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澪標 8

 送別会の宴席を抜け出し、障子を後ろ手で閉めると、喉に酸っぱいものがこみ上げてきた。朝から喉がいがいがし、胃のむかつきもあったのに、上司に注がれたビールを無理に飲んだからだった。

 しんと冷えた廊下の空気を深く吸い込んだ。宴の喧騒を背中に、私は化粧室を探そうと廊下を歩いた。ほのかにライトアップされた形ばかりの中庭に、小さな石灯篭が据えられていた。それを見て、あの宮島の夜を思い出した。もうすぐ、宮島には桜が咲くだろうか。高校受験をしたあなたの息子さんに桜が咲いたことを私も心から嬉しく思っていた。

 あの日から4か月、あなたとは、上司と部下のお行儀のよい関係を維持してきた。互いに、それを逸脱できないことを理解していた分、相手の眼差しや仕草に潜む特別な思いを探していた。2人の間に流れ出してしまった親密な空気を周囲に悟られないように用心することも忘れなかった。もっとも、私とあなたが2人きりになったのは、たまにランチをともにしたときくらいで、周囲には、気の合った上司と部下にしか見えなかっただろう。 

 両側に宴の喧騒を聞きながら、迷路のような廊下を彷徨ったが、化粧室が見つからなかった。知らないうちに通り過ぎてしまったか、案内を見落としてしまったと思った。誰かに尋ねようとしたとき、後ろから右肩を強く掴まれた。

「よう、最近どうだ?」

「あ、ご栄転、おめでとうございます。ご挨拶が遅れてしまって、申し訳ございません」

「何だよ、やけに他人行儀じゃないか」

 彼は運営部にいたときの先輩で、3年程前に告白されて付き合ったことがあったが、相性が合わないことが早々に露呈し、私から別れを切り出した。それから、何度か復縁を求めるLineが入ったが、丁寧にお断りしてきた。 

 彼の据わった目と、酒臭い息に、吐き気がこみ上げてきた。「関西でも、これまで以上のご活躍をお祈りしています」私は丁寧に頭を下げ、失礼しますと踵を返した。

「待てよ!」

 乱暴に腕を掴まれた。振り払おうとすると、掴まれた箇所が、採血をされるときのように、ぎゅっと締めあげられた。

 彼は空いている部屋の障子を乱暴に開け、私を突き飛ばすようにそこに入れた。

「何するんですか!」前のめりに転び、ストッキングを履いた膝が畳に打ち付けられた。

 暗がりのなか、痛む膝で起き上がり、障子のほうに走ったが、後ろから羽交い絞めにされた。

「離してくださ……」声を上げた瞬間、口元を塞がれた。

「もう少し、大人の対応をしろよ。最後くらい、優しくしてくれるのが礼儀だろ」彼は酒臭い唇を強引に押し付けてきた。

 頭をのけぞらせて懸命に抵抗したが、後頭部を押さえつけられ、強く唇を吸われた。全身が総毛だった。

 彼の手が下におり、胸をまさぐられ、強くもまれた。彼が私のブラウスのボタンを外そうとして、口元を塞ぐ手が緩んだ瞬間、大声で悲鳴を上げた。

 廊下を疾走してきた誰かが、勢いよく障子を開けた。廊下の明かりで、それがあなただとわかった。

 彼は、あなたの横をすり抜け、さっと出ていった。

 こんな状況を一番見られたくなかった人に見られた恥ずかしさで、消えてしまいたかった。

「あなたが、なかなか戻らなかったので、心配になって探しにきたんです! どうしました?」

「ここに引っ張り込まれて……」

「何かされたんですか?」

 彼の唇と手の感触がよみがえり、私は口元を抑えて廊下に飛び出すと、突き当りに見えた化粧室に向かって走った。個室に入り、こみ上げてきたものを吐いた。嘔吐に伴う生理的なものか、情けなさで浮かんだのかわからない涙を拭い、口をゆすいでから化粧室を出た。

