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連載小説「クラリセージの調べ」5-1

※ 診察シーンは一例です。治療については専門医にご相談下さい。

 四度目の人工授精も上手く行かず、私は行き詰まりを胸にフサちゃん先生の前に座っている。

「何だか疲れてしまいました」

 先生は、寄り添うような眼差しを私に注ぐ。
「治療を続けていると、そんな気持ちになることがありますよね。よく頑張っていると思います」

 シンプルな言葉だが、神経質になっている患者を刺激しないよう、注意深く選ばれた響きがする。今まで何人もの患者にかけてきたかもしれないが、自分だけに差し出されたように聞こえるのは人柄ゆえだろう。

 私は何に疲れているのだろうか。もちろん、いつまでも授かれない疲れがある。だが、それ以上に、いろいろなことがおりのように積もり、一語に凝縮されたように思える。

 夫と裕美の密会、子供ができなければ養子をとるという義母の発言、何の資格もないと見下された屈辱、夫の冷淡な反応、義姉の棘のある言葉、義父の粘りつくような視線と気味悪い言動。前に進み始めた瑠璃子とすずくんを前にした焦り。両親の言う「ちゃんとする」を早くかたちにしたい焦燥感……。

 そんなものが体内に積もり、身動きできなくなっている。

「先月で35歳になりましたね……」
 フサちゃん先生は、ディスプレイに表示された電子カルテに目を向ける。

「計画書の通り、再び人工授精を試してもいいですが、このあたりで体外受精にステップアップしてみるのも良いと思います」

 スタンドの光が、フサちゃん先生の濃い睫毛に注ぎ、目元の陰影を濃くする。

「体外受精や顕微授精にステップアップする場合、ここではできないので、転院していただくことになります。私のいる大学病院に来ていただければ、引き続き診ることができます。ですが、少し遠いので、ご負担をかけることになります」

 以前であれば、考える間もなく、妊娠する確率の上がる体外受精や顕微授精に飛びついた。だが、それを提示された瞬間に出たのはためらいで、そんな自分の感情に驚き、後ろめたさを覚える。

 もちろん、私は子供が欲しい。その気持ちに偽りはない。
 にも関わらず、料亭で瑠璃子が口にした「あの家で子育てすることを真剣に考えたことある?」という問いが木霊する。あのとき私は、義実家との関係にストレスはあっても、全面的に私の側に立ってくれる夫がいればやっていけると言い張った。

 いまの私は、夫への信頼感が、あの時と同じではないのだと気づいた。
 
 子供を持つことで失われるものを訴える瑠璃子の赤らんだ目が脳裡にちらつく。授かることは大きな歓びではある。だが、私が看護師資格を取得し、経済的に自立する機会は失われてしまうか、遥か先になってしまう。院内に流れるオルゴールサウンドの「A whole new world」がこれ以上ないほど皮肉に響く。

 返事ができないまま、足元に目を落とすと、先生が瑠璃子の選んだ靴を履いていないことに気付く。

 私が迷っていると察し、先生は費用がかかること、大学病院の初診を受け付ける日が週二回しかないこと、治療のために遠方の病院に何度も通う必要があること、麻酔をかける採卵日は車を運転して帰宅できないことなどを申し訳なさそうに説明する。

 ご主人とよく相談してくださいと締め括られ、閉塞感で固まる足を無理に動かして診察室を出る。


           ★
 クリニックを出ると、新しい生命の匂いを含む初夏の風に頬をなぶられる。街路樹に芽吹く若葉は瑞々しく、命を謳歌するように風にそよいでいる。いまの私にはまぶしすぎ、視線が下向いていく。 

 住宅街に差し掛かると、風にはためく鮮やかな鯉のぼりが目を引く。最近は揚げる家が減ったが、子供の頃はあちこちにひるがえっていた。それを見ると、ゴールデンウイークの到来を感じ、心に爽やかな風が吹き抜けた。去年は、夫のために揚げていた鯉のぼりを皇太郎くんと悠くんのために揚げた。男の子を授かり、その子のために鯉のぼりを揚げる私と夫を想像するが、なぜか思い描けない。

「え?」
 市川家に通じる道に入ったとき、10メートルほど前方にパジャマ姿の年輩男性が心細そうに立っている。ズボンが片方ずり落ちかけ、白い下着がのぞいている。

「おじいちゃん!?」

 アクセルを踏んで前進し、驚かせないように注意して近くに停車する。

「おじいちゃん、どうして一人で出てきちゃったんですか?」
 慌てて駆け寄ると、彼が裸足はだしだと気づく。

 彼が親にすがる小動物のような目で私を見たことで保護欲が湧き上がる。こんな姿をご近所に見られてはならない。おじいちゃんの尊厳を守るために、すぐに車に乗せなければならない。

