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連載小説「クラリセージの調べ」3-7

「何で瑠璃子が知ってるの……?」

 瑠璃子の端正なマスクは、能面のように表情を失くしている。隣に座わっているビジネスマンが忙しなく打つキーの音が、無機質に耳を通り抜けていく。

「結翔くんと知り合いなの?」

 同じ市内とはいえ、私や瑠璃子と、結翔くんの家はかなり離れている。だが、習い事や学習塾、高校、アルバイト先など、知り合う可能性のある場所は枚挙に暇がない。どこでどうつながっているかわからないのが地方の人間関係で、顔の広い瑠璃子が彼とつながっていても不思議はない。

 瑠璃子は顎の先で頷くと、感情を押し込めた口調で訊ねる。
「すーちゃん、結婚生活どう? 彼の実家とのことで、困ってない?」

「何でそんなこと聞くの?」
 
 上滑りの質問から、覚悟したように踏み出したのは瑠璃子だ。

「実は私の友達が、10年くらい結翔と交際していて、結婚話も出ていたの。でも、彼の実家の反対が強くて、いろいろ嫌がらせされたんだって。彼女は、彼と一緒になりたいから耐えていたけど、心身ともにぼろぼろになって、結局別れたらしいの。もう5年くらい前の話だけど……」

 動揺していないと言えば嘘だ。だが、それを匂わせる要素は、記憶のあちこちに散らばっている。それらを拾い、つなぎ合わせようとしても、脳が酸素を失ったように上手く働いてくれない。

 言葉を発しない私に、瑠璃子はばつが悪そうに言い添える。
「ごめんね。黙っているべきだったかもしれない。でも、家柄にうるさくて、クセの強いお母さんがいると知ってるから、心配になったの」

 瑠璃子に打ちのめされていないところを見せたい意地で、気持ちを立て直す。

「大丈夫。教えてくれてありがとう。この年齢になれば、重い過去の一つや二つなんてめずらしくないし」

 道ならぬ恋に魂を燃やした私が、彼の過去をとやかく言う気はない。脳に酸素が戻ってくると、できるだけ多くの情報を瑠璃子から引き出しておこうと気力が湧く。

「因みに、その元カノさんと親しいの?」

「大学時代、夏休みにこっちでファミレスのバイトしてたとき、一緒だったの。彼女も大学が東京だったから、向こうでも何回か会って、私の国立のアパートに泊まりに来たこともあるよ」

「どんな子?」

「一言で言えば、明るくて、周囲を巻き込んで引っ張っていくリーダーシップのある子。大学二年の夏休み、彼女、松重裕美まつしげゆみ裕美ゆみとバイトのシフトが一緒だったとき、急に大雨が降ってきたの。バケツをひっくり返したような豪雨。私は自転車で来ていた上に、傘もなくて頭を抱えてた。そしたら裕美が、彼氏が車で迎えに来るから、一緒に家まで送ってもらおうと言ってくれた。その彼氏が市川結翔。そのとき、3人でご飯を食べようという話になって、マクドナルドで雨が上がるまで話してた。それをきっかけに、2人と仲良くなって、結翔の家にもお邪魔した。彼は友達が多いから、よく仲間を家に招いて、飲み会や鍋をしていた。そこに私も招かれたの。
 それでね、今年の春、スーパーで裕美と偶然再会して、お茶をしたの。そのとき聞いたけど、彼女は結翔と別れてから、よく彼の家に遊びに来ていた野球部の先輩と付き合い始めて、一昨年結ばれたみたい。いま、フサちゃんのいる大学病院で不妊治療中」

 結翔くんが友達を家に招かない理由が判明した。彼が、私の耳に元カノさんのことが入らないよう配慮してくれているとわかり、申し訳なさで胸が詰まる。
 これ以上、知ってしまったら、彼と今まで通りでいられなくなるかもしれない。それでも、すべてを知りたい衝動に抗えない。

 深呼吸で脳に酸素を送り込み、瑠璃子の目を正面から見据える。
「差支えない範囲でいいから、結翔くんの家族が元カノさんに何をしたか教えてくれる? 瑠璃子から聞いたとは、絶対言わないと約束する」

 私の視線を受け止めた瑠璃子は、蝶が羽を動かすように優雅な瞬きをする。艶のある瞳が光を発し、せき止められていた水が流れるように話し出す。

「彼女から聞いた話だから、本当かはわからないけど、知っていることを話すね。結翔のお母さんは、最初から裕美の家が気に入らなかったらしいの。
 彼女の家は、夫婦で切り盛りする肉屋さんで、コロッケとか揚げ物中心のお惣菜が美味しいと評判の店。一人暮らしの若者、塾帰りの生徒、揚げ物をしない家族に人気。ホームパーティーのオードブルやバーベキューの材料にも対応してくれるから、うちも御用達にしてる。
 でね、裕美のお父さんと結翔のお母さんは小学校の同級生。裕美のお父さんは劣等生で、虐められていて、結翔のお母さんは彼を蔑んでいた。当然、親戚になるなんて論外。市川家は、娘と息子を最低でも教師、理想はそれ以上の職業の人と結婚させることにこだわってるらしいから」

