見出し画像

ピアノを拭く人 第4章(2)

 透の交友関係は、知らないに等しい。誰に紹介されるのか考えても、何も浮かばない。過去に関係があった女性ではと懸念したが、それならわざわざ自分に紹介しないだろう。
 彩子はコーデュロイのワンピースに袖を通した。色は濃紺、膝下丈なので、畏まった対面になっても浮かないと判断した。

 

 フェルセンの扉を開けると、透以外は初めて会う3人が一斉に振り向いた。
「こんにちは。初めまして、水沢彩子と申します」
 とりあえず挨拶をし、助けを求めるように透を見た。
「彩子、紹介するよ。入院して一緒に治療を受けたカルロス、タクミ、シオリだ。3人とも本名は別にあるけど、その名前で呼んでほしい。皆、了承しているから」

「ああ、そうだったんですか。初めまして、宜しくお願いします」
「初めまして、カルロスだよ。すっごいきれいだね! トオル、いいなあ」
 カルロスが握手の代わりにエルボータッチを求めてきたので、彩子は快く応じた。日本語がぎこちないが、親しみやすさがそれをカバーしていて、彩子はすぐに好感を持った。
「タクミです。初めまして。さすが、透さんの恋人ですね。長身同士のカップルで、お似合いです。彩子さんは、榮倉奈々さんに似てますね」
「えー、私、つり目ですし、背も彼女ほど高くないですよ。でも、すごく嬉しいです。ありがとうございます」
 タクミが身に付けているセーターとブルージーンズは傍目から見ても上質で、所作や話し方からも育ちの良さを感じさせる好青年だった。
「こんにちは、シオリです。お会いできてうれしいです。宜しくお願いします」
 シオリは白いニットワンピースが良く似合う色白の可愛らしい高校生だった。年齢の割には落ち着いていて、言葉遣いもしっかりしている。
 4人は、ソーシャルディスタンスを守って、各自が1つのテーブルに座っているので、彩子もコートを脱いで空いているテーブルについた。


「彩子、今日来てもらったのは、俺たちの計画に力を貸してほしいからだ。俺たちは、1時間前に集まって、お昼を食べながら、今までLineで話し合ってきたことをつめていたんだ」
 透が3人のカップにコーヒーのおかわりを注いでまわりながら言った。
 彩子は腑に落ちない面持ちで続きを待った。
「俺たち4人は、入院してERPを受けてかなり良くなったよな?」
 コーヒーを注ぎ終えた透は、座っていた席に戻り、3人を振り返った。
「このあいだ赤城先生の診察を受けたとき、先生が言っていた。強迫症が本当に重い人は、家から出られずに苦しんでいるそうだ。コロナが流行り出してからは、今まで通院できていたのに、症状が悪化して通院できなくなってしまった人もいて、先生方はとても心配している。それで、俺たち、Lineで話し合ったんだよな?」
 3人が同時に頷いた。
「ERPを受けて良くなった俺たちが、家から出られずに苦しんでいる強迫症の人たちに、病院に来て、治療を受けるように呼び掛けたり、励ましたりできないかと。それで、病院に来て治療を受けてくれる人が1人でもいたら、こんな嬉しいことはない。それに、お世話になった先生方への恩返しにもなる」
「すごくいいと思います! 実際に治療を受けて良くなった方々が呼び掛けたり、経験を話したりすれば、説得力があると思います」
 彩子は、透が前向きなことを考え、仲間をまとめているのを心から誇らしく思った。そして、そこに自分を引き入れてくれたことが何よりも嬉しかった。


「コロナが流行り出してから、以前の私みたいに、感染が怖くて、外に出られなくなった人、不潔恐怖や汚染恐怖が再発してしまった人もいると思います。私も、勇気を出してERPを受けなかったら、今でも学校に行けず、手洗いやお風呂で水道代が上がって、家族を巻き込んで大変なことになっていたと思います。そう思うと、透さんの計画に心から賛同しました」
 シオリが黒目がちの瞳に光を宿し、意志のこもった声で言った。
「私事ですが、正月休み明けから仕事に復帰することになりました。治療を受けなければ、今でも家で怯えていたと思います」
「俺も、嫌な考えが浮かぶことはあっても、前みたいにパニックになることはなくなった。家族で教会に行けるようになったよ。カレーも食べられる」
 彼らの顔は清々しく、瞳には力があった。彩子は、透もこの計画に取り組むことで、さらに良くなると確信した。


