見出し画像

澪標 3


「聞いて下さいよ。俺、やっと彼女できたんです」

 竹内くんは丁寧にほぐしたホッケの塩焼きに醤油を垂らしながら、声を弾ませた。流行の髪型を好み、一見すると軽薄そうに見える彼は、食べ方がとてもきれいで、子供のころ厳しく躾けられたことが垣間見えた。

「おー、良かったじゃないか。どんな子だ?」手もとがあやしくなり始めていた志津課長は、飲み干した生ビールのグラスを置くとき、小皿にかちんとぶつけてしまい、私が慌ててそれをずらした。

「信用金庫に勤めている3歳下の子です。明るくて、めっちゃいい子なんですよ」

「写真あるのか?」

「ジャーン、すずちゃんです」竹内くんは、私たちの前にiPhoneを得意そうに突き出した。

「やるな、可愛いじゃないか。大事にしてやれよ」志津課長は、店内に流れる懐メロに張り合うように野太い声で言った。

 見せられた写真は、これといって特徴のない女性だった。それでも、去年ひどいふられ方をして以来、よい出会いのなかった彼が幸せそうなのを見ると嬉しくなった。

「感じの良さそうな子だね。どうやって、出会ったの?」

「アプリ。プロフィールと写真見て、俺からイイネを送ったんだ。スポーツ全般とキャンプが好きなことで意気投合」

「アウトドア派の女性に出会えてよかったね。前の子はインドア派だったから、うまくいかなかったんだもんね。すずちゃんとの初デートは?」

「ディズニーランド。初対面だったけど、お持ち帰りしちゃった」彼は得意そうにグフフと笑った。

「なんだ、おまえ、やるじゃないか。どうに口説いたんだよ?」志津課長は、ストライプのネクタイを緩めながら竹内くんの肘をつついた。首回りが逞しい彼は、ネクタイが普通の人より短めになってしまう。 

 小突かれる彼を横目に、初めて会った日に抱かれてしまう女性はどうなのだろうと思ったが、水を差すのは大人気ないので黙っていた。

 幸せそうな竹内くんを前に、私はあなたとのデートを想像した。夢見心地の私の隣にいるあなたは、ひどく居心地悪そうにしていた。


「そういえば、運営部で海宝の評価はどうだ?」運ばれてきた味噌焼きおにぎりを片手に、志津課長が竹内くんに尋ねた。

 不意に飛び出したあなたの名前に、心臓がどくんと跳ね上がった。動揺を悟られまいと、サワーに入れるグレープフルーツを絞り器で絞ることに集中した。

「できる人ですよね。何ていうか、正しいと思ったら、引かないとこあるじゃないですか。中途入社したばかりで遠慮があると思うのに、あんなふうにできるところ、格好いいです」

 志津課長は「やっぱりな」と、大きな体を揺すって笑った。

「あいつ、大学の頃から変わってないんだな。俺、弓道部で一緒だったんだ。いい奴だけど、真っ直ぐというか向こう見ずで、おかしいと思うことはとことん主張するんだ。俺たちは多少理不尽と思っても、部のしきたりに従ってたけど、あいつは部長に嚙みついて、俺が必死に諫めたことがあったよ。質問して納得したときは、素直に謝って従うところがまた気持ちいいんだけどな」

「たまにいますよね、何でも食って掛かる奴。でも、彼は、そういう痛い奴とは違う気がするんですよ。彼がこだわることは、明らかに理に適っていて、自分の言った通りにすれば良くなる自信があることだと思うんです。実際、うまくいきましたし。経験と能力に裏打ちされた自信というんですかね。そういうの男として憧れます。それと、あの方、背はあまり高くないけど、品のあるハンサムで、着ているスーツも持ち物も洗練されてますよね。うちの部で、彼が既婚者だと知って、ショックを受けた女性多いですよ」

 竹内くんの観察は身近で見ていた私と重なり、あなたの魅力を改めて実感させられた。

「うちの会社は、叩き上げの奴が多いし、一緒に積み上げてきたものがあるから、言いにくいことが多いだろ。だけど、あいつは、それがない分、おかしいと思うことは主張できるんだよな。あいつが来てから、風通しがよくなったよ。やっぱり、やつを推薦した俺は間違っていなかった」志津課長は大きく頷き、どうだと言いたげに胸を張った。

「俺、海宝課長と飲んでみたいです。今度、連れてきてくださいよ」

「どうかな、あいつ、家庭を優先してて、誘っても断られることが多いんだよな。まあ、そのうちな」

「楽しみにしてます。ところで、俺は傍から見てるだけだけど、鈴木さん、下で働くのは大変じゃない? 要求する水準高そうだし」

 私が答えをためらっていると、志津課長が口を出した。

「ああ、鈴木は大丈夫だよ。海宝と鈴木は、考え方が似てるんだ。ケミストリーっていうのかな。ナビゲーターの海宝が方向を示して、鈴木がその道を開くって感じだ。壊したくないチームだよ」