「あの家に嫁いだ私からすると、十分ありえる話……」

「まあ、うちの両親も結婚となると、相手の家庭環境を気にするから、結翔の家だけが異常とは言えないけどね。変な家と親戚になったら、ずっとついて回るわけだし」

 瑠璃子の露骨な物言いに反発を覚える一方で、自分の親にもある程度当てはまり、自分もその影響を受けていないとは言い切れない。

「お義母さんは、最初から二人の交際に反対していたの?」

 瑠璃子は首を左右に振る。
「最初は、愛息子に初めて彼女ができたことを喜んだらしいの。付き合い始めたとき、二人ともまだ19歳だし、まさか結婚までいくとは考えてなかったんじゃない? 裕美は底抜けに明るくて、小学校からバレーボールやってて、バリバリの体育会系だから、すぐにお母さんと意気投合。何年かは良好な関係を維持していたらしいよ。裕美はお母さんと連絡先を交換していて、東京から帰省したときは、必ず市川家に遊びにいっていた。彼女は大学卒業後、地元に戻って、印刷会社に営業職で入社して、教師になった結翔との交際を続けていた。でも、30歳を目前にした二人が、結婚したいと市川家に挨拶にいったときから、猛反対が始まった」

「何があったの?」

「最初は、市川の両親と祖父母が、結翔に裕美と別れろと相当圧力をかけた。唯一、結翔に味方してくれたのが、裕美と仲良しだった二番目のお姉さんの絹さんだった。裕美が義妹になるなら嬉しいと後押ししてくれたんだって。本人同士がいいなら、実家は関係ない、いまは平成で時代錯誤なこと言うのが可笑しいと」

 絹さんが元カノさんと親しかったとわかり、私への風当たりが強い理由が見えてきた。理不尽な八つ当たりに思えるが、以前より納得できる。その頃、紬さんは既に家を出て、宇都宮に住んでいたのだろうか。

「結翔くんは説得に応じなかったということ?」

 瑠璃子は頷く。
「二人の絆は強固だったからね。互いに初めて付き合った人で、互いしか異性を知らないんだから。
 二人が出会ったのは中学。一緒に学級委員を務めて、性別を超えた親友のようだったと言ってた。裕美はずっと彼を好きだったけど、野球一筋で無骨な結翔は恋愛話に興味がなかったから、ソウルメイトのような関係を壊したくなかった。高校は違ったけど、互いに連絡を取り合って、たまに会っていた。一緒にバッティングセンターやボーリングに行ったり、野球やバレーの試合を観戦して盛り上がる友人関係が続いた。
 高校卒業と同時に、裕美が告白して交際開始。大学のあいだは遠距離だったけど、裕美は長期休みには帰ってきて、結翔も時間のあるときは上京して会っていた。子供が大好きな結翔は、児童養護施設のボランティアに熱心だったから、裕美も長期休みに一緒にやったことがあると聞いた。結翔は、子供は四人くらい欲しくて、家族であれもしたい、これもしたいと列挙していたらしいよ。
 結翔は恋愛に不器用だけど、裕美が悩んでいるときは駆けつけて、全力で助けてくれる頼りがいのある彼氏だった。彼女がぼーっとしていて、車にひかれそうになったとき、結翔が飛び出して、彼女を突き飛ばして守ってくれたことがあるんだって。二人で道路の端に倒れこんだ時、結翔が腕を折った……。命がけで彼女を守ったんだよね」

「結翔くんらしいよ……。中学で知り合って約16年か。互いが自分の一部になったように強い絆なのだろうね」

 そんな彼女を失った結翔くんを思うと、彼の陰影がにじむ瞳、私との行為に溺れない深く穏やかな瞳が浮かび、すべてが腑に落ちる。彼は私の中に同じものを見出したから、私を選んだのだろう。そのことは、強風が吹いたように心を波立たせたが、後には静かな水面が広がっていく。

「私が二人と知り合った頃も、一緒にいるのが息をするように自然なカップルだった。二人とも開放的な性格だから、たくさんの友人のなかにいるのが自然。二人が周囲を巻き込んで楽しい空気を創り出すから、周りに人が集まるんだよね」

