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連載小説「クラリセージの調べ」4-1

 結翔くんと私は、年始の挨拶のために、体温を測ってから、不織布のマスクをつけて私の実家を訪れた。結婚の挨拶はZOOMだったので、彼が私の実家の敷居を跨ぐのは初めてだ。

 灰色の空に厚い雲が流れるどんよりとした日だが、床暖房の効いた家は暖かい。結翔くんは、私の育った足跡をたどるかのように、一つ一つの部屋を見てくれる。彼を案内しながら、 少女時代の時間と、彼と歩む現在の時間が同時に流れ、溶け合うような錯覚に陥る。

 すべての部屋と広くはない庭を見た後、二階にある私の部屋に落ち着く。
 
「私が生まれる前からうちにいて、中学まで飼ってたナナ。庭にあった犬小屋はこの子が使ってたの」
 
 ベッドに腰かけた結翔くんは、壁に飾られた白スピッツの晩年の写真に目をこらす。
「可愛いワンちゃんだな。澪、一人っ子だから、姉妹のように育ったんじゃないか?」

「本当にそう。餌をやって、毎日散歩にいって、予防接種に連れていって、フィラリア予防の薬を飲ませて、老いていくのを見守って……、命を預かる責任を教えてもらった」
 ナナがいなくなって何年も経つのに、実家に泊まって目覚めると、朝食をねだるナナの声が庭から聞こえてくる気がしてならなかったことを、ふと思い出す。私の思い出が消えない限り、ナナはこの家に生きているのだろう。

「死んでしまったときは悲しかっただろう?」

「うん。中学の期末テストの日の朝、犬小屋のなかで冷たくなってた」

「それは辛かったな。澪は芯の強い女性だから、気力でテストを頑張ったんだろうな」

「うん。しんどかったけどね。結翔くんは、子供のとき何か飼ってた?」

「いろいろ飼ったな。金魚やメダカから始まって熱帯魚のグッピーとネオンテトラ、ハムスター、小鳥、犬、猫……」

「随分いろいろ飼ったね」

「うちは、親父が命を預かる責任や、命の儚さを学ばせるために、いろいろ飼わせたんだ。姉貴たちも俺も、世話を怠ったら、親父に雷を落とされた。だから、ペットが病気になったら寝ずに看病して、最後は皆で看取って、墓をつくって泣いて……。今思えば、親父には本当に感謝してるよ」

「前から思ってたけど、結翔くんはお父さんをすごく尊敬しているんだね」

「ああ。親父は、俺たちが子供の頃から、怒鳴ったり手を上げてでも、大切なことを教えてくれた。そのときは、何でこんなに怒られるのかわからないこともあったよ。何年も経ってから、ようやく理解することもあって、気づいたときに改めて親父に感謝した。俺たち三人に、常識が身についているのは、親父のおかげだ」

「例えば、どんなことが印象に残ってる?」

「いろいろあるけど、あのときは驚いたな……。
 俺が小学一年のとき、親父の教え子の卒業生が、春休みにうちへ遊びに来て、庭でバーベキューをした。小学生だった俺たち三人も参加させてもらった。そのなかにいた気の弱そうなお兄さんが、見るからにスマートそうな背の高いお兄さんに、食べる暇もないくらいパシリにされて、悪態をつかれてた。スマートなお兄さんのやり方は陰険で、親父の目が届かないところで、『お前の焼いた肉が焦げてた』とか『さっさとみんなに飲み物を注げよ、ボケ』とか毒を吐いてた。そのお兄さんは、皆と談笑しながら、テーブルの下で気の弱そうなお兄さんの足を蹴ったり、踏みつけたりしてた。気の弱そうなお兄さんは怖くて仕方なかったと思う。他のお兄さんたちも、たぶん気づいてたと思うけど、見て見ぬふりをしていた。多分、在学中もそんな感じだったのだろうな」

「優等生なのに、先生の目が届かないところで、陰湿な虐めをする子いるよね。学校の先生には、虐められてる子に、虐められないように強くなれと指導する人もいるけど、それって難しいよね」

「うん。親父は、皆で食べているとき、いきなりスマートなお兄さんを殴り倒したんだ。そのお兄さんは勿論もちろん、みんな何が起こったかわからなかった。殴られたお兄さんは、芝生の上に仰向けに倒れた。親父は無様に倒れている彼に、『おまえがどんなに勉強や運動ができても、クラスをまとめるのが上手でも、いまのお前は最低だ! 俺はお前を心底軽蔑する!』と、隣近所まで聞こえるほどの怒号を浴びせた。しばらくして、親父は彼を助け起こすと、『これからは、おまえの恵まれた能力を弱いものを守るために使え。そうすれば、おまえは今の100倍いい男になれる』と語りかけた。親父は他のお兄さんたちを振り返ると、『いいか、見て見ぬふりをしているのは、加担してるのと同じだぞ!』と怒号を浴びせた」