 志津課長は「これからも、よろしく頼むぞ」とジョッキを上げたので、私は「頑張ります」とグラスを合わせた。

「そうそう、このあいだ……」志津課長は、ジョッキの中身を飲み干してから続けた。「運営部に、登録スタッフから抗議の手紙が届いて、騒然としてただろ?」

「ああ、あれですね。試験前日になっても試験官マニュアルが届かなかった登録スタッフが、当日いきなりは無理だから、勤務できないって電話してきて……。担当の柴田しばたさんが、マニュアルが届かなくても、当日会場で受け取って、ぶっつけ本番で勤務するスタッフはいると言った。その登録スタッフは、類似する試験で何度も主任監督員を務めてるから、大丈夫だと思ったんでしょうね」

「そう、その件だ。1度も入ったことのない試験に、マニュアル予習なしでぶっつけ本番。しかも主任監督員。無理なのでキャンセルしたいと言ったら、柴田さんが、マニュアルのことは本当に申し訳ないけれど、スタッフさん都合のキャンセルがあると、次回から仕事が入りにくくなるが、それでいいかと尋ねたんだよな?」

「ええ。結局、その登録スタッフは、仕事が入りにくくなるのは困るので、当日できる限りのことはやると言って勤務したんですよ。でも、その後、何年も誠心誠意働いてきたのに、あんな言い方をされてショックだった。マニュアルが届かなかったのは、会社の責任なのにという趣旨の手紙を送ってきたんです」

「運営部のことだから口出ししなかったけど、昼休みに、自販機の前でちょっとした議論になったんだよ。俺とあと2人くらいは、ベテランスタッフなら、当日ぶっつけでもできるだろとういう考えだった。実際、そういうスタッフはいるし、同じ系列の試験を経験しているならできて当然だと。スタッフ都合のキャンセルがあると、次から仕事が入りにくくなるのはうちの方針だし、柴田さんの対応に問題はないんじゃないかと話がまとまりかけたときだ。缶珈琲を飲んでいた海宝が、マニュアルが届かなかったのは明らかに会社の責任なのに、突き放すような対応はひどい、そのスタッフがショックだったのは当然でしょうと言ったんだ。そしたらな……」

 志津課長が、もったいぶったように言葉を切り、私のほうを向いた。

「鈴木が、私もそう思うって。私が柴田さんなら、その登録スタッフに主任監督員の給料で監督補助員か本部要員を務めてもらい、主任監督員の経験がある登録スタッフを急遽手配する。もし、手配できなければ、自分が主任監督員として入るって」

「だって、マニュアルが届かなかったのは会社の責任だし、それが当然じゃないですか? 無理に主任監督員をお願いしてミスが出たら、受験者にもクライアントにも迷惑をかけるじゃないですか」私は思わずテーブルに体を乗り出していた。

「ほらな。こんなふうに、2人は考えが似てるんだよ」

「なるほど」竹内くんが納得したように頷いた。「そういうのって、仕事がやりやすくていいですよね。残念ながら、俺はそういう上司に出会ったことないから羨ましいです」

 竹内くんは、思いついたように言い継いだ。「考えることが似すぎているのは、仕事仲間ならいいですけど、恋人同士だときついと思いませんか?」

「そうか? 俺はうまくいくと思うけどな。喧嘩が少なくて済むんじゃないか?」

「最初は運命の相手だと思うかもしれませんよ。でも、互いに相手が考えていることがわかり過ぎるから、言いたいことが言えなくて、苦しくなると思うんです。こう言ったら、相手はこう思うと想像できちゃうのは、しんどいと思いませんか?」

「う~ん、俺はそういう相手に巡り合ったことがないから、何とも言えない。でも、もしそんなにわかりあえる相手に出会えたら、ずっと付き合っていきたいと思うだろうな」

「そうですよね。付き合って別れたら、永遠に失ってしまう可能性が高いですからね。だとすると友達でいるほうがいいんですかね。何かあったとき、自分と同じように考えてくれる人に話を聞いてもらえると、救われると思いません?」

「おまえ、やけに熱く語るな。そういう人がいるのか?」

「いないからこそ、出会いたいって思うんじゃないですか」

「今の彼女とは、しっくりこないところがあるのか?」

「やなこと言いますね。まあ、考えが違うから、面白いって思えるんですけどね」

「それはいいとして、運営部はあの手紙に、どう対応したんだ?」

 私は、あなたと私が志津課長にそんなふうに見られている喜びに浸っていて、2人が語る内容を深く考えることはなかった。