「それでな、彩子。どうしたら、苦しんでいる人たちに伝わるかと思ったんだが、やはり今の時代はインターネットだと思う」
「私は、学校に行けないとき、ネットで1日中、強迫のことを検索していたので、同じ症状の人もそうしている気がします」
「彩子、ブログとかSNS、You Tubeとかいろいろあるけど、どれが一番いい手段かな?できるだけ、お金がかからず、強迫で苦しんでいる人や家族に届く方法を選びたい」
「不特定多数に配信するなら、You Tubeがいいと思います。利用者が多いし、ライブ配信をするのでなければ誰でも動画を公開できます。質の良い動画を撮るために、三脚、ライト、マイクがあったほうがいいですが、それほど高くないと思います。画像編集は、You Tubeエディタで、画像をカットしたり、ぼかしや音楽を入れたりできます。動画編集ソフトを使えばもっといろいろできると思います」
「やはり、You Tubeですかね。いま、検索しましたけど、三脚とかライト、マイクは、1万円以内で収まると思いますよ」タクミがスマホを見ながら言った。
「それはみんなでお金を出して買おう。じゃあ、最初は1人1人の自己紹介と強迫の症状みたいなのをYou Tubeで配信する?」
 カルロスが切り出した。
「その後、どんな治療を受けたのかを4人で話す動画をアップしてもいいですね」
 シオリが引き継いだ。
「先生たちも出てくれますかね? 僕たちだけだと、間違えた情報を配信してしまうと困りますし。でも、そうなると病院の許可も必要になりますよね?」
 タクミが腕組をして言った。
「それなら、病院の許可を得て先生方に協力してもらって、希望者を対象にZoomを使ってオンラインセミナーを開く方法もあります。先生の基調講演、患者と先生方の対談、患者の体験談、家族の話、視聴者からの質問受付など、いろいろできると思います。You Tubeの視聴回数が増えてきたころに開催すれば、そこそこ希望者も得られると思いますよ」

 彩子の提案に、透が大きく頷いた。
「いいな、それは考えていなかった。それを最終目標にして、まずは俺たちだけでYou Tubeに動画をアップしよう。名前は、トオル、カルロス、タクミ、シオリを使うとして。最初は自己紹介と自分の症状かな。各自が撮影する?」
「すみません、僕、営業の仕事をしているんです。もし、お客様が見たら、不信感を持たれて、仕事に差し支えるかもしれないので、顔出しは遠慮したいのですが……」
 タクミが申し訳なさそうに言った。
「それでしたら、顔を隠すこともできますし、最初から後ろ姿で撮影してもいいと思います。背景画像と音声だけにしてもいいと思います。画像加工が難しければ、私がお手伝いします」
「すみません、彩子さん。もし、自分でできなかったらお願いします」

「この店、きれいだよね。俺、ここで撮影したいな」
 カルロスが店内を大股で歩きながら言った。
「私も。すごくお洒落なお店ですよね。BGMに透さんのピアノ演奏を流すのも素敵です」
「それなら、僕もそうします」
「じゃあ、休日に貸し切りにできる日時を調べて、Lineで連絡するよ。それまで、各自が自己紹介と症状をまとめておこう。You Tubeの視聴回数が増えた頃、先生方に協力してもらって、さっき彩子が言ったセミナーみたいなのを開こう」
 透の提案に皆が賛成し、今日は解散することにした。


 自家用車で帰るカルロスとタクミ、迎えにきた母親の車に乗ったシオリを見送ると、透は空を仰いで深呼吸した。
「彩子、これからデートしようか?」
「え、今から? 年末年始は休みなしだったし、疲れてるでしょ?」
 彩子は自分を振り返った透の顔を凝視した。
「俺たちデートらしいデートをしたことなかっただろ? 夕食でも食べにいこう」
「大丈夫?」
「いま、無性に外に出たい気分なんだ。外食もエクスポージャーだろ?」
「そうだね。透さんが大丈夫なら行こう!」

