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連載小説「クラリセージの調べ」3-4

 朝晩の冷えが厳しくなると、空気に透明感が増す。玄関の掃き掃除をしながら、結翔くんと出会って一年が経ったと気付く。

 今日の午後、お義母さんは町内会の会合、お義父さんは教員時代の仲間と会うので、私が皇太郎くんのお世話をし、おじいちゃんの訪問診療に立ち合う。すっかり市川家に組み込まれた一年を思うと、目まぐるしい変化に驚いてしまう。

 そんな感慨を断ち切るように、ゴパンが焼き上がりの電子音を鳴らす。皇太郎くんのおやつの米粉バターケーキが焼き上がり、香ばしい香りが漂う。手を洗ってミトンをはめ、ケースから取り出しながら、小麦粉よりも喉にまとわりつかないので、おじいちゃんにも食べてもらえるだろうかと考えた。いつも、おじいちゃんの部屋にはお義父さんがいるので、おやつを渡して失礼してしまうが、今日は少し話ができそうだ。早く孫ができたと報告したいが、それが叶わないのがもどかしい。

 時間より少し前に母屋に伺うと、お義父さんは既に出かけていて、お義母さんがせかせかと台所で動いている。あの週末から、私は母屋を避けてきたが、結翔くん曰く、お義母さんは熱しやすく冷めやすいので、激しくやりあっても、一晩寝ればけろりとしているらしい。

「ああ、澪さん。いま、おじいちゃんにお昼を食べさせたところ。食欲はしっかりあって、うどんを平らげたわ」
 お義母さんは、汁だけになったお椀を指さす。
誤嚥ごえんをしないように、うどんはハサミで短く切らなくちゃいけないのよ」

 お義母さんは、タオルで手を拭きながら、朗らかに切り出す。
「そうそう、澪さん。昨日の夜、絹と話したんだけど、近いうちに、絹と紬の一家、あなたたち夫婦がここに集まって、お食事会をしようと思うの。実は絹のところに二人目ができたの。そのお祝い!」

「それは、おめでとうございます! でも、この時期に大人数で会食して大丈夫でしょうか?」
 自分が感染したばかりなので、どうしても神経質になってしまう。

「身内だけだし、お酒抜きならいいでしょ。おじいちゃんが、しっかりしているうちに、皆の顔を見せたいじゃない」

「そうですね」
 おじいちゃんに感染させたら大変だと思うが、祝い事に水を差してはいけない。

「メインにお寿司をとるわ。前もとった近所のお寿司屋さん、美味しかったでしょ?」

「はい、楽しみです」

「それでね、悪いけど他のお料理と飲み物はアルコール抜きで、澪さんが用意してくれる? 子供が喜びそうなものも入れてね。私も年だからしんどくてさ」

「え!? 何人分ですか?」

「私達夫婦とおじいちゃん、子供二人を入れて、11人かしら」

「私は料理が得意ではありません……。舌が肥えた皆さんに満足していただけるかどうか」
 絹さんの第二子祝いなら、費用はうちの負担で、私は最初から最後まで働きづめだろう。想像するだけで気持ちが萎む。

「何言ってるのよ。あなた、お料理上手じゃない。それに、東京暮らしが長いから、美味しいものをたくさん知ってるでしょ。楽しみだわ」

「でしたら、私の平凡な家庭料理より、お洒落なお惣菜をテイクアウトしたほうが特別感が出ると思いますが」

 お義母さんのおかめのような目が、夜叉と見紛うほど釣り上がる。
「何言ってるの、澪さん。手料理がいいのよ、手料理が! 孫たちが大人になったとき、おじいちゃんとおばあちゃんの家でよく食べた味を恋しく思うようにしてやりたいじゃない。澪さんにも、そういう思い出の味があるでしょ?」

 だったら、なぜ自分で作らないのかと笑いがこみ上げるが、喉に押し込める。

「わかりました。でも、レストランのようなメニューは作れませんよ」

 お義母さんは私の言葉など聞こえなかったように「日時が決まったら連絡するわね」と言い、いそいそとエプロンを外す。

「じゃあ、行ってくるわ。会合の後、ご近所さんとお茶を飲むから、少し遅くなりそう。絹は試験期間中で部活がないから、早く迎えに来られるそうよ。ああ、おじいちゃんは食後のお昼寝中だから、先生が来るころ起こしてね」