「大丈夫ですか?」

 化粧室の前で待っていてくれたあなたの顔を見ると、涙が溢れそうになったが、気力で堪えた。

「今日はもう帰った方がいいでしょう。送っていきます」

「大丈夫です……」これ以上、あなたの傍にいたら、泣き出してしまいそうだった。

「大丈夫じゃないでしょう、顔が真っ青です!」

 あなたは私の腕を支え、店の入り口にあった木造りの長椅子に座らせた。店員にタクシーを呼んでくれるよう頼むと、2人の荷物を取りにいった。

 

 タクシーの後部座席に落ち着くと、あなたは静かな怒りを含む声で言った。「彼には私の部下に失礼なことをしないよう厳しく注意してきたので、安心してください。もうあんなことはできないでしょう」

 あなたの目元には、たじろぐほどの怒りが浮かんでいた。

「すみません……。彼とは、過去にいろいろあって……」

「あなたに悲鳴を上げさせることをしていい理由にはなりません」

 あなたは震えの止まらない私の手に、自分の手を重ねた。あなたに触れたのはあの新幹線以来で、電流を流されたように、熱が全身に広がっていった。

「今日は具合が悪かったのでしょう?」

「すみません。仕事に支障のないようにしていたのですが……」

「僕が気づかないはずはないでしょう。どこか悪いんですか?」

「少し風邪気味で……。週末、がんで亡くなった大学時代の友人の通夜と告別式のために北海道に行ったんです。心身共に疲れていたので、風邪をひいたのだと思います」

 あなたは、ぐっと力を込めて私の手を握った。温かさと力強さに、言葉がなくても悲しみが溶けていくようだった。


 綾瀬のアパートの前で止めてもらうと、あなたも一緒に下りてくれた。弓張り月が刺すような光を放っていた。

「風邪薬はありますか? 何か必要なものがあれば、買って届けます。部屋番号は?」街灯の光を受けたあなたの顔は、タクシーの暖房の名残からか、微かに紅潮していた。

「大丈夫です。買い置きがあると思います」

「そうですか。では……、どうかお大事に」

 あなたは何かを訴えるように私を強く見つめた後、駅に続く通りに向かって歩き出した。道の隅に溜まっていた紙屑が、風に吹かれ、かさかさと音をたてた。

 去っていくあなたの靴音を聞いていると、一人になった部屋で、さっきのことを思い出す恐怖が、足元から飲み込むように襲ってきた。

 私は夢中であなたを追いかけ、腕を掴んだ。

「少しだけ一緒にいてくれませんか、怖いんです……!」

 あなたは黙って私の背中に手をまわし、アパートに向かって歩き出した。安堵から、涙が一筋頬を伝ってしまった。


 部屋に入ると、ずっと堪えてきた涙が堰を切ったようにあふれてしまい、あなたに見られたくなくて、コートの袖で乱暴に拭った。

 その瞬間、強く引き寄せられ、口づけられた。唇から全身に熱が駆け巡り、体中の細胞が覚醒したかのように騒ぎだした。

 あなたは、我に返ったように身体を離した。「すみません。あなたは、あんなことがあったばかりで、男に触れられるのが嫌だとわかっているのに。耐えられないんです……、あなたが他の男にあんなことをされるのは……!」

 熱い涙が頬を伝った。幸せでもこんなに涙が出ると生まれて初めて知った。私はあなたの頬を両手で包んで引き寄せ、力強く口づけた。

「あなた色に染めてください、あんなことを忘れてしまえるくらいに!」

「僕にその資格がないことは、わかっているでしょう……!」あなたは顔を歪め、心底苦しそうに訴えた。

「そうしてくれないと、怖くて眠れないんです! だから、お願い!! 私はピルを飲んでいるから大丈夫です」

 私がもう一度口づけようとすると、あなたの熱い唇が降ってきた。それからは、岩に裂かれた急流が合流したように自然だった。

 セミダブルのベッドに腰かけ、あなたは私の頬の涙をキスで拭った。私の長い髪を撫でながら、何かを確かめるかのように、頬や首筋に口づけ始めた。あなたの吐息は、口づけるたびに失っていたものを取り戻したように、深く熱くなった。あなたに口づけられた場所は、命を吹き込まれた生き物のようにさざめいていた。

 一糸まとわぬ姿できつく抱き合うと、こうなることが遥か昔から決まっていたような感覚に飲み込まれた。あなたの躰には、美しい姿勢や所作を支える筋肉がついていた。筋肉は何かに耐え続けたように硬く、あなたの人生が凝縮されているようで悲しくなった。