 透はバックルームで、ジャケットとネクタイを付け、コートを持って戻ってきた。彩子は腕を差し出され、彼の車までエスコートされた。初めて乗る透のシーブルーのNワゴンは、ほのかにアラミスの香りが漂っている。
「地元の無農薬野菜を使った創作和食レストランがあるんだけど、いいかな?」
「もちろん。美味しそうなお店だね」
 運転席の透は、黒いジャケットに淡いグレイのシャツと同系色のネクタイを合わせ、胸ポケットに白いチーフをのぞかせている。彩子は、いつになく瀟洒な透に陶然とし、ワンピースを着てきて正解だと思った。

 
 レストランは、できたばかりの隠れ家的な店らしく、まだほんのりと木の香りがした。入口でコートを脱いだ彩子のワンピース姿をまじまじと見た透は、「綺麗だ……」と呟き、時が止まったかのように動きを止めた。
「フェルセンでも、見たでしょ?」
 透に見つめられ、彩子の瞳は熱を帯び、頬は薔薇色に染まった。
 

 和服姿の女性店員に案内され、2人は席に向かう。さっと腕を差し出した透にエスコートされながら、彩子は歩き方までモデルのように優雅になった。愛する人に綺麗だと褒められることが、これほどの自信になると初めて知った。恋人に格好いいと言われたことはあっても、綺麗だと言われたのは生まれて初めてだった。
 

 席についた2人は、店員にメニューを渡された。透は店員に「ありがとうございます」とお礼を言い、ふっと肩の力を抜いた。彩子は、透の「気になること」がいつ出るかと心配になった。


 2人はディナーコースを注文し、運ばれてきたノンアルコールビールで乾杯した。
「さっき、店員さんに、『飲み物はいつお持ちしますか?』と聞かれて、『食前でお願いします』と答えるべきだったのに、『食前で』としか言わなくて、失礼だったとぞわっとした。だから、最後に店員さんがオーダーを確認したとき、『それでお願いします』というところを『それで』だけにして失礼なことを広げてみた。大丈夫みたいだ」
「すごい! すごいよ、透さん」
「実は、入口で店員さんにコートを預けたとき、俺の『お願いします』と店員さんの『お預かりします』の声が重なったことが気になっていたんだ。でも、オーダーのことが出てきて、いつの間にかどうでもよくなっていた……」
「すごい。以前だったら、我を失って、店員さんに謝っていたと思うよ」
「うん。これから、そのままにできることは放置して、無理そうなことは広げることで、強迫観念に対応しようと思う。広げるときも、2回までにして、以前みたいに止まらなくならないようにしたい」
「劇的な回復だね。何が理由でそうなれたの?」

 前菜が運ばれてきたので、透は店員に「ありがとうございます」と丁寧に言った。女性店員の頬がほのかに染まったのを見て、彩子は彼といることが心底誇らしくなった。
「さっきの答えだけど、やはり、You Tubeで苦しんでいる人を励ます以上、自分がしっかりしなければと思った。そして、何よりも、良くなって、治療してくれた先生たちに恩返ししたいと思った。セミナーで先生たちと同席できるのも楽しみだ」
 透は、刻み柚子がのった大根の昆布じめに箸を付けながら、しみじみと言った。彩子は一皮むけた透が愛おしく、自分ができることなら何でもしたいと思った。
 

 透は皿を下げてもらったり、新しい料理を出されるたびに、店員にお礼を言う。口に料理を入れたままお礼を言うのは失礼だと、食べるタイミングに四苦八苦しているのを見ると、せっかくの料理を楽しめていないのではと気の毒になった。
「最初から、ハードル高かったね……」
「いや、いいエクスポージャーだ」
「口に物が入っているときは、会釈だけでも失礼じゃないと思うよ」
「そうだな。次はそうしてみるよ」
 透はお皿を傷つけないように、慎重に和牛のステーキにナイフを入れながら言った。
 料理は、どれも地元の無農薬野菜の味を生かした控えめな味付けだが、薄味すぎて物足りないこともなく、食べ終わってしまうのがもったいないほど美味だった。