 玄関のドアが閉まる音を聞きながら溜息をつく。子供たちが、祖父母の家でよく食べた味を恋しく思うようにしたいということは、これから食事会のたびに、料理を任せられる可能性が高い。それは致し方ないとしても、不妊治療中の私が、第二子ができた絹さんと比べられるのはきつい。


 おじいちゃんの部屋をそっと覗くと、平和な寝息をたてている。枕元の机には、チラシの裏に筆ペンで走り書きした達筆なメモが散らばっている。「康男 午後外出」、「鈴木先生 往診3時」、「澪さん 午後来る」などの文字が見える。備忘録だろうか。

 壁には、カレンダーの裏に書かれた市川家の家系図と家族写真が貼られている。以前はなかったことを思うと、認知機能が落ちたおじいちゃんが忘れないための対策に違いない。

 胸を締め付けられ、静かにドアを閉めて居間に向かうと、皇太郎くんがDVDに夢中になっている。

「何を見てるの?」
「うんどうかいのDVD! こうくん、いちばんになったんだよ」

「すごいね~! おばちゃんも、皇太郎くんが一番になるところが見たいな」

「これ、ふたつもどして。こうくんがはしるところがでる」

 リモコンを受け取って画面を操作しながら、最近の幼稚園では、こんな立派なDVDをつくるのだと感心してしまう。

 先生に導かれて入場する園児の姿が微笑ましい。「撮影」と書かれたベストを着たスタッフが時折画面に映りこむのを見ると、専門の業者が画質も音質も優れたものを作っているとわかる。

「こうくん、ここ!」

 両手を大きく振り、勇ましく入場してくる皇太郎くんを見ると口元がほころぶ。息子の雄姿を見守る絹さん夫婦は誇らしいに違いない。かけっこが苦手だった子供時代の私は、世界の終わりのような顔をしていた。今思うと、そんな娘の姿を見ていた両親が気の毒になる。

「これ、あつしくん。うめぐみで、にばんめにはやいんだよ。いちばんは、こうくん」
 鋭角的な顎の少年が、両手を上げてテープを切る。

「もうすぐ、こうくんでるよ」
 皇太郎くんは、膝を叩いて興奮し、私を見上げる。

「あ、出てきたね、皇太郎くん!」
 よーいどんの掛け声とともに、皇太郎くんがトラックにとび出す。他の園児をぐんぐん引き離してトップに出ると、そのままトップを維持し、満面の笑みでテープを切る。

「すごいね! おばちゃん、いつもビリだったよ」

 皇太郎くんは、ソファの上で、ぴょんぴょん跳ねて、得意そうな顔をする。

「つぎは、ミッキーマウスのダンスみよう! こうくん、うまいんだよ」

 メニュー画面を操作して画面を切り替えると、紙で作ったミッキーマウスのお面を頭につけた園児が可愛らしく踊り始める。皇太郎くんも、切れ味良く、身体を動かしている。身体能力の高さは、体育の先生である絹さん譲りだろう。曲に合わせて楽しそうに身体を動かす皇太郎くんを見ながら、私と結翔くんの子は、どんな子になるのかと想像してしまう。


 訪問診療の時間が近づいたので、おじいちゃんを起こそうと思ったとき、一足先にチャイムが鳴る。
「すずきせんせい、きたー!」
「知ってるの?」
 皇太郎くんは大きく頷き、私を押しのけて玄関に走っていく。

 玄関に出た私を見て、すずくんは驚いたように尋ねる。
「あれ、すーちゃん」

「今日はお義父さんもお義母さんもお出かけだから、私が留守番。お世話になります」

「こちらこそ」

 マスクと白衣をつけたすずくんは、皇太郎くんと手をつなぎ、勝手知った様子で、おじいちゃんの部屋に向かう。

清司きよしさーん、こんにちは!」
 耳元で大きな声で呼びかけられ、おじいちゃんは目やにで張り付きそうな目をゆっくりと開く。

「ああ、先生。ご苦労さまです」
 おじいちゃんは寝起きでろれつが回らない口調で応答する。
 
「胸の音を聞かせていただきます」
 医師の顔に変わったすずくんは、手慣れた様子でパジャマの下に聴診器を入れる。彼の細い背中を見ながら、同級生が医師として働いていることに、不思議な感慨を覚える。