「さ、帰りましょう。ガラスや石を踏まないように気を付けてくださいね」

 骨の浮く背中を抱きかかえるように支え、助手席に乗せて市川家の庭に乗り入れる。母屋の玄関からサンダルを持ってきて履かせながら、そもそも鍵が開いていることが問題だと思った。

「さ、おじいちゃん、おうちに入りましょう」

 車から降りてもらい、背中を押して玄関に向かおうとすると、「ここは違う家だよ」と怯えのにじむ声が絞り出される。

「どうして。ここはおじいちゃんの家ですよ」

「こんなハイカラな家じゃない!」
 おじいちゃんは萎んだ目を見開き、しゃがれ声で訴える。

 無理に家に押し込んでしまおうと思ったが、彼はこの年齢にしては背が高く、思ったより力がありそうだ。抵抗されたら、154センチの私では抑えきれない。転倒して大腿骨を折り、寝たきりになってしまった祖父のことが脳裡を過る。同じ状況になってしまったら大変だ。以前見た何かのパンフレットで、認知症の人の間違いを正してはいけないと書いてあったことが頭の片隅にぽっと浮かぶ。

「後でおじいちゃんの家にお連れしますから、それまでこの家でお待ちいただけますか?」

「あの人っ、あの人はどうしたんだい?」

「中でお待ちですよ。入らないと会えませんよ」

 身体の力がふっと抜けた瞬間を見計らい、手を引いて玄関に連れていく。

「すみません! おじいちゃんが外に出ていました!」

 しんとして反応がなく、皆は何をしているのかと怒りが募る。そういえば、お義母さんの車がない。皇太郎くんを連れて買い物にでもいったのだろうか。お義父さんはどこにいるのか。

 おじいちゃんを支えて一緒に玄関から上がり、寝室に連れていく。ベッドに腰かけさせ、ウェットティッシュで足を拭いている間も、おじいちゃんは心許ない目で周囲を見回している。

「すみません」
 他人行儀な眼差しで、神妙に頭を下げられる。

「いいえ。少し横になりましょうか」

「寝たほうがいいですか?」
 おじいちゃんは敬語になり、お客様に向けるような愛想の良い笑みを浮かべる。自分のことをわかってもらえないのは寂しいが、言うことを聞いてもらえるなら致し方ない。

「そうですね。お疲れでしょうから、少しここで休みましょうか」

 おじいちゃんは、ベッドに腰かけた状態から、どう横になったらいいのかわからないように戸惑っている。何気ない動作さえ、やり方を忘れてしまうのが不憫だ。細い脚を抱えて持ち上げ、背中を倒すのを補助するとうまく横になれた。そっと布団を掛けると、「すみませんね」とよそ行きの声が返ってくる。

 誰かが帰ってくるまで付き添っていようと、脇の椅子に腰を下ろす。枕元にある唱歌の本を手に取ってぱらぱらめくると、曾祖母や祖父母が歌っていた歌が案外多い。

 おじいちゃんは落ち着かないようで、きょろきょろしながら身体を起こしてしまう。

「おじいちゃん、寝ましょうね」

「せっかく来てもらったのに、何もお構いできなくてすみませんね」
 この状態になっても、あるじとして客をもてなそうとしているのだと胸を打たれる。

「どうぞおかまいなく」

「何もできないけど、歌でも歌いましょうか?」

「はい! ぜひ聴かせてください」 

 おじいちゃんは、細い体のどこにこんなパワーがあるのかと思う声量で同じ歌詞を何度も歌い続ける。

「何の歌ですか?」

「旧制中の校歌」

 誇らしげに肋の浮く胸を張るおじいちゃんを見て、祖母と母が戦後は地域の進学校になった女子校の校歌をよく歌っていたことを思い出す。進学校に落ちた私は、出来の良い家の伝統を引き継げなかったことに罪悪感と疎外感を覚えた。

