親鸞仏教センター(真宗大谷派 東本願寺)

親鸞仏教センターは、時代の苦悩と親鸞聖人の思想との接点を探り、現代人に真宗を語りかける…

親鸞仏教センター(真宗大谷派 東本願寺)

親鸞仏教センターは、時代の苦悩と親鸞聖人の思想との接点を探り、現代人に真宗を語りかけるための新しい視点と言葉を見いだそうと設立された、真宗大谷派(東本願寺)の研究交流施設です。

最近の記事

濁浪清風 第63回「親鸞一人」①

 晩年の西田幾多郎が親友の鈴木大拙に、「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願は親鸞一人(いちにん)がため」という言葉がどこにあったか、と問い合わせている。西田の最後の論文は「場所的論理と宗教的世界観」であった。西田は仏教の存在論を西洋哲学の論理によって表現しようとして、「場所」の論理という考えを出していった。この論理のいわば帰結になるようなところに、「親鸞一人がため」(『歎異抄』後序)という言葉が取り出されてきているということなのである。  親鸞の信念を学んでいるもののひとり

    • 濁浪清風 第62回「宿業について」⑩

       法藏菩薩の願心には、「志願無倦」と表現されるような、止むことのない願心の持続があるという。これを大願業力ともいう。願が業といわれるような、持続する力といえるようなことだというのである。  法藏菩薩という名が、我ら一切の衆生の救済を念じ続ける願心を示すものであり、その願心が、人間の深層的な暗部に行為経験の結果が蓄積されるごとく、宗教的な解放への意欲の可能性をささやき続けるというのであろう。  自業自得がこの世の因果である。この場合の業は、自我の意欲から行為を選択することによ

      • 濁浪清風 第61回「宿業」について⑨

         われらの経験の一切を黙って引き受けていくものを、「阿頼耶識(あらやしき)」と名づけている。一切の経験とは、三界〈さんがい〉(欲界〈よっかい〉・色界〈しきかい〉・無色界〈むしきかい〉)の全経験、すなわち迷妄(めいもう)の晴れない状態での生命現象の一切である。たとえそれが美しい状態、例えば美的経験(音楽や美術など)であっても、抽象的な数学理論を考えるような経験であっても、三界の中に包まれる。仏陀・釈尊が、われらの生存に起こる一切の経験の本質を「一切皆苦」と見抜かれたのは、状況が

        • 濁浪清風 第60回「宿業」について⑧

           われらの実存の事実を「宿業(しゅくごう)」が支えている。この「宿業」といわれる自己の過去の背景は、いったいわれらのどこに蓄積されているのであろうか。これについて、唯識(ゆいしき)思想においては、われらの意識の深層に「阿頼耶識(あらやしき)」と名づける意識を見いだし、その阿頼耶識に経験の結果が蓄積されて、新しい経験の可能根拠となっていると考えている。行為や経験が起こると、その影響(熏習〈くんじゅう〉)が次の行為・経験の可能性に何らかの変更をもたらすのである。その動き行く可能性

        濁浪清風 第63回「親鸞一人」①

          濁浪清風 第59回「宿業」について⑦

           「宿業(しゅくごう)」が、生得的な生存に付帯する生命力に関わるものであるというところまでなら、良く考えれば、肯(うなず)けるところであろう。ところが、この言葉が難しいのは、生きているところにぶつかってくるさまざまなことがら、人との出会い、事件との出遭(あ)い、その他の生きているところに与えられる諸条件も含めて、運命的というほかないようなその人の出遇(あ)いにも、使用されることがある。特に、時代の状況や社会的な環境汚染などによる被害にすら、この運命的決定を意味する「宿業」の語

          濁浪清風 第59回「宿業」について⑦

          濁浪清風 第58回「宿業」について⑥

           宿業(しゅくごう)が「本能」であるという曽我量深先生の言葉を考察している。この本能とは、生命維持のために与えられている生得の能力ということが、もとの意味ではあるが、それを宗教心の問題に応用しようというのである。特に、「宿業」という言葉に当てるということには、個体の存在にとって自己の存在の根源にすでに与えられている生得的な性質が共通するということがある。  しかしこの対応に、初めちょっと違和感を感ずるのは、本能には生命にとってのいわば前向きな能力という意味が強く感じられるの

          濁浪清風 第58回「宿業」について⑥

          濁浪清風 第57回「宿業」について⑤

           「本能」という言葉は恐らく、生命存在が生まれてくるときすでにその命のなかに与えられている能力に、名を与えたものであろう。教えられないのに、ちゃんと親からその能力を受け継いでいるから、生き延びていけるのである。教育されて身に付けていく能力と異なり、生物に本来与えられている能力ということである。それぞれ、その種に生まれ落ちれば、当たり前のように親と同じ能力が与えられる。この能力も、しかし生まれてしばらくの間に使用しないと、開花しなくなることもある。例えば、動物のほとんどは、眼が

          濁浪清風 第57回「宿業」について⑤

          濁浪清風 第56回「宿業」について④

           「宿業本能(しゅくごうほんのう)」という曽我量深(1875~1971)の言葉を、先回ご紹介した。このことをもう少し考えてみたい。  「宿業」こそが宗教的な要求の根本の原因であると感ずるところに、この言葉の力がある。そして、このゆえにどのような状況を与えられた人間であっても、本能的な深層の要求として求道心が与えられているのだという人間存在への信頼が、仏陀の大悲の眼だということであろう。だから、「われらが如来に気づくよりも前に、如来がわれらのことを気遣(きづか)っていてくださ

