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澪標 12

 クリスマスイブをあなたと過ごせると知り 、私の胸は何週間も前から躍っていた。

 平日のアフターファイブなので、どこに出かけようか、プレゼントは何にしようかと、寝る間も惜しんで考えた。あなたの希望を尋ねると、私に決めてほしいと言われたが、私もあなたの希望を聞きたいと言い張った。

 あなたは意外にも、私の部屋で手料理が食べたい、それが何よりのプレゼントですと目元を緩めた。プレゼントは何がいいかと聞かれた私は、あなたの好きな本が読みたいとねだった。あなたは、共有できるものが増えると嬉しいからという私を見て、それなら僕もあなたの好きなものを読みたいですと口元をほころばせた。


 あなたは、木枯らしで乱された髪を気にしながら、白ワインと書店の袋を下げてやってきた。

 書店の袋から、スベトラーナ・アレクシェービィチ『戦争は女の顔をしていない』が出てきた。ノーベル文学賞を受賞した初めてのジャーナリストの作品だと知っていたが、読んだことがなかった。あなたは、貪るように目次を眺める私に、後で感想を聞かせてくださいと微笑んだ。

 私は、ジュリー・オオツカ『屋根裏の仏さま』を贈った。大学でアジア系アメリカ人文学を専攻した私は、エスニック文学全般を好んで読む。あなたは、知らなかった一面を知りましたと興味深そうに本をぱらぱらめくり、寝る前に少しづつ読みますと大切そうに鞄にしまった。


 テーブルに、シーフードと野菜をたっぷり入れたクリームシチュー、有機野菜のカラフルサラダ、ホームベーカリーで焼いた丸いミルクパンを並べた。あなたの買ってきてくれた白ワインを味見してみると、口当たりがよく、今日のメニューに合いそうで嬉しくなった。

「このシチュー、シーフードの味がとてもよく出ていました。ぺろりと平らげてしまいましたよ」あなたは、お皿をパンで丁寧に拭った。

「先に冷凍シーフードで出汁をとっておいて、煮込むとき水の代わりに、それを入れるんです」

「なるほど。これだけの味を出すには、シーフードが相当必要だと思いましたが、その方法だと経済的ですね。僕も……」

 あなたが、「家で作ってみます」という言葉を飲み込んだのがわかり、ざらざらとした感情が胸に広がった。あなたも、私の感情を察したのか、気まずそうにパンでお皿を拭い続けた。

 日々の生活に根差した心地良さが愛着を深めることは、私も知っていて、耐えがたい嫉妬に襲われた。それを表出させまいと、私はお皿を片付け、デザートの準備をした。

 クリスマスに定番のケーキは、あなたが好きだというアップルパイにした。中に入れる焼き林檎は砂糖とシナモン、レーズン、ブランデーで味付けた。パイ生地にカスタードクリームを敷くように塗って焼き、コクを出した。

 あなたは、さくさくしていて美味しい、具も食べ応えがあって僕好みと、珈琲を飲みながら3切れも食べてくれた。パイ生地をこぼさないように、きれいに食べるのがあなたらしかった。

「そうそう、年末に、新潟の祖父母の家に風を入れに行きます。日帰りになりますが、一緒に行きませんか?」

「いいんですか……、私なんかが行って?」

「私なんかという言い方はやめてください。あなたには、僕の周囲のことを知っていてほしいんです。本当は、あの荒海を見に行った日も、あなたをあの家に連れていきたかったんです」

「嬉しいです。でも、御家族に失礼じゃないですか……?」

「妻は毎日、どこかをそぞろ歩いています。息子も察しているらしく、悪い影響が出ないか心配です」

 あなたは苦々しそうに吐き捨てた。息子さんは、あなたの行動にも不審なものを感じているのではと思ったが、口に出すことはできなかった。

「妻の火遊びについては、お義父さんとお義母さんに、手紙で知らせました。このまま続くようなら、別居を考えていると書いておきました。高齢の2人に心配をかけるのは申し訳なく思いますが」

 あなたの静かな怒りがにじむ横顔に背筋が冷えた。いろいろなものが動き出していることを肌で感じ、その重みを全身で受け止めた。


              ★

 あなたの父方の祖父母の家は、海岸から1キロも離れていない意外と現代的な2階建て住宅だった。庭の雑草はほとんどなく、木々は葉を落としていた。あなたはポストに溜まっていたチラシをかきだし、水道の元栓を開けた。

 縁側に寝そべっていた大きな黒猫が、むっくりと起き上がり、バツが悪そうに去っていった。縁側には、猫の吐しゃ物と思われる染みがいくつかあり、猫たちの集会場になっていたことが伺えた。