 ドアがかちゃりと開き、お義父さんが目をこすりながら顔を出す。
「親父起きたの?」

 義父が家にいたことにぎょっとし、すぐにこの場を辞さなくてはと身構える。

「おじいちゃん、前の道に出ていたんです。すぐに車に乗せて、部屋に連れてきました。怪我はないと思いますが、よく見てあげてください」

 義父が何か言う前に、さっと横をすりぬけ、一目散に玄関に向かう。

             
          ★
 筍の炊き込みご飯が炊きあがり、しゃもじでかき混ぜているとき、チャイムが鳴った。夫の帰宅にはだいぶ早いと思いながらモニターを見ると、紙袋を下げた義父が立っている。

 すずくんに教えてもらったカメラのことを瞬時に思い出す。設置してから、すっかり忘れていたが、今は頼もしく思う。念の為、スマホの録音機能をオンにし、エプロンのポケットに入れてから応答する。

「じいさんのことで迷惑かけたね。ちょっといいかい?」

 玄関に出ると、義父が神妙な面持ちで切り出す。「今日のことで、じいさんの徘徊の対策を考えなければならない。ちょっと相談してもいいかい?」

「はい。でも、結翔さんも交えたほうがいいと思います。帰ったら、母屋に伺いましょうか?」

「さっきの状況を聞きたいから、少しいいかい? お礼に本を持ってきたよ」
 上がりこむ気が満々の姿を前に、断れば角が立つと思い、渋々スリッパを進める。

 ソファに掛けた義父は、バツが悪そうに切り出す。
「悪かったね。親父が寝てると思って、二階でうたた寝してしまった。親父が夜中に歌を歌い出すから、こっちも起こされて寝不足なんだよ」

「大変ですね。私の曾祖母のときも似た状況でした。家族全体が振り回されてしまいますよね」

「うん。皇太郎には、曽祖父の惨めな姿を見せたくないから、いないときで良かったよ」

「はい。おじいちゃんが外に出ないように、何か対策を取るのですか? 今日の状況を考えると、迷子になったり、怪我をしてしまうことが心配です」

「うん。これからは出られないようにするよ。今の鍵は親父が開け方を覚えてるから、チェーンをかけて、門につっかえ棒もする。明日、ホームセンターに行ってくるよ。澪さんが来るとき、閉まってたら、勝手口から入ってね」

「わかりました」

「これ、キングの新作。結翔が読みたがっていたから。あなたも読むといい」

「ありがとうございます」

 要件は済んだので、お引き取りいただくことを願うが、立ち上がる気配はない。

 私はお茶を入れ直す際に、すまし汁をかき混ぜ、夕食の準備に忙しいアピールをする。

「今日の夕飯は何だい?」

「筍の炊き込みご飯とすまし汁です」

「美味しそうだねえ。結翔は毎日旨いものを食べられて幸せ者だな。私が代わりたいよ」

 義父がキッチンに入ってきて背後に立ったので、反射的に身体をそらす。監視カメラはキッチンをカバーしていない。

「宜しければ、筍ご飯をお持ちになりますか? たくさん作りすぎてしまったので」

「いいのかい? 是非いただきたいよ」

 タッパーに入れると、返しに来るのを口実に訪問されそうなので、使い捨ての容器に入れて渡す。

「筍たっぷりだね。買うと高いだろう?」

「群馬の友人が送ってくれました。裏庭の竹やぶに生えるようです」

「それはありがたいね。そういえば、絹のお祝いのときに澪さんが作ってくれたすまし汁、本当にいい味だったよ」

「ありがとうございます。お口に合って何よりです」

「今日もすまし汁なの?」

「ええ。お持ちになりますか?」

「うん。まあ……、母さんが気を悪くしそうだからね。ここで一杯もらえると嬉しいな」

 まだ居座るのかと思ったが、飲んだら帰ってくれることを期待する。

「ああ……、この味だ」
 義父は万感の思いを込めるかのように、椀を持ったまま、きつく目を閉じる。

「昔、あなたによく似た女性に作ってもらった味に似てるよ。まるで、タイムスリップしたようだ」

 粘り付くような視線を注がれ、全身に悪寒が走る。

「気に入っていただけて光栄です。必要ならレシピを書くので、お義母さんに作ってもらって下さい」

 嫌味な言い方だと思ったが、面倒なことに巻き込まれたくない。

「ははは、レシピを見ても母さんが作ったら別物になりそうだな。絹の赤ちゃんが産まれたら、お祝いをしよう。そのときにまた飲みたいね」

 容器を抱えて帰っていく義父を見送ると、安堵の溜息が出る。念の為、スマホの録音とカメラの映像は保存しておこうと決めた。