          濁浪清風 第56回「宿業」について④

          濁浪清風 第55回「宿業」について③

           本願について、曇鸞(どんらん)は「大願業力(だいがんごうりき)」と言い、阿弥陀の仏力について「自在神力」と言っている。大願が成就して報身(ほうじん)・報土(ほうど)となるという『大無量寿経』の物語において、その因位の法蔵菩薩の願に「業力」という言葉を使うのである。果の仏力に「神力」をいうのは、仏土を住持(じゅうじ)し、その仏土に触れてくるものに「不虚作(ふこさ)住持」のはたらきを恵むためである。この住持力に包まれれば、もう求道心が「不破不壊(ふわふえ:破れず壊れず)」である

          濁浪清風 第55回「宿業」について③

          濁浪清風 第54回「宿業」について②

           宿業(しゅくごう)からの解放が、牢固な階級的枠組みを解体する基点になる可能性はある。しかるに、『歎異抄』はわれらの一挙手一投足は、宿業にあらざるはないという。これは、われらの存在に背負わされた「業」の重荷から、逃れるすべなどはない、というのであろうか。  仏陀が示したように、われらを纏縛(てんばく)しているものから完全に解脱(げだつ)しうるなら、自己に背負わされている過去の一切の業の蓄積からの解脱も、当然獲得できるのであろう。しかるに、親鸞の自覚では、われらは一歩たりとも

          濁浪清風 第54回「宿業」について②

          濁浪清風 第53回「宿業」について①

           『歎異抄』に「卯毛(うもう)羊毛(ようもう)のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業(しゅくごう)にあらずということなしとしるべし」(第13条)という文がある。親鸞の言葉として、唯円によって書きとどめられているものである。しかしながら、現存する親鸞自筆の書き物のなかには、「宿業」という言葉はない。ただし、「業」という言葉やこの語のついた熟字は、無数に見いだされる。それでは、業と宿業とには、どういう差違があるのだろうか。  一般的には「宿」という字が乗ることによって、過去

          濁浪清風 第53回「宿業」について①

          濁浪清風 第52回「場について」㉒

           「真実報土は、求めずして与えられる」と曽我量深はいう。しかし、これは何もせずに与えられる、という意味ではない。衆生の要求のごとくに与えられるものではない、というのであって、与えられるためには、必要不可欠の条件がある。それは、衆生が作り出すことを要求するのではなく、衆生自身の有限であることの徹底的な自覚、これが要求されているのである。無限のなかにあって、有限であることを自覚できていない、という構造、これを『歎異抄』は「自力作善(さぜん)のひと」(第3条、『真宗聖典』627頁)

          濁浪清風 第52回「場について」㉒

          濁浪清風 第51回「場について」㉑

           有限なる衆生(しゅじょう)に、限りなき慈愛をもって呼びかけ、待ち続けるはたらきを、ここに生きているわれら凡愚(ぼんぐ)の存在の深みに感ずることがある。この深層からの信頼を、未来からの慈悲(じひ)の眼(まなこ)として教えの形に表(あらわ)してきたのが、阿弥陀如来の本願なのであろう。だから、この深みを有形の言葉にするところに、大きな慈悲のはたらきとしての「大悲方便」があるとされているのである。  すなわち、深層からの大悲を、あたかも他界からの呼びかけとして語るから方便なのであ

          濁浪清風 第51回「場について」㉑

          濁浪清風 第50回「場について」⑳

           そもそも浄土は、第一に「罪悪の衆生(しゅじょう)を摂取(せっしゅ)するための大悲の場」であり、第二に「愚(おろ)かなる衆生に仏法の救いを具体化するための場」である、と言った。  そして、第一の点について、一切衆生を摂取しようとする大悲が、特に、罪業の衆生たる阿闍世(あじゃせ)に一切の「煩悩等を具足(ぐそく)せる者」であると呼びかける『涅槃経(ねはんぎょう)』のことを出した。これはいうまでもなく、親鸞聖人が取り上げているものである。『涅槃経』の教説の意味は、阿闍世だけが罪業

          濁浪清風 第50回「場について」⑳

          濁浪清風 第49回「場について」⑲

           「純粋未来」とは、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が一切衆生(いっさいしゅじょう)に大悲の願心(がんしん)を呼びかけるために、「真仏土(しんぶつど)」、すなわち「真実の仏身と仏土」を建立して、その「場所」からのはたらきを、現世の苦悩にあえぐ衆生に与えるときの「現実と大悲」の関係をあらわす時間的表現である。この関係を、次元の差違を超えて現実のほうに引っ張り込もうとすると、有限と無限の混乱を引き起こすので、有限な人生が終結して初めてこの関わりが充足する、と語りかけるしかない。それが、

          濁浪清風 第49回「場について」⑲

          濁浪清風 第48回「場所について」⑱

           「純粋未来」からのはたらきを、本願は「浄土」をとおして具体化する。このことを、生命存在にとっての広い意味での環境たる「場」との関わりとして、涅槃(ねはん)のはたらきを表現するものが「彼岸(ひがん)の浄土」の生命論的意味である、と押さえ直すことにしよう。換言するなら、浄土という形で荘厳された大悲のはたらきは、苦悩の衆生(しゅじょう)を完全円満に救済しようとして、常に一念の未来から、その純粋なる大悲の温かさを煩悩の坩堝(るつぼ)に吹きかけているのだ、とも言えよう。  大涅槃を

          濁浪清風 第48回「場所について」⑱