経済システムの駆動力を「欲望」から「驚く・驚かす」へ

NHKの特番で「欲望の資本主義」というシリーズがあった。これまでの経済システムが欲望を駆動力にするのにはそれなりの 妥当性があった。何しろ人類は貧しかったし、食うや食わずの人も多かったから。状況を変えたのは化石燃料の利用が普及してから。

特に石油エネルギーを手にしてからは、少なくとも先進国では非常に豊かな生活を送れるようになった。物質的な欲望は全部満たされた結果、欲望の行き先がよくわからなくなってしまった。日本の若者の場合、自動車を欲しがらなくなったと旧世代の人たちを驚かせたことがある。物質的に満たされた格好。

私はエネルギーや 資源が無