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澪標 10

 久々に彩子が出張してきて、竹内くんと 3人で同期会を開いた。1軒目で仕事の話をし尽くし、2軒目の話題は自然に恋愛話に流れた。

 ハワイアンミュージックに乗って流れる、ローカルラジオのハワイ英語が耳に心地よかった。

 コナビールで乾杯を済ませると、竹内くんが彩子に気づかわし気に尋ねた。「水沢さん、電車大丈夫? そろそろ10時回ったけど」

「彩子は、彼氏の家に泊まるから問題な~し!」彩子が答える前に、アルコールが回って弾けていた私が答えた。

「あれ、水沢さん、彼氏できたんだ!」

「うん。つい最近ね」

「どうやって出会ったの? 何してる人?」ほろ酔いの竹内くんは、テーブルに身を乗り出す勢いで尋ねた。

「学生時代のインカレのミュージカルサークルの先輩。夏のOB会で再会して付き合うことになったの。丸の内で弁護士してるよ」彩子は、全身から匂い立つような幸せオーラを放っていた。

「超エリートじゃん! 幸せなわけだ~」

「彩子と彼、OB会の夜に意気投合してホテルにいったのに、指一本触れないで語り明かしたんだって。2人で朝日を見ているとき、彼が付き合ってくださいって告白。素敵じゃない?」

「勘弁してよ、すーちゃん!」

「うわ、キザ。でも、カッコいいな」

「竹内くん、先月から彼女と同棲始めたんでしょ? うまくいってる?」彩子が興味津々で膝を乗り出した。

「会議・学会運営部に移ってから、毎日遅くまで残ってるよね。彼女、怒らない?」

 彼が春から異動した会議・学会運営部は、会議の設営、受付、運営を担う部署だった。試験監督で鍛えられた人材は手際が良く、評判は上々だった。営業部の向かいに位置しているので、その様子は嫌でも目に入った。外線がひっきりなしに鳴り、毎日遅くまで忙しそうなのが気になった。 

「うん。俺が毎日終電になるくらい帰り遅いから、一緒に住んでても満足にコミュニケーションとれないんだ。それでも、微妙に合わないとこが気になってきたんだよ……」

「合わないところって?」私と彩子は、彼の話し出すのを待った。

「例えばさ、以前、うちの登録スタッフが、ネットの掲示板に、俺だと思われる人物の悪口書いたんだよ。『〇〇会場のキツネ顔のリーダーT内、説教うざい。バイトに安い給料で責任ある仕事を任せるくせに文句つけるな』とか。そういうのって、結構へこむじゃん?」

「うん、胃が痛くなるよね」

「わかる。気にしないようにしても、しばらく頭から離れないよね」

「そのとき、彼女に労いとか慰めの言葉をかけてほしいと思っていたんだ。けどさ、彼女は、他のサイトにも書かれてるかもしれないよって、検索始めたんだ。ちょっと、楽しそうに……。調べてもらうのはありがたいよ。他にもあれば、会社に報告しないといけないし。でも、どうしても彼女の反応にかちんとくるんだよ」

「なるほどね。そういうときに、どんなに近くにいても違う人間なんだって実感するよね」

「そうそう。相手に悪気はなくてもね。違う人間なんだよね……」

 彩子と私は、共感を示しつつも、竹内くんと彼女の関係にひびを入れないよう言葉を選んでいた。

 あなたなら私を慰め、早く記憶が薄れるように、気を紛らわせてくれると思った。そんな違和感を感じたことは一度もないことが、密かに嬉しかった。

 恋人の話に花を咲かせる彩子と竹内くんを前に、親友にも相談できない自分の立場が重くのしかかってきた。

「ところで、すーちゃん、暫く会わないうちに、綺麗になったよね」急に彩子に話を振られ、びくりとした。

「そうかな? 今日のスーツが新しいからかな。ダイエットもしてるし」

 彩子が目敏く気づいたように、あなたのために綺麗になりたいという思いは、体型、服装や髪型はもちろん、手先から爪先まで及んでいた。

「う~ん、外見も艶っぽくなったけど、雰囲気が落ち着いてきた。さては、苦しい恋でもしてる?」

「全然だよ。そういうのなくて焦ってるから、自分磨きしてるんだよ~」

 竹内くんが、盛り上がる私たちに水を差すように、神妙な顔で切り出した。

「鈴木さん……、言うべきか迷ったんだけど、俺見ちゃったんだ……」

「何を……?」竹内くんの言葉に、私の鼓動はにわかに速まった。

「ここにいるの俺たちだけだから、言うよ。俺、海宝課長が鈴木さんのアパートに入るの見た……」

 背中に水を浴びせられた気がした。口がきけなくなりそうな自分を奮い立たせ、絶対に動揺を見せてはならないと思った。

「人違いじゃない? 何で海宝課長がうちに来るわけ」

「間違えるはずないよ。あれは海宝課長だった。俺の彼女、同棲始める前は綾瀬に住んでたから、俺もよく通ってたんだ。駅の改札辺りで海宝課長を見かけて、たしか彼は松戸のほうなのに、何でここでおりたのかなと思って、方向が同じだから何となく後ろを歩いてたんだ。そしたら、向かった先が……」

