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澪標 13

 私のアパートは、同期の新年会の会場と化していた。彩子が本社にいた頃から、3人の誰かの部屋を会場に、語り明かすのは恒例だった。

「彩子、大和やまとさんと仲直りできた?」

「まあね……、一応」

 彩子が納得できないものを腹に抱えていることは、歯切れの悪い口調から読み取れた。辛いことを胸に押し込めてしまう彼女が、安心して弱みを見せられる関係を彼と築けることを願わずにいられなかった。

「水沢さん、弁護士の彼氏と喧嘩したの?」竹内くんは、ワイングラスを危うい手つきでテーブルに戻しながら尋ねた。

「去年の11月頃、彩子が夜中に電話してきて、彼氏の部屋を飛び出したから、泊めてって。豊洲のタワマンから、タクシーでうちに乗り付けたんだよ」

「大和が、私と一緒にいるのに、ずっとLineしてるから、のぞき込んだら相手のアイコンが女性。彼は仕事関係の女性で、緊急の要件だって言うんだけど、そういう内容じゃない気がして、問い詰めたら言い争い。これ以上、彼と顔を突き合わせているのが耐えられなくなってさ」

「弁護士なら、女性の同僚と緊急の要件くらいあるだろ。クライアントかもしれないし。多めに見てやれよ」

「わかってるよ。竹内くんこそ、同棲中なのに、女友達の部屋にいて大丈夫なの? まあ、私たちがどうにかなることは100%ないから、心配ないけど」

「うん……。俺さ、すずとの同棲、解消しようかと考え始めたんだ……」

「え、それって、つまり別れるっていうこと?」彩子が膝に視線を落としたままの彼をのぞき込むように尋ねた。

「まだ、決心したわけじゃないんだ。一緒に暮らしてきたことで芽生えた愛着もあるし、彼女のいいところをたくさん知っている。趣味も合うし、彼女とだから過ごせる充実した時間がある。俺も30過ぎたし、同棲、結婚という流れを考えていた相手だからこそ、後悔しないか悩むんだよ」

「何がひっかかるの? 前に話してた考え方の違いが、我慢ならないところまできちゃったとか?」私はハワイアンレストランでの会話を記憶から手繰り寄せながら尋ねた。

「まあ、そういうことかな」

 私と彩子は、彼が話し出すのを待った。

「彼女は、いわゆる記念日とか、恋人同士のイベントにこだわるんだ。交際3ヶ月とか半年とか。誕生日、クリスマス、バレンタインとか」

「竹内くんが大切な記念日を祝うのを面倒くさがって、彼女を怒らせたの?」

「鈴木さん、よくわかるね」

「それは竹内くんが悪いよ。相手を大切に思っていれば、そういう日を大切にしたいと思うよ。2人の思い出をつくるきっかけにもなるし」彩子がきりっとした眉を吊り上げて力説した。

「やっぱり、女性って、そういうのこだわる人が多いんだな……」

「で、どんなことがあったの?」私は浮かない顔の竹内くんを促した。

「まあ、いろいろあるけど。例えば、先月、仙台泊の出張が入って、彼女の誕生日を一緒に祝えないことがわかってたんだ。彼女はどうにかならないかと尋ねたけど予定は変えられなかった。楽しみにしていた彼女は見るからに落胆。俺の誕生日に、彼女はキャンプ用テントをプレゼントしてくれて、お洒落なレストランを予約してくれた上に、サプライズのケーキまで出てきたから、俺もきちんと返さないといけないと思った。一緒に外出したとき、彼女が欲しがっていた希少価値のあるランニングシューズを偶然見つけたから、少し早いけどプレゼントしたら喜んでくれた。俺は胸を撫でおろして、『これで肩の荷が下りたよ』と言ってしまったんだ。そうしたら、彼女が泣きそうになって……。私はあなたに喜んでほしくて誕生日をお祝いしたのに、あなたという人間がこの世に生まれた日に感謝したいから祝ったのに、それを返すのが義務みたいに受け取られるのが堪らなく悲しいって。機嫌直すのにどれだけ時間と労力がかかったか……。こういうことが繰り返されると思うと、気が滅入るんだよ」

「それは絶対、竹内くんが悪いよ!」彩子が間髪入れずに言った。

「そうだよ。彼女が悲しかったのは当然だよ。カップルって、そういうのを積み重ねていくことで、絆が生まれるんだから」

「そういうの気にしない子と付き合ったことあるけどな。前の彼女は、平気で俺の誕生日忘れたし」

「だったら、そういう子と付き合えばいいじゃん。すずちゃんがかわいそうだよ!」彩子が声を荒らげた。

「記念日とかイベントをしなくても、すずに感謝しているし、大切に思っているのは変わらないのに、そこまでこだわる必要あるわけ? 正直、面倒くさいんだけど」

「気持ちを言葉にしないと、物にしないと、伝わらないこともあるんだよ。気心通じた恋人でも、違う人間なんだから、しっかり気持ちを伝えることは大切だよ!」

「竹内くんが面倒だと思うのはわかるけど、相手のことを大切に思っていたら、歩み寄れるんじゃない? まずは2人で相談して、どの記念日やイベントを大切にするか決めてみたら? 忘れないようにカレンダーに印をつけるとか工夫して。当たり前のように、一緒に記念日が迎えられる幸せに感謝しないと。それから、何もない日でも、感謝をこまめに伝えるようにすれば、うまくいくと思うよ」

「すーちゃん、やけに落ち着いて、包容力出てきたね。何かあった?」彩子が私の視線を捉えて尋ねた。

「もしかして、海宝課長との関係に大きな変化があったの?」口ごもる私を彩子が問い詰めた。

「俺たち、絶対言わないから話して大丈夫だよ。1人で悩むことないと思うよ」

「まあ、彼が覚悟を決めたというか……」

「覚悟って……、奥さんと別れたっていうこと!?」彩子が頓狂な声を上げた。

「マジで!? あの海宝課長が」

「そんな性急な話じゃないよ。息子さんが大学に入るまでは見守るから、まだ2年以上は先だと思うけど。わかってると思うけど、絶対誰にも言わないでね!!」

 彩子が気色ばんだ。「そんなの絶対信用しちゃだめだよ。妻とは別れる、待っててくれなんて、不倫男の常套句じゃない。そんなのに縛られて、すーちゃんの貴重な2年を無駄にするなんて馬鹿げてるよ! あいつ、心底見損なった!」

 彩子は息を整えてから言い継いだ。「すーちゃん、大和の友達の弁護士を紹介してもらえるように頼むから、すぐ別れた方がいいよ。お願いだから、考え直して。不倫なんて、清純なすーちゃんに似合わない」

「ありがとう、彩子。でも、いまの私は、彼以外は無理なんだ。たとえ一時でも、彼がその気持ちになってくれたことが本当に嬉しい。だから、彼が私を必要としてくれる限りは一緒にいたい。結果として、捨てられてもいい」

 2人は顔を見合わせた。

「今の鈴木さんは、何を言ってもだめだよ。海宝課長は、簡単にそういうことを言う人じゃないから、信じてついていけばいいと思う。2年経ってもまだ33だし、やり直しきく年齢だろ」

「すーちゃんがその覚悟なら応援するしかないけど、大変なことに巻き込まれる気がして心配」

「ここに、この部屋に、あの海宝課長が来てるんだよね……」

 2人は生々しいものを想像したかのように口を噤んだ。

 このとき私たちは、1ヶ月も経たないうちに、当たり前のように続いてきた日常が大きく変化することなど考えてもいなかった。