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澪標 4


 コンビニを一歩出た瞬間、湿度の高い熱気に襲われ、息苦しさを覚えた。私は店内に引き返したい衝動に抗い、昼食に買ったおにぎりとサラダの袋を持ち直すと、会社に戻るために炎天下を歩き出した。

 交差点まで数メートル歩いただけで、汗でブラウスが背中に張り付きそうだった。今朝吹き付けた石鹸の香りの制汗スプレーなど、何の役割も果たしていなそうだった。交差点の対岸に陽炎が立つのが見え、ますます気が滅入った。

 背中の汗の気持ち悪さと暑さに耐えかねたとき、「鈴木さん」と呼びかけられ、跳び上がりそうになった。

「課長、お疲れ様です」

 あなたは、うだるほどの暑さの中、一糸乱れぬスーツ姿で立っていた。

「暑いですね」あなたは、ラルフローレンのタオルハンカチを取り出し、首筋と額の汗を軽く拭った。そんな仕草さえも優雅で、目を奪われてしまう。

「本当に嫌になりますね。課長はS大でしたよね。暑い中、お疲れ様でした」

「おかげ様で、S大は文系学部の単位取得試験だけではなくて、新入生のプレースメントテストも委託してくれました。これで信頼を得られたら、入試も請け負えそうです」あなたの声はめずらしく弾んでいた。

「やはり、課長自ら足を運んでくださると違いますね。本当にお疲れ様でした」S大のような規模の大きい大学に食い込めたことに、体の奥底から高揚感がせりあがってきた。

「ところで、鈴木さん」あなたは改まった口調で切り出した。

 あなたがこうした口調になるときは、何か注意をするときなので、私の胃はきゅっと縮んだ。

「以前、飲みに行ったときは、慌ただしくて申し訳ございませんでした」

「いえ、こちらこそお急ぎのときに無理にお誘いしてしまって……」想定外の流れに、身構えていた体から、すっと力が抜けていった。

「あのときの埋め合わせをしなくてはと、ずっと思っていました。もし宜しければ、中華料理店の割引券があるのですが、お時間のあるときにいかがですか?」あなたは、予約を取るのが難しいと噂のモダンチャイニーズの店の名を出した。

「ぜひ、お願いします」

「では、来週の木曜日の夕食でいかがでしょうか?」

「勿論大丈夫です」

「よかったです。後で店の場所と時間をメールでお送りします」

 私は会社まであなたと何を話しながら帰ったかも覚えていないほど、気もそぞろだった。律儀なあなたが義務感で誘ってくれたとしても、お洒落なレストランで一緒に食事ができるのが嬉しくてたまらなかった。


 店員に先導され、今日のために買ったジミーチュウのパンプスで杏色の絨毯の上を歩き、エアコンのよく効いた個室に入った。約束の20分前なのに、あなたは既に来ていて、いつもと変わらず背筋を伸ばして座っていた。高級レストランでも、気後れした様子を見せないのがあなたらしかった。

「こんな素敵なレストランに誘っていただいて、ありがとうございます」

「とんでもないです。券をもらったまま、使用期限が近づいてしまったので、来ていただけて助かりました」

「ご家族とは、いらっしゃらないのですか? 私が来てしまって何だか申し訳ない気分です」

 あなたの眉間にかすかに影が差したように見えた。「妻はあまり出たがらないので。それより、コースでいいですか? 食べられないものはありますか?」

「あ、はい、もちろんです。食べられないものはありません」あなたが、質問を受け付けない雰囲気をまとったのを察し、気圧されたように応じた。

 注文が済むと、私は2人分のジャスミン茶を大きな急須から注いだ。芳香の立ち昇るジャスミン茶は、冷たいドリンクで疲れた内臓に優しかった。

「課長のようにできる方が、うちみたいな保守色の強い会社にきて、窮屈ではないですか?」

「いえ、楽しんでいますよ。志津から大学入試に参入する話を聞いたとき、需要のある分野だと思ったので、すぐに決めました。長く大学に勤めていて、試験監督が大学教員の負担になっていることはよくわかっていましたから」

「大学の先生って、講義がそれほど多いとは思えないし、あまり忙しそうに見えませんが」

 前菜盛り合わせが運ばれてくると、私は繊細な美しさに見とれ、どこから箸をつけたらいいか迷ってしまった。あなたは、中華風冷ややっこを箸できれいに切り分け、咀嚼してから話し出した。

「大学教員は、講義やゼミの他にも、入試、オープンキャンパス、保護者対応、市民大学などのアウトリーチ、企業訪問、紀要編集、カリキュラム作成などなど、目立たないところで学務が山積みです。そのせいで、本来の仕事である研究や学会活動の時間が削られています。入試や単位取得試験の監督の負担がなくなれば、教員は助かると思いますが、予算が限られていて、外部委託できる体力のある大学ばかりではないのです。それでも、実績を重ねていけば、どんどん契約を増やせると思います」

「課長が、赤字を出してでも、額を低く設定することを譲らなかったのも、大学事情を考えてのことだったんですね」私はあなたが入社早々、価格設定で、営業部長とやり合っていた姿を思い出した。