 あなたと一緒に縁側から上がった。思ったより、家具や床の埃は目立たず、あなたの手が入っているように見えた。縁側から差す陽射しの匂いが優しかった。庭の木々の影が、ベージュの絨毯に精緻な模様をつくっていた。

 あなたは、「適当に座っていてください」と言ってから、コートを着たまま忙しなく動き回り、電気のブレーカーを上げ、止水栓を開け、家じゅうの窓を開け放った。冷たい風がなだれ込むと、滞留していた空気が動き出し、家全体が息を吹き返した。

 あなたは、5つある部屋を案内しながら、私に少年時代の思い出を語ってくれた。部屋のあちこちに、あなたの面影が見え隠れし、初めて来た場所なのに親しみが湧いてきた。千葉県出身の祖父は、大学時代を過ごし、サラリーマン時代にも長く赴任していた新潟市が気に入り、定年後に夫婦で移り住んだという。あなたは、最後は2人とも施設に入って、病院で亡くなったと寂しそうに言った。

 あなたが家具の埃を払っているあいだ、私は雑巾を濡らして、縁側を掃除した。水の冷たさで手が赤くなり、ゴム手袋を持ってくればよかったと後悔した。さっきの黒猫は、庭の大きな石の上に寝そべり、時折目を開けて私の動きを窺っていた。

 一息つくと、あなたがガスの元栓を開け、お湯をわかして緑茶を入れてくれた。2人ともコートを着て、日の当たる縁側に座ってお茶をすすった。黒猫は、いつの間にかどこかに行ってしまった。

「ここには、よく来ているようですね」

 家全体に手入れが行き届いていて、電気も水道もガスも止めていないことから、それが伝わってきた。

「親戚は、売ってしまえと言うんですけど……。高く売れるわけでもなく、壊すのも金がかかるので、僕の隠れ家にしています。近所もほとんど空き家で、同じような状態です」

 あなたは、赤くなった私の手に気づき、悪かったねと気づかわし気に言った。私は、気にしていませんとバッグからエルバヴェールのハンドクリームを取り出してぬった。

「あなたと、ここで暮らすのも楽しそうですね」

 あなたが視線を彷徨わせながら、ぼそりとつぶやいた言葉に、胸が震えた。あなたは、照れたように話をそらせた。

「アレクシェ―ヴィチ、読みましたか?」

「はい、読みだしたら止まらなくて。読み終えると、憤り、悲しみ、敬意など様々な思いが胸に吹き荒れて、ベッドに入ってもなかなか眠れなくて困りました。インタビューをしたアレクシェ―ヴィチの苦悩、知的な反応、芯の強さや使命感、語った人びとの悲しみ、使命感、しなやかな強さが伝わってきて、双方に深い敬意を感じました。頁を繰るたびに、あなたが感じた憤りを後追いしているような気がし、これを選んでくれた意味がわかりました。彼女の他の作品も読んでみたいです」

 あなたは私の感想に深く頷いてくれた。

「僕もあなたのくれた2冊を夢中で読みました。移民で構成されるアメリカは、どこかの国と外交関係が悪化したときに、その国と血縁のある人々に憎悪が集まってしまう。そのことで、人生を破壊された人びとの悲しみが深く迫ってきました。今まで、よく知らなかったことが悔やまれます。あの作家さんは、美術を専攻したのですね。アメリカに写真花嫁として嫁いだ一人一人の語りが集まり、一枚の絵を描くような創作スタイルに感銘を受けました」

「そうなんです。私も、一人一人に背後から囁かれているような感覚で、読み進めていきました」

「あなたが選んだ本も、僕が選んだ本も、逃れられない運命に飲み込まれた人びとの声を集める点で共通していましたね」

「はい、私も同じことを考えていました。ところで、年末年始にも本を読みたいので、何か紹介してくれませんか?」

「もちろんです。僕にも何か紹介してください」


 あなたに、ウィンストン・チャーチルの『第二次世界大戦』を勧められ、すぐに地元の図書館で4巻全部を借りてきた。実家に往復する電車内で、夢中で頁を繰りながら、戦時に英国民を鼓舞した力強い政治家のイメージが強かったチャーチルが、これほど繊細で奥の深い文章を書いていたことに感銘を受けた。彼がノーベル文学賞を受賞していたことも初めて知った。本に熱中していたので、いつもは実家にいくと蠢き始める劣等感をすっかり忘れていた。

 私は、政治学科出身のあなたが興味を持ちそうなミシェル・ウェルベック『服従』とオルハン・パムク『雪』を紹介した。あなたは、何かを強く感じるたびに、私にLineで報告してくれた。年末年始は、無数のメッセージが2人の間を行き交った。

 幸せだった。新しく迎える年も、この幸せが続くと信じて疑わなかった。