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【道元と宇宙】 17 『正法眼蔵随聞記』を『道元語録』に格上げした和辻哲郎

さて、「随聞記」は、道元が示寂して後、
500年以上経過した江戸中期に
初めて世に出た書物で、原本がどこにもない。

「最初の刊本は、宗門の人によってではなく、
面山師の言葉をかりれば、
教家の人が、作者は誰とも知れないが、
法理が殊勝であるため印版されたものであるという。
それが慶安四年(1641)のこと」
(水野弥穂子、『正法眼蔵随聞記』の世界、大蔵出版、1992年)

 
それを宝暦八年(1758)に
近世における曹洞宗を代表する禅者である
面山瑞方(1683-1769)が出版した。

 永平寺が発行した「承陽大師聖教全集」(明治42年)には、
第三巻に「永平廣録巻一から巻十」を掲載している。
その後ろに「附録」として、
「正法眼蔵随聞記」が
「侍者 懐弉編」とだけ書かれて
掲載されている。

明治末の時点で、随聞記は
道元の著作として扱われていなかった。

 それに『道元語録』という偽看板が付けられるのは、
昭和4年に出版された岩波文庫からだ。
「道元語録 正法眼蔵随聞記 懐奘編 和辻哲郎校訂」

 和辻哲郎が随聞記と出会った経緯が、書き残されている。
関東大震災が起きる前、
たまたま本郷の壱岐坂にある上宮教会で講習会があり、
そこで和辻が講演したとき、
講演のあとで禅宗出の人と雑談して、
「私は(道元を)ちっとも知らないと言った」ら、
「正法眼蔵随聞記」を送ってもらった。
(和辻全集24, P276、昭和34年6月1日)

 
和辻が随聞記を知ったのは、関東大震災の前だから、
1923年のことだ。それが1929年に岩波文庫入りしたのは、
岩波茂雄に、和辻が売り込んだからだ。

 「道元禅師の語録『正法眼蔵随聞記』を
岩波文庫に入れる気はありませんか。
これは道元の言行を弟子が記したもので、
解り易く分量も手頃です。(一冊分位)
これ迄にも刊本はありますが、
組み方を少しなほせばよほど読み易くなると思ひます。
この本は小生を道元へ引きつけた最初のもので、
小生として中々愛着を持ってゐます。
なるべく多くの人に読まれる様に望んでゐる本の一つです。」
(和辻全集25、昭和3年9月4日付の岩波茂雄宛)

 企画はすぐに承認され、
校訂作業も順調に進み、
「随聞記」は明くる昭和4年6月25日に、刊行された。

このとき和辻は
「正法眼蔵随聞記の印税を早く送って頂きたい。」と
岩波茂雄に書き送っている。(昭和4年7月14日)
著者印税は和辻がもらうという契約だったようだ。

 校訂者としての和辻哲郎は、名ばかりだった。
和辻は初版「解題」で書いている。
「この書の校訂に際し、
逐行較正の最もめんどう臭い仕事を分担せられた
NIおよびTW両君に心からその労を謝する。」
二人の名前をイニシャルでしか出さなかったのは
学外者だったからか? 

東大教授の和辻が校訂したという後光のおかげで、
それまで道元の著作扱いされていなかった随聞記が、
「道元語録」として一人歩きを始めた。
東大教授のネームヴァリューを利用して、
素性の怪しいテキストを、
真正なテキストにみせかける
テキストロンダリングというのだろうか。

 和辻は、校訂作業を人任せにしたが、
著作も資料提供者に依存していた可能性が高い。

 和辻の道元に関する著作「沙門道元」、
その「九 道元の真理 ㋺ 仏性」で
和辻は、「正法眼蔵 仏性第三」の紹介をしつつ、
正法眼蔵にはない
乳と酪の例えを紹介している。

 「涅槃経は衆生の内の成仏可能性を説く立場に立って
時節因縁をいう。
そこに用いられた比喩をとって言えば、
乳が乳である時にはそれは酪でない、
酪が酪である時にはそれは乳ではない。
しかし酪を作ろうとする人は水を用いずして乳を用いる。
乳は乳でありながらすでに酪と離れ難き因縁を有する、
すなわち乳の内には酪となる可能性(酪性)が存するのである」 

道元はこの乳と酪の話を、
おそらく涅槃経のなかに見つけだし、
上堂した。(395)
だが正法眼蔵には書いていない。
もちろん随聞記にもない。
和辻はなぜ乳と酪の譬えを紹介できたのか。
おそらく誰か資料を用意して渡していたとしか考えられない。 

和辻は、亡くなる前年に
「なんでも興味が出ると始めますが、
それっきりものにならずに
途中でほっぽりだしてしまって・・・。
結局その出発点になった道元禅師の思想は、
よく読みこなせないままで
日が暮れてしまったわけです。」
(和辻全集24、P277-278、昭和34年6月1日)
という残念な言葉を残している。 

参考までに『廣録』の上堂語を紹介する。

一切衆生有仏性、
所以に乳に酪の性有り。
一切衆生無仏性、
所以に乳に酪の性無し。
衆生に衆生の性無し、
所以に乳に乳の性無し。
仏性に仏性の性無し、
所以に酪に酪の性無し。
然も是の如くなりと雖も、
忽に人有って永平に問わん、
霊山の拈花、少林の三拝、又、作麼生、と。
良久して云く、
酪に乳の性無し、と。

 現代語訳: 
すべてのミルクはチーズに変わりうるように、
すべての人は仏性をもっている。
すべてのミルクがチーズにならないように、
すべての人は仏性をもっていない。
しかし、ミルクは自然にチーズになるわけではないように、
人も自然のままで覚るわけではない。
すべてのミルクにミルクの性質が備わっていないように、
すべての人に人としての性が備わっているわけでない。
チーズが自分でチーズにならないように、
仏性には仏性の性はない。
そうであっても、人が私に霊山での釈迦の嗣法や
少林寺での達磨の嗣法はどういうことかと問うなら、
チーズにはミルクの本性はない。
(悟りを得た人はそれまでとはちがう。)

 いかにも道元らしい文章だ。


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