 瑠璃子が私の反応を窺うように、上目遣いでちらりと見るのが癇に障るが、気づかないふりをする。

「結翔が家族の説得に聞く耳を持たないから、市川のお母さんは、裕美に圧力をかけ始めた。彼女を結翔に内緒で呼び出して、市川家は三代続く教師の家で戦前は地主だった由緒ある家だから、お宅とはつり合わない。あなたのお父さんみたいに工業高校中退の学歴を持つ人が親戚になったら、家の格が落ちると嫌味を浴びせた。
 結翔は長男だから、この家に嫁いだら同居は当然。嫁は朝4時に起きて家中を掃除。家族全員の朝食と弁当、祖父母の昼食を用意して、後片付けをしてから出社。仕事から帰ったら夕食と風呂の準備。夕食は年寄と若者は別の献立。嫁は食事も風呂も一番最後。風呂掃除と洗濯、朝食の準備をして一番最後に就寝。家事の合間に子供の世話。私もそうして教師と家庭を両立して、3人の子供を育てた。嫌なら、諦めることだと言ったらしいよ」

「そんなことを言われて、彼女は怯まなかったの? 自ら地獄に飛び込むようなものじゃない。私なら、その時点でひくけど」

「彼女は負けん気の強い性格だから、体力に自信があるから大丈夫だと言い張ったの。
 そしたら、市川のお母さんは顔が広いから、友人知人に裕美の実家の店の評判を落とすことをふきこんだり、ネットで店の評価を悪くつけ始めた。実際にお得意さんが何人か離れたみたい……。
 彼女の両親も、結翔を気に入っていたけど、大切に育てた娘をそんな家に嫁がせるわけにはいかない、いますぐ別れろと娘を説得し始めた。市川家にも文句を言いに乗り込んだ。当然だよね」

「大切な彼女にそんなことをされて、結翔くんは何してたの?」

「結翔は裕美を守って、母親と全力でやりあって険悪になっていた。
 でも、裕美が結翔に、家を出て二人でアパートを借りて暮らしてほしいと言ったら、自分は長男として育てられて、家を継がなくてはならないから、それはできないと言われた。何度も話し合いを続けたけれど、結翔は首を縦に振らなかった。心身ともに疲れていた彼女は、そんなマザコン結翔に失望して気持ちが離れ始めた。結翔は、彼なりに妥協点を模索し続けていたらしいけど……」

 瑠璃子は一度言葉を切ってから続ける。
「そんなとき、お母さんが結翔の気持ちを揺さぶることに成功したの。裕美は生理が重くて、結翔の家で気分が悪くなって倒れたことがある。そこに目をつけたお母さんは、市川家に入るなら、男子を産んでもらわないと困る、あなたはそっちのほうは大丈夫かと詰め寄った。本気で結翔と一緒になりたいなら、事前に診てもらってほしい、一緒に花房クリニックに行こうと言ったの。嫌なら結婚は許さないと脅されて、裕美はしぶしぶクリニックに同行した。半ば連行だったらしいけど」

「それ、ほとんどホラーじゃない。まさか、お義母さんも診察室に入ったの?」

「結翔のお母さんと花房クリニックの院長は高校時代からの親友で、ママさんバレー仲間。だから、義理の娘になる予定だと言って、強引に診察室に入った」

「お義母さんなら、やりかねない。結果はどうだったの?」

 瑠璃子は目を伏せ、かすれ声で告げる。
「かなり大きな筋腫が複数見つかったんだって。それも、受精卵の着床を妨げる粘膜下筋腫と筋層内筋腫。生理が重いのは、そのせいだったんだね。
 市川のお母さんは、それに勢いづいて反対の声をさらに大きくした。お母さんは裕美と結翔を呼び出して言ったの。裕美は子供のできにくい身体、授かるためには筋腫の薬物治療と手術が必要。その後、辛い不妊治療を経ても授かれるかわからない。裕美をそんな目に遭わせても平気なのかと結翔に迫った……」

「そんなの卑怯すぎるよ!」

「だよね。でも、愛する彼女にそんな苦労をさせるとわかって、結翔の気持ちは揺らぎ始めた。そして、悩んだ末に、これ以上彼女を苦しめることはできないし、こんな家に来てもらうのは彼女の両親に申し訳ないと、彼女を解放することを選んだ。つまり、別れを切り出した」

「元カノさんは受け入れたの?」

「うん。彼女はかんかんになった両親に説得されていたし、心がぼろぼろで、結翔を信頼できなくなっていた。
 それに、結翔は口にしなかったけど、彼を深く理解する裕美は気づいていた。子供が大好きな結翔は、子供のいない未来を考えられない人だということに。裕美は、自分が別れ話を受け入れた時、結翔がほんの一瞬見せた安堵の表情を見逃さなかった。彼女は、そのことに一番傷ついたんじゃないかな……」

 気が付くと、私は下腹部に手を当てていた。絆の強い二人を別れに導いたのは市川家の反対かもしれない。だが、決定打になったのは「子供」だ。

 私は、結翔くんを父親にしてあげられるだろうか?