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【日記】 若さとコンビニ

夜中にコンビニに行ったら、大学生くらいの若い男性4人がコンビニでたむろして大笑いしていた。

何がそんなに面白いのだというくらいに、商品などを見たり話したりしては大笑いしていた。

同時に、彼らが、コンビニにいる同世代の女性のグループを意識して目立とうとしている事も感じ、その彼等の自意識に何だか恥ずかしくなる。その姿に「うるさいな~」と思いながらも、「若いな~楽しそうだな」とどこか若さへのあこがれも感じた。

どうでも良い事に大笑いする彼らの姿の中には、今を楽しく過ごすことへの焦燥感と、面白い自分であることを仲間に誇示しようとする対抗意識・自意識のようなものを感じた。それは、私が若い頃そうだったし、今も周りに楽しい人間と思われなきゃという心が働いて笑顔をつくることがあるから、彼等の姿に投影していて、自分がそう感じているだけかもしれない。

でも、その彼等の姿を見た瞬間、「もう誰かに、楽しい人間だなんて思われなくていいんだ」「馬鹿笑いしなくていいんだ」「もう笑う必要すらないんだ」とはっきりと分かった。


私は人との付き合いが昔からどうも苦手である。(例えば、親友が一人もいない)それなのに、中学・高等学校の教員になった。だから、若い人達との関係のつくり方もよく分からなかった。教員をしているときは、とりあえず生徒に嫌われないようにしようとして、いつも、彼等の若いノリについていけるようにしていた。

俺だって面白い人間だよ、君らの笑いが分かるよというのを示そうとして若い人たちに媚びていたことに気づいた。若さの軽薄さに寄り添おうとして演じていた。しかし、それ自体が傲岸な態度であり、その大人の媚びが気持ち悪いので一定の生徒には嫌われていたのではないかと思う。嫌われないようにして気持ち悪くなって、嫌われるあれである。

今も、卒業生から電話がかかってくると、彼らを楽しませないと思って、軽薄な笑いで彼等の笑顔を引き出そうとしたり、馬鹿笑いに合わせに行っていた。しかし、それが気持ち悪かったのだし、そんなことを自分は本当はしたくないのだと思った。(実際彼等はそういう軽薄さを大人には求めていないし、私が思う程軽薄でもないのであろう。)

夜、コンビニの大学生を見て「何を笑っているのだ。こっちは笑っている場合ではないのだ」と思った。その自分の感性を曲げる必要は別にないのだろう。そういう、何にでも馬鹿笑いするフェーズは過ぎ去ってしまったし、面白い人間と思われるために競い合うように軽薄に何でも笑いにかえることの浅ましさや寂しさのようなものにもすでに気づいている。自分は、もうそういう段階や年齢を過ぎたのだ。だから、軽薄に笑える若さにもまぶしいものを感じるのだが、決して彼等に合わせる必要はない。


今の、笑えない自分のままで、若い人たちに接することが誠実な態度だし、笑わない大人、笑えない大人を見せる方が良い事なのではないだろうか。

彼等の笑い声がコンビニに響いている。その声に、少し頭が痛くなる。彼等の会話が途切れ、一瞬の静寂が訪れる。

(終)


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