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濁浪清風 第63回「親鸞一人」①

 晩年の西田幾多郎が親友の鈴木大拙に、「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願は親鸞一人(いちにん)がため」という言葉がどこにあったか、と問い合わせている。西田の最後の論文は「場所的論理と宗教的世界観」であった。西田は仏教の存在論を西洋哲学の論理によって表現しようとして、「場所」の論理という考えを出していった。この論理のいわば帰結になるようなところに、「親鸞一人がため」(『歎異抄』後序)という言葉が取り出されてきているということなのである。

 親鸞の信念を学んでいるもののひとりとして、仏教的な論理としての「場所」の論理の究極のところに、この「親鸞一人」という言葉が取り上げられるということの意味を、しっかりと受け止め直さなければならないのではないかと感じている。西田は主語的な論理に対して、述語的な論理というようなことも言っているのだが、そのことがこのごろになって、無我にしてしかも事実は「かくのごとくに」(如是〈にょぜ〉)現象している、ということを表現しようとしているのだ、ということに愚生はやっと思い至った。遠く深い因縁の恵みによって、「自我」なくしてここに「かくのごとくに」生きているということ。そのことを表現するのは、実は容易ではないのだ。

 存在の根拠が、実体的に把握されていて、その根拠のうえで論理が立てられるのが西欧的な存在論の常識なのであろう。したがって、存在の根拠が「ない」というような、無我にして存在するという仏教的認識は、西洋的な論理にならないといっても良いほど、考えにくいことなのである。

 先日、親鸞仏教センターの研究会に、日本女子大学の井出祥子教授にご出講いただいた。教授のご専攻は、言語学の「語用論」であるという。実際の言語がどういうふうに使用されているかという、現場から発想する言語学である、ということであった。

 井出教授の比喩によれば、魚の研究をするのに、捕まえて解剖するというような研究方法に対して、海の中で泳いでいる状態のまま魚を研究するようなものである、といわれる。先生の著書に『わきまえの語用論』というものがある。これは、日本語などのアジアの言語を西欧語の文法によって研究するというこれまでの方法論に対して、そうではなく、独自の智見(ちけん)による「語用論」を展開しているものである。長い間、西洋の言語研究の論理を援用(えんよう)してきて、どうしても言語学者として肩身の狭い思いがつきまとっていたという。それに対して、まったく新しい独自の視点を取り入れて、それぞれの地域の言語の本質を解明することができるのではないか、と気が付いたというのである。それについては、仏教の存在論や状況認識の智慧が深くかかわっているのではないか、と言われる。日本語には、西洋的な言語表現にはない前提のようなものがあって、その上に表現が成り立っている。それが「場」の論理とかかわるのではないかといわれるのである。

(2008年8月1日)