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ピアノを拭く人 第1章 (13)

 

 彩子は、バッグを肩にかけ、登録会の資料を入れた段ボール箱を車からおろした。今にも掴みかかってきそうな鉛色の空を仰ぐと、それだけで肩が重くなる。色づき始めた街路樹は、生温かい風にざわざわと騒いでいる。


 段ボール箱を抱え、事業所のある2階まで上がると、矢島さんがドアを開けてくれる。
「お疲れ。午後は入力頑張ろうね」
「はい。頑張ります。夕方には原本を本社に送れますね」
「うん。ヤマトさん、集荷に来てもらう?」
「あ、私、帰りにブックセンターに寄るので、ついでに出して帰ります」
 クロネコヤマトの営業所は、文房具も扱う大きな本屋の隣にある。彩子は、透に白い便箋と封筒を買っていくことを思うと、胸がほんのりと温かくなった。
「降ってきそうだな……」
 黒沢さんが、換気のために開けた窓を閉め、愛妻弁当を広げた。

 

 席に戻り、スマホをチェックすると、母からの長文メールが入っていた。
 コンビニのおにぎりをかじりながら開くと、先日言い過ぎたことへの謝罪と、お寺には、彩子には彼氏がいるが真一さんのことは前向きに検討させると伝えてあるので、近いうちに1度会ってみないかと、つらつら書かれている。
 
 まったく食指が動かないと言えば嘘になる。
 安定した仕事があるとはいえ、32歳で婚活市場に放り出され、将来への不安は十重二十重にまとわりついている。真一さんのことは子供の頃から知っているが、自信に満ちあふれた好青年になっていて、大和という恋人がいたにも関わらず素敵だと思った。
 もし、自分がこの話を断れば、お寺との関係が悪くなり、とりわけ父をがっかりさせるだろう。会ってみてうまくいかなくても、お寺との関係はぎくしゃくするに違いない。
 どうしたものかと同僚に相談したくなったが、やめておくことにした。
 


 彩子は、スマホを閉じ、ノートパソコンで会社のメールを開いた。本社の鈴木からの労いと問い合わせが入っていた。彩子は、本社が昨日の試験のために作成した受験者間の距離をとった配席図に問題がなかったことを書いて送信した。

 

 そのとき、昨日の特別室の受験者が「強迫症」だったことが不意に脳裏をかすめた。透の症状と通じるものがある気がしたことを思い出した。
 その言葉を検索してみると、数えきれないほどのサイトが出てきた。
 症状として共通するのは、不安や嫌な考え(強迫観念)が意志に反して頭に浮かび、離れなくなり、不合理だとわかっていても、不安を解消するための行動(強迫行為)を繰り返してしまうことだ。
 様々な症状があった。いくら体を洗っても洗えた気がせず、何時間もお風呂から出られなくて、水道代が3万円を超えてしまった人。車で人をひいたかもしれないという考えが頭から離れず、何度もその場所に戻った挙句、警察に電話してその場所で交通事故がなかったか確認した人。何度確認しても、ガスの元栓を閉めたという確信が得られず、家から出られなくなってしまう人。特定の数字が、縁起が悪いと感じ、その数字を避けてしまう人。大切なものを捨ててしまうのではないかとゴミ捨てができず、部屋が不要なものであふれてしまう人。

 強迫症の人は、完全に頭がおかしくなってしまったのではなく、自分のしていることが他人から見て奇異だとわかっているという。彩子はそのことに救われた思いがした。


「何見てるの?」
 背後から声を掛けられ、彩子は跳び上がりそうになった。
  湯気の立つ緑茶を入れたカップを持った矢島さんが、身をかがめてPCをのぞいている。
「あ、以前、特別対応で受験した方にこの病気の人がいたので、少し勉強しているんです」
 彩子は慌てて取り繕う。
 矢島さんが、彩子の開いていた画面をのぞき込んだ。
「これ、何度も手を洗っちゃう病気でしょ? レオナルド・ディカプリオの映画であったよね。何だっけ、タイトル。アメリカの大金持ちで……」
「アビエイターだろ? ハワード・ヒューズの話だよな」
 黒沢さんが餃子のにおいの混じった口臭をふりまきながら近くにきたので、彩子はマスクをかけたい衝動と戦った。
「そうそう、うちの近所に、過剰に手洗いをするので、手が真っ赤になってしまって、トイレに入ったらお風呂で何時間も体を洗うっていう小学2年生の女の子がいたなあ。トイレに行くのが苦痛で、水分を摂るのも怖がるようになっちゃったって。母親がうちの女房と親しいから、よくうちに愚痴を言いに来てたよ」
「そんな小さい子が苦しんでるのを想像すると耐えられない……」
 子供好きの矢島さんが顔をしかめる。
「その子、どうなったんですか?」彩子はマスクをかけて黒沢さんを振り返った。
「うん、E病院に新しくいい先生がきて、薬を飲まなくても、なんとか行動療法っていうので治してくれたって言ってたな。今では随分よくなって、元気に学校に行けてるらしい」
「E病院ですね。何ていう先生ですかっ?」
 彩子は食いつかんばかりの勢いで尋ねた。
「何だったかな。赤城だったか、赤井だったか? とにかく赤がつく名前だった」


 彩子はすぐにE病院のサイトにアクセスした。E病院は隣県にある精神科・心療内科に特化した病院で、車で1時間ほどで行ける距離だ。列挙されている医師の名前の中から、赤がつく名前を探す。
 赤城 忍 
 名前に赤が含まれる医師は他にいないので、この医師に間違いないと思った。 

 周囲が目に入らなくなったように検索を続ける彩子を前に、2人は顔を見合わせて首を傾げる。

 降り始めた雨が風に煽られ、窓に水滴を広げていた。