 すずくんは下腹部を触診しながら訊ねる。
「便は出ますか?」

「あんまり出ないね」

「じゃあ、薬を少し増やしますね」

 すずくんはおじいちゃんを覗きこんで問いかける。
「お昼は何を食べましたか?」

「まだ、食べてない。何にも食べさせてもらえない」

 すずくんが私を振り返る。

「うどんを食べたようです」

「忘れちゃうんだよね」
 苦笑いしたすずくんは、刀で遊んでいる皇太郎くんを呼び寄せる。

「この子は誰ですか?」

「さあ。結翔の子かい?」

「ゆうとさんって、誰?」

「私の夫。孫の中で一番可愛がってるみたい」  

「おじいちゃん、これは皇太郎くん。絹さんの息子さんですよ」
 私は皇太郎くんの肩を抱いて近くに呼び寄せる。

「ああ、そうか。結翔は結婚できなかったんだよね」
 ボケているのかと思ったが、過去に彼の結婚が流れたのかもしれないと疑念を植え付けられる。だが、それを確かめるのは今ではない。

「結翔さんは私、澪と結婚したんですよ。わかりますか?」
 私はおじいちゃんを覗きこみ、自分の顔を指差す。

「みお? パン持ってきてくれる

「そうですよ。早く結翔さんの子ができるように頑張りますね」

 おじいちゃんは、うん、うんと頷き、愛想笑いのような笑みを浮かべる。明らかに理解が追いついていない。

「清司さんは、先生だったんですよね。校長先生も務めたのですよね」
 すずくんは、おじいちゃんと目を合わせて大きな声で訊ねる。

「私は師範学校を出て先生になりました。学校で二人しか師範に受からなかったから、家族みんな大喜び。父が私の荷物を大八車に乗せて、二人で押して寮まで行ったの。戦時中だから工場に動員されて、あんまり勉強できなかった。あすこに、アルバムがあるから」

「はいはい。師範のときの写真は、これですね。清司さんは男前ですね」 
 すずくんは前にも見たかのように、棚からアルバムを取って開き、写真を指差す。

「そう。こっちは、加代子かよこと結婚したとき。加代子も師範を出て、先生してたけど、結婚したから二年で辞めちゃった。師範の同級生の山田くんの妹だったの。違う人のところに行くはずだったけど、その人が戦死したから、私のところにきた。校長だった高山のおじさんが仲人になってくれてね」 

 昔を語るおじいちゃんの目は光を放ち、今まで見たことないほどいきいきとしている。

「加代子さん、優しそうな方ですね。おじいちゃんも凛々しいですね」

「これが、加代子の兄さんの欣之助きんのすけ。帝大生だったけど学徒動員されて海軍さんに入ったの。復員して県庁に勤めた。これは東京の産婆学校にいった奈美子なみこ。加代子の妹……」

 おじいちゃんはモノクロ写真を一枚一枚指差しながら、説明を加えていく。その記憶は驚くほど詳細で、認知機能が衰えているとは思えない。力のこもった語りと、年季の入った写真は、私の知らない市川家の歴史を紐解いてくれる。

「昔のことは本当に良く覚えているのに、最近のことは忘れてしまうんだよね。ここのところ、アルバムを見ながら、いろいろ教えてくれるよ」
 すずくんが小声で私に言う。

 その間も、おじいちゃんは説明を続ける。
「これが康男と糸子の結婚式。私の兄弟がみんな来てくれた。裕司、健司、武司、昌子、征司、千寿江、捷子。裕司兄さんも師範に行った……」

「ご兄弟は八人で、清司さんは三番目ですよね?」
 前にも聞かされたらしいすずくんは、優しく問いかける。

「そう。もう、みんな死んじゃった。生きてるのは私と征司せいじ捷子かつこだけ。捷子は寝てるだけ。話しかけてもわかんない。もうすぐ死ぬだろう」

「康男さんは何番目のお子さんですか?」
 私が尋ねると、おじいちゃんは即座に反応する。

「一番上。康男にも三人子供ができた。男がなかなか生まれなくて、心配で、心配でしょうがなかった。やあっと、結翔ができた。かわいくて、かわいくて、目の中に入れても痛くなかった。市川の跡継ぎができて肩の荷がおりたよ」