「ええ。他社も既に手を広げていますし、大学事情を考えると、少しでも安くしないと食い込めないと思いました。最初から、扱いづらい奴だと思われてしまいましたね……」あなたは当時を思い出したのか、ほのかに顔を赤くして、ジャスミン茶を口に運んだ。

 あなたに促され、私たちは運ばれたままになっていた蟹肉入りコーンスープにスプーンを入れた。緊張していて、ゆっくりと味わう余裕はなかったが、驚くほどまろやかだった。

「関西の大学では、ずっと入試の仕事をしていたのですか?」

「最初は広報担当でした。広告代理店に勤めていたので、広報担当を募集していた大学に採用されたんです。入試担当は10年ほどです。入試にも、広報的な仕事は含まれるので、経験は無駄になりませんでした」

 華やかなイメージのある広告代理店にあなたが勤務している姿を想像できなかった。数年で転職したのは、肌に合わなかったからか、何か別の事情があったのかと思いをめぐらせた。 

 それぞれ選んだエビチリと回鍋肉が運ばれた頃、不意にあなたが言った。「たまには、仕事以外の話をしましょう。休日は何をしているのですか?」あなたは、私を正面から見据えた。

 あなたの関心が私に向いたことが嬉しくて、舌が滑らかになった。「家で好きな香りのアロマオイルをたいて、リラックスすることが多いです。あとは、大きな公園を散歩して森林浴をするのが好きです。課長は何をしているんですか? 御家族と過ごすことが多いんですか?」

「家族と過ごす時間も大切ですが、1人になりたいときもあります。僕も学生時代から公園を散歩するのが好きでした。学生の頃、駒込に住んでいたので、六義園と旧古川庭園はよく行きました。今でもたまに行きます」

「2つとも行ったことがあります! 旧古川庭園には、バラの季節によく行きます。年間パスポートを買ったこともあります」

「また共通点が見つかりましたね。僕は都立9庭園共通年間パスポートを持っていますよ」

「本当ですか? 無理に、私に合わせてくれなくても大丈夫ですよ」

「違いますよ。僕だって驚いているんです」あなたはカバンから都立9庭園の年間パスポートを出して見せた。

 あなたは、驚愕する私の茶碗にジャスミン茶を注いでから尋ねた。「旧古川庭園の紅葉は見たことがありますか?」

「勿論です。ライトアップが幻想的で素敵ですよね。そういえば、あの庭園、洋館と洋風庭園が、日本庭園を見下ろす構図じゃないですか。建てられた時代の国際関係を反映しているようで、何だか悲しくなります」

「僕も初めて行ったときから、そう思っていました!」

 あなたは顔をほころばせ、たまり醤油の炒飯に手をつけるのも忘れて尋ねた。

「他にどんな公園が好きですか?」

「浜離宮恩賜庭園です。コスモス畑が広がる秋が特に好きです。あと、井の頭公園をウォーキングするのが好きです。学生の頃、吉祥寺に住んでいたので、その頃からのお気に入りです」

「井の頭公園と言えば、不思議な自動販売機があるのをご存じですか? 蝗とか蜂の子の佃煮の缶詰を売っている」

「あー、知ってます。すごく高いんですよね」

 私とあなたは、炒飯を口に運びながら、時間を忘れて話した。杏仁豆腐と芒果プリンが運ばれた頃には、流れる空気が今までにないほど親密になっていた。

「ところで、課長は海がお好きなんですよね。海辺の公園で、好きなところはありますか?」

「横須賀に住んでいたことがあるので、ペリー公園、三笠公園はよく行きました。でも、僕は太平洋より、日本海の冬の荒海に魅かれます。祖父が新潟にいたので、よく連れていってもらいました」

「そうなんですね。私は北関東の海なし県出身なので、海への憧れが強いんです。だから、東京に出てきてから、横浜の港の見える丘公園、山下公園、臨港パークによく行きました」

「横浜ですか。僕は、そういうお洒落な場所には疎いんです。でも、気持ちよさそうですね。久しぶりに潮風を感じてみたくなりました」あなたの視線が、海に思いを馳せるように遠くに泳いだ。

「もし、宜しければ、ご案内しましょうか?」

 はっとして戸惑うあなたに、私は畳みかけた。「公園仲間ができて嬉しいです」

「公園仲間?」

「はい、バイクのツーリング仲間とか、ロードバイク仲間、犬仲間と同じようなものです。私、海外旅行に行っても、大きな公園のベンチで読書したり、芝生の上で寝ころんだりするほど公園好きなので、仲間ができるのが嬉しいです」

 あなたが奥様に罪悪感を抱かないよう、あくまでも健全な趣味仲間であると強調することに力を尽くした。

「やっぱり、2人で行くのはまずいですよね。志津課長も誘いましょうか?」沈黙に耐えられなくなった私が切り出した。

 あなたは根負けしたように言った。「いえ、それはやめておきましょう。彼が来れば、中華街食い倒れツアーになってしまいますよ。宜しければ、潮風を感じられる公園を案内してください」

「喜んで!」

 その日から、あなたと私の間には、やわらかく親密な空気が流れるようになった。ふと視線がぶつかることは以前と同じだが、あなたの反応は以前より気まずそうではなくなった。