「すーちゃん、それって……」彩子の声はかすかに震えていた。

「俺、海宝課長と鈴木さんがそうなったの不思議だと思わないよ。会社でもすごく波長が合ってて……、とても自然だと思う。嫌らしいと思えないんだ」

「海宝課長が素敵なのはわかるよ。人柄はこの上なく素晴らしいし、ハンサムだし。あんな尊敬できる上司がいれば、好きになってしまうのもよくわかる。でも、彼は既婚者でしょ……?」

「わかってる、わかってるよ。彼を奥様から奪うつもりは全くないの。いずれ、必ず終わるから、絶対に内緒にしておいて! 彼の奥様は体が弱いから、絶対に傷つけるわけにはいかないの」

 自分が、不倫ドラマに出てきそうな台詞をまくしたてているのが悲しかった。どんなに高尚な言葉で武装しても、自分の立場を正当化しようとしても、許されないことをしていると思い知らされた。

「俺は口が裂けても言わないから安心して。もし、会社で変な噂が出ても全力で否定するから。でも、マジで気を付けろよ。志津課長がああいう人だから、変に疑うことはないと思うけど」竹内くんが見たことのないほど険しい顔で警告した。

「私、すーちゃんには、そんな恋をしてほしくないから応援できない。でも、絶対に言わないよ。だから、早く別れて」彩子の心から案じてくれる眼差しが胸に染みた。

「ありがとう……。本当にありがとう」

 2人の存在が心底ありがたかった。だが、あなたの事情を話すわけにいかないので、私たちの関係を理解してもらえないもどかしさが胸の中で燻っていた。

「俺、何か悔しいし、悲しい……。鈴木さんと海宝課長、すっごいお似合いなのに、傍から見ても出会うべくして出会った2人なのに。何で海宝課長は結婚してるんだよ! どうして、2人はもっと早く出会わなかったんだよ……」

「やめてよ、そんなの最初から、わかりきってたことなんだから!」

 どうしてだろうと何度思ったか知れない。家族のもとに帰っていくあなたを身を切られる思いで見送りながら、なぜ出会ってしまったのかと運命を呪った。

「既婚者が配偶者以外の誰かに恋をしても、自分のなかに収めて、家族を守るのが成熟した大人だと思ってた。でも、すーちゃんと海宝課長が運命のように惹かれあってると思うと、その常識がやりきれない」

「でも、不倫は不倫なんだよな……」

「海宝課長のようなしっかりとした人が、不倫に走ってしまったのは、半端じゃなく、すーちゃんを好きだからだと思う。応援したいのに……。すーちゃんが、そんな泥沼に巻き込まれるのは耐えられない」

 不毛な議論だとわかっていた。だが、行き場のない気持ちをどこかで発散したかった私には、それが救いになった。


               ★

 黒豆茶を淹れ、Netflixで映画を選んでいた日曜の昼下がりだった。あなたから、今から訪ねていいかと連絡が入った。来る日は、1週間前には連絡をくれる用意周到なあなたにはめずらしかったが、嬉しくてすぐに返信した。

 着替えて髪を整え、そわそわしながら待っていると、あなたは1時間も経たないうちにやってきた。同期にばれたことを伝えておこうと決めていたが、あなたの顔を見た瞬間、心配をかけてはいけないと思った。その先に来るものが近づいてしまうことも怖かった。

「会いたかったよ」

 あなたは買ってきたフィナンシェの箱を置くのも、もどかしいかのように、私を抱き寄せた。待ち焦がれていたあなたの匂いに包まれ、私も夢中で抱きついた。会えなかった時間を埋めるかのように、随分長い時間抱き合っていた。

「急に来るなんてめずらしいですね」

 黒豆茶を淹れながら尋ねると、あなたは頷いた。「最近は、妻が外出することが増えましたから」

 あなたの声に透明感があり、肩の力が抜けているのがわかった。

「来てくれてありがとうございます」私はソファに掛けているあなたに、限られた時間を止めたい思いで抱きついた。あなたの匂いに、全身の細胞が喜んでいるかのようにさざめいていた。