 きっと、おじいちゃんも加代子さんも、糸子さんに男子を産めと重圧をかけたのだろう。それを思うと彼女が気の毒になり、今までの言動が少しだけ理解できる気がした。

 写真の説明を続けるおじいちゃんを横目に、すずくんに耳打ちする。

「時間、大丈夫? いつも、これに付き合ってくれてるの?」

 すずくんは、四角い眼鏡の奥の目を細め、優しく微笑む。
「語ることは、清司さんの脳を活性化させて、認知症の進行を予防できるから、これも治療。俺、人生の大先輩の話を聞くのが好きだから楽しいよ」
 
「ありがとう。素敵な先生に診てもらえて、おじいちゃんは幸せだと思う」
 
 
 それから暫く付き合い、すずくんはきりのいいところで話を切り上げる。私は、すずくんが帰り支度をする間に、おじいちゃんに白湯を飲ませる。

 廊下に出たすずくんに訊ねる。
「おじいちゃん、最近のことは忘れちゃうんだね……」

 すずくんは小さく頷く。
「このあいだ、お孫さんに第二子ができたので、お祝いをあげるのを忘れないように努めていたら、パニックになってしまったと息子さんから聞いた。最近は紙に書いて、忘れないようにしてるようだな」

「そうなんだ。私のことも、ちょっと忘れてたよね」

 意気消沈した私に寄り添うように、すずくんは穏やかに言う。
「たくさん、話しかけてあげるといいよ。昔の話を聞いてあげると、脳を活性化させていいから」

「そうする。この家の歴史、ほとんど知らないから、おじいちゃんに教えてもらえるのが嬉しい」

「市川家の家族史が書けるほど詳しくなれると思うよ」
 
 そのためには、お義父さんのいる部屋に入らなければと思うと、尻込みしてしまう。

 玄関で靴を履いたすずくんに、意を決して尋ねる。
「おじいちゃん、一番可愛がっている孫である私の夫の子供を楽しみにしてるんだ。私、できるだけ早く授かりたいから不妊治療中。あと、どれくらい、おじいちゃん、しっかりしていてくれるかな……?」

 車に向かって歩きながら、すずくんは私を安心させるように快活に話し出す。
「このあいだ、血液検査したけど、内臓はしっかりしてるから、今すぐどうってことはないよ。ぼけが進まないように、たくさん話しかけてあげて。あと、誤嚥性肺炎を防ぐために、食物は食べやすいように加工して」

「うん。ありがとう」

「何かあったら、相談してよ。俺の携帯、教えとこうか?」

「ありがとう、心強いです。そうだ。もしよかったら、近いうち瑠璃子と三人で会わない?」

 すずくんは、考え込むように視線を虚空に泳がせる。気が進まないのかと思い、「嫌なら無理しないで」と切り出そうとすると、彼は目元で微笑む。
「いいね。LINE交換しようか?」

「うん。すぐ、スマホ持ってくる」
 急いで母屋に戻り、スマホを持ってくると、彼は自分のQRコードを出してくれている。

 私がそれを読み取ると、バスケットボールを持った写真のアイコンが飛び込んでくる。そういえば、彼は中学時代はバスケ部だった。
「瑠璃子と3人のグループライン作っていいかな?」

「いいよ」

 そのとき、皇太郎くんを迎えに来た絹さんの車が家の前に止まっているのに気づいた。

「やば、俺の車、邪魔みたいだな」
 すずくんはスマホを白衣のポケットに突っ込み、「じゃ、また」と車に駆けていく。

 すずくんの車を見送ろうとすると、車から降りてきた絹さんが私の前に立ちはだかる。
「澪さん、この間は皇太郎がコロナ移しちゃって申し訳なかった。ねえ、さっきの人、おじいちゃんのところに来てる医者でしょ? やけに、親密だったじゃない」
 絹さんの細い目が、詮索するような視線を投げかけてくる。

「中学の同級生です」

「へえ、そうなんだ」
 悪意を孕んだにやにや笑いが目元に張り付いていて、げんなりする。

「絹さん、二人目のお子さんができたと伺いました。おめでとうございます」

「ありがと。澪さんは不妊治療中だってね。大変だね。お母さんが治療費が高いって文句言ってたよ」

 こんな嫌味を言う先生に教えられる生徒が心底気の毒になる。これ以上、不愉快なことを言われる前に会話を終えるに限る。
「皇太郎くんが中でお待ちですよ」

 彼女のために料理を作り、女中のように動き回る食事会を想像すると、肩がずっしりと重くなる。母屋に入っていく逞しい背中を見つめながら、メニューは結翔くんと紬さんに相談しようと決めた。