代教育システムが導入される前の日本の識字率が世界中でトップだったのは、いたるところに寺子屋があったから。その寺子屋というシステムに着想を得たユネスコは現在、全世界で識字率を挙げていこうとする運動を行っています。その名もWorld Terakoya Movement、つまり世界寺子屋運動。文字が読めないで生活を向上させられない人たちは世界に7億人以上いるそうです。こういうことを一つずつ知っていくことも、大切な勉強だと思います。

 水戸の藩校・弘道館も幕末の尊王攘夷思想に影響を与えた教育機関として有名です。最後の将軍・徳川慶喜は幼少時にここで学び、大政奉還をした後にここで謹慎生活を送りました。弘道館を造ったのは慶喜の父・徳川斉昭ですが、斉昭は弘道館の近くに庭園を造ったことでも知られています。それが日本三大庭園の一つ、偕楽園。2月の終わりから3月の中頃にかけて3000本の梅が咲き乱れます。
 

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