「映画を見ていたんですか?」あなたは、テーブルの上のパソコン画面をのぞき込んだ。

「これから映画を選ぼうと思っていたところで、連絡が来たんです。一緒に見ませんか?」

 2人で相談し、理論物理学者のスティーブン・ホーキング博士と妻を主人公にした「博士と彼女のセオリー」を選んだ。時間は2時間ほどで、夕方には帰宅するあなたにも丁度良かった。

 2人とも、すぐに物語に引き込まれた。

 若きスティーブンとジェーンが大学で出会って恋に落ち、スティーブンがALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症しても、ジェーンは彼との結婚を選んだ。スティーブンは余命2年と言われていたが、彼はそれを優に超えて生き、3人の子宝に恵まれた。

 スティーブンの研究は順調でも、病気は進行していた。ジェーンは、ますます負担が増していく夫の介護、育児に追われ、自身のやりたいことを諦め、ストレスを募らせていった。

 私はストーリーが進行するにつれ、ジェーンを双極性障害の奥様を支えてきたあなたに重ねていた。

 ジェーンは、母親に気分転換にと勧められた教会の聖歌隊に参加し、指導者のジョナサンと恋に落ちた。ジョナサンはジェーンの息子のピアノ指導も引き受け、家に出入りするようになり、一家の力になり続けた。

 スティーブンは、ジョナサンがいることで家族がうまく機能することを理解し、割り切れない思いを抱えながらも、彼を受け入れた。

 私は、ジョナサンがホーキング一家と関係を深めるにつれ、彼に自分を重ねていた。自分はジョナサンのように、表に出られないが、あなたの結婚生活を影で支えているのだろうか……。あなたの表情を見るのが怖くて、その肩に寄りかかると、きつく肩を抱かれた。

 スティーブンの病状は、ますます進行し、彼は声を出せなくなった。ジェーンはスペリング用のカードを使用し、夫が眉の上下で意志伝達できるように努めた。ジェーンは、それに精通した看護師エレインを雇った。

 有能なエレインとスティーブンは、長い時間を一緒に過ごすうち、恋に落ちた。スティーブンは、親指でスイッチを操作できるコンピューターで、音声合成し、意思疎通できるようになり、講演や論文執筆もできるようになっていた。

 スティーブンは、ジェーンと離婚し、エレインと再婚。ジェーンはジョナサンと再婚した。

 私は、スティーブンとジェーンが別れる前に、涙ながらに共に過ごした歳月を振り返る場面、ジェーンとジョナサンが結ばれる場面で号泣してしまった。私とあなたは、ジェーンとジョナサンのようには永久になれない現実が悲しくて涙を抑えられなかった。

 スティーブンがエリザベス女王から勲章を受ける場に招待されたジェーンが、彼と子供の成長を語り合い、感謝し合うラストが流れた。

 あなたはラストで泣いていた。あなたが奥様と、息子さんの成長を喜び、互いに労いあう日に思いを馳せているのがわかった。私は、嫉妬と悲しみが募り、涙が止まらなくなって、あなたを困惑させた。どうして、この映画を選んでしまったのだろうと悲しかった。


「目、温めてから帰ったほうがいいですよ」

 私はあなたに水分を摂ってもらってから、ベッドに横たわらせ、目の上に蒸しタオルを乗せた。私も同じように蒸しタオルを乗せ、隣に横になった。

 20分もすると、あなたの目の腫れは引いていった。

 起き上がろうとする私の手をあなたが引き寄せ、胸の上に抱きしめられた。

「あなたが、いつもこうして目の腫れを隠して、笑っているのかと思うと……」あなたは苦悩を目元に浮かべ、私の頬を包んだ。

「そんなやわな女じゃありません。余計なこと考えないでください」

 あなたが私を苦しめていると自分を責め、別れを考えるのが怖かった。時間を引き延ばしても、いずれ来ることはわかっていたが、考えることも恐ろしかった。

「今度、どこかに出かけようか? どこか行きたいところはない?」あなたは、私の長い髪を梳きながら尋ねた。

 そのために、あなたにいろいろ気を遣わせると思うと心苦しかったが、とても嬉しかった。

「あなたの行きたいところがいいです。あ、もしできれば、会社の人に絶対に会わなくて、普通の恋人のように手をつないだり、腕を組んで歩ける場所に行きたいです」

「僕もそうしたい。あなたは、何か見たいものとか、食べたいものとかないですか?」

「それなら、冬の日本海が見たいです。以前、言っていましたよね。日本海の荒海がお好きだって。私、日本海は、小学生の夏休みに海水浴に行っただけなので、冬は初めてです」

「うん、僕もあなたに、あの荒海を見せたい。あなたと一緒に見たい」

 あなたは、私に笑顔が戻ったのを見て、心底安堵したように体の力を抜いた。あなたも私と同じ理由で、不安だったとわかった。