 私の2つの小山の先端は、あなたに転がされ、含まれ、これまでにないほど硬く隆起した。脚のあいだの洞窟は、あなたの指と舌に魔法をかけられ、熱い液が泉が噴き出したように溢れた。

 あなたの茂みのあいだの昂ぶりを口に含み、最初は優しく、次第に激しく愛していった。あなたは獣のように低く呻くと、そこに還ることが決められていたかのように、洞窟の扉を叩いた。洞窟は、待ち焦がれていたもののために開門した。奥深く分け入ってくるあなたを、すべての襞が吸い付くように迎え入れた。私たちは、自然に息の合ったリズムを刻み続けた。あなたの汗が滴り、動きが激しさを増し、目をぎゅっと閉じた。それを合図に、私は足にぐっと力を込めた。私の全身が震え、洞窟の壁が激しく収縮し、頭のなかが真っ白になった。


 あなたに背後から抱き締められ、2人の汗ばんだ身体はスプーンが重なるように密着した。

「不思議。今まで、セックスは苦痛でしかなくて、感じたふりをして、早く終わるのを待っていたんです。濡れなくてジェルを使うことも多かったです……」

「本当に? あなたは、とても自然に応えてくれた」

「怖いくらいに体が開いたんです。太古から待ち続けていたものに、やっと出会えたような不思議な感覚」私は体の向きを変え、あなたの胸に顔を押し付けた。大洋に抱かれているような安堵が全身に広がっていった。

「僕も同じだ。もう何年もセックスをしていなかったのに、体が驚くほど自然に反応した。水が低い場所に流れていくように自然だった」

 あなたは私を強く抱き寄せ、首筋に顔を埋めると、長い睫毛を瞬かせて、私の首筋をくすぐった。私はいたずらをされた子供のように、けらけら笑った。

「嫉妬したことありますか?」私はあなたの髪を撫でながら尋ねた。何本か茶色い毛が混じっていて、白髪染めをしているのがわかった。

「僕は毎日している。あなたと言葉を交わす、笑い合うすべての男に。志津にだってしている」

「本当に?」嬉しくて背筋がぞくぞくした。

「当たり前でしょう。どれだけ僕のものにしたいか……」

 背中に回されたあなたの腕に力がこもり、私たちはきつく抱き合った。生き別れた片割れに出会ったような安堵は、気だるい眠りを呼びよせた。

               ★

 時計を見ようと体を起こすと、あなたも目を覚ました。

「そろそろ帰らなくて大丈夫ですか? シャワー浴びますか?」

 あなたは、はっとしたように起き上がり、枕元の時計を見た。23時を過ぎていた。

「今日は送別会で遅くなると言っておいたから問題ありません。シャワーは浴びないで帰ります」

 あなたは衣服を次々と身に付けた。

「シャワー、浴びてからのほうがいいんじゃないですか?」

「妻は鼻が敏感なんです。石鹸や、水の塩素の匂いは、感づかれます。消臭スプレーを買って、服に吹きかけてから帰ります」

 私は服を着ながら、昨夜たいたウィンターグリーンの精油の残り香が漂っているのを思い出した。枕からは、昨夜垂らしたエルバヴェールが香っていた。枕元に置いていたエルバヴェールの瓶を慌てて引き出しにしまった。

「消臭スプレー、あります」私はリセッシュのボトルを持ってきてあなたに渡した。

 あなたはそれを手に取ると、首を振って私に返した。「香りのついているものはだめです。無臭のものをコンビニで探します」

「これからは用意しておきます。精油をたくのも、香水をつけるのもやめます……」

 きっちりと身支度を整えたあなたは、「ごめん」と私を強く抱き締めた。私たちは引かれあうN極とS極のように身体を密着させた。

 あなたは離れがたい抱擁をとくと、「ゆっくり眠ってください」と額に口づけてから帰っていった。

 ベランダから見送ったトレンチコートの後ろ姿は、夜の闇に飲みこまれるように輪郭を失っていき、やがて消えた。

 法的に「不貞行為」になる一線を越えてしまったことが、重くのしかかってきた。寒さからではない理由で全身が震えていた。