「暴力は良くないけど、スマートなお兄さんが、お義父さんの言ったことを正しく理解できたなら、意味はあったね」

「さすがに澪は理解してるな。何年か経って、そのお兄さんが成人式の後、うちに遊びにきたらしい。『あのとき、市川先生に殴られなかったら、俺はずっと格好悪い最低野郎のままでした。自分と同じようなことをしている奴を見ると、勇気を出して注意できるようになりました』と言ったそうだ。親父は嬉しくて、そのお兄さんを飲みに連れていったそうだ」

「良かった。お義父さんが、暴力教師として訴えられるリスクを冒してまで殴った意味はあったね」

 結翔くんは瞳に光を宿して頷く。
「親父はそういうことができる人だ。俺もそんな教師になりたいよ」

 そんな彼を目にすると、私がお義父さんに感じている気味悪さを口に出してはいけないと思った。


 お茶が入ったと母に呼ばれ、外していたマスクをかけて階下に下りる。白い不織布マスクをかけた両親が、結翔くんに見せようと古いアルバムを用意していることに、げんなりする。結翔くんが初めて来たので、両親も嬉しいのだろうと怒鳴りつけたいのを堪える。一刻も早く恥ずかしい時間が過ぎ去るのを祈るしかない。

 床暖房の効いた床で、二年前に迎えた柴犬の雑種タケルが、気持ち良さそうに眠っている。時折、会話に反応するように耳がぴくりと動くのが可愛らしい。

 結翔くんは、アルバムをめくりながら、感慨深そうに言う。
「澪は本当に大切に育てられたのですね……」

 父が相好を崩して頷く。
「一人っ子でしたからね。親バカで恥ずかしい限りですが、どこに出しても恥ずかしくないように育てたつもりです」

「本当にそう思います。澪は、良識があって、物事の筋を通す芯の強い女性です。家事が上手な上に、癖の強いうちの家族ともうまくやってくれる完璧な妻です。こちらにお邪魔して、彼女が育った環境を見せていただき、こんなに魅力的な女性になった理由がわかりました」

 感じの良い婿を演じてくれる結翔くんに申し訳ないが、恥ずかしさが先に立ってしまう。
「やめてよ、恥ずかしい! 心にもないこと言わないでよ」

 母が柔和な笑みを浮かべながらも、含みのある口調で言葉を添える。
「確かに、褒めすぎね。結翔さんも気づいたと思うけど、澪は頑固で扱いにくいところがあるでしょう。そんな欠点も含めて、どうか宜しくね。
 あなたもベテランの先生だからわかると思うけど、あなたが大事に育てられたように、どの子も、もちろん澪も宝物のように育てられた子なのよ」

 結翔くんがすっと背筋を伸ばす。
「本当にそう思います。こんなに素晴らしいお嬢さんを妻にさせていただいているのですから、もっともっと大切にしなくてはと身が引き締まります」

「十分大切にしてもらってるよ……」

「結翔くん、感謝してます。あとは、子供の誕生を待つだけだね」

 無邪気に言う父を牽制するように母が畳みかける。
「子供は授かりものですから、どうかプレッシャーをかけないでください。二人で歩む人生も選択肢に入れてくださいね」

 結翔くんの瞳に、さっと影が差す。

 それでは、彼が裕美ではなく私と結婚した意味がなくなってしまう……。何か言わなくてはと思うが、言葉が見つからず、口の中が張り付くように乾いていく。

「澪は、子供のことで重圧を感じているようで、母親として心配になってしまいます。私は決して子供がすべてではないと思います。どうか、澪が自分を肯定でき、能力を発揮できる人生を送れるようにしてくださいね」

「母さん、そういうことは二人に任せよう。さあ、今日は結翔くんが初めてこの家に来てくれたから、ごちそうを用意してるんだ! そろそろ、夕飯にしようじゃないか」

 話の腰を折られた母は、諦めと苛立ちの浮かぶ目で父を睨む。

 結翔くんは、雲行きが怪しくなった空気を脱しようと、少年のように快活な声で尋ねる。
「何がいただけるんですか? 俺、腹ペコですよ」

「母さん自慢の海苔巻き寿司と、すきやきを用意してるんだ。今日はいい肉と下仁田ねぎが手に入ってね」

 結翔くんの目元に、柚子の果汁が飛び散るような笑みが広がっていく。
「俺の大好物ばかりじゃないですか!」

 父と結翔くんの会話が行き交うのを横目に、母の心配そうな視線が私に注がれる。