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長文感想『おろしや国酔夢譚』井上靖

時は安政年間、浅間山の噴火により大飢饉が発生する前年の1782年。

伊勢国(三重県) 白子(しろこ) の港を12月に出港した商船が、江戸へ向かう途中の大嵐で舵が折れ、半年以上も日本東岸を漂流することに。

翌年7月、ようやく見えた陸地へ上陸するも、そこは北方領土よりもさらに北方、現在のアリューシャン列島のアムチトカ島。

蝦夷地のアイヌに近いと思われる原住民や、彼らを統率するロシア人と少しずつ交流しながら、極東の寒帯のサバイバルを繰り広げる漂流民たち。

文章で追うだけでも苛烈で目を覆いたくなる状況。
けれど、商船のリーダー・船頭の光太夫(こうだゆう) は「祖国の地を踏みたい」と念じつつ困難を乗り越えていくーーー

物語は漂流民の心情に寄り添いつつ、シベリア東端からはるか首都のペテルブルク(現在のサンクトペテルブルク) に至る道中を追います。

奇しくも「賓客待遇」でロシアの商人や役人に受け入れられ、漂流民代表として首都ペテルブルク へ向かうことになった光太夫。

彼の奮闘と心境の変化を細かく追う筆致は、地理好きの私にとって強く惹きつけられるものでした。

商船の乗組員、16人の中でも、リーダーの光太夫の感性はとても鋭いものでした。

日々のロシア商人との会話で少しずつ会得したロシア語から、数多くの風物を知り、記録し、さらに探求する能力は並外れたものが。

帰国の可能性をこころの中にしっかり宿しつつ彼がたどる遠い旅路…それは著者の思いも重なり、読み手のこころに強く刻まれることになります。

それだけでも充分に読み応えのある本ですが、著者はさらにロシアの歴史家たちの著作を引用して、彼ら漂流民の実相を多角的に伝えたり、当時のロシアの国情や国際情勢も書き加えています。

そこには貴重な歴史的資料としてこの本を捉える著者の信念も伺い知れて、私としては実に深堀りしたくなる本でした。

その点で読み辛さもちょっとありますが、それを上回る充実した読書体験ができる名著だと感じた次第。

【以下、余談】


光太夫は暗中模索の漂流生活を経て、漂着先でロシア側の人たちと必死のコミュニケーションを重ねます。

厚い「賓客待遇」で迎えるロシア側の意図を冷静に分析しつつも、彼と同じく探求心に富んだロシアの鉱物調査官・ラックスマンなどの頼れる理解者を得るなど並外れた人徳を見せる光太夫。

その姿に感化され、健気に過酷な旅に随行する他の漂流民の姿も、それぞれ人間味が感じられ読み手のこころを打ちます。

さらに、彼らに接する様々なロシアの人々。

国家の役人から市井の人々まで、実に色とりどりの人生模様を拝見すると、当時のロシアの民衆と宗教的価値観が門外漢の私にも少し理解できるような気がします。

特にロシア正教が漂流民のこころに次第に同化する過程は、当地の苛烈な環境と相まって「一神教」の存在意義を私なりに考えさせられる貴重な機会となりました。

日本で生活している限りは、なかなかその心境に近づくことも困難ですからね。

経験したことのない危機を仲間たちと乗り越えていく、ある意味強靭な漂流民たちの姿。

個人的に、現在直面している閉塞した状況に立ち向かう勇気をいただけた感がありました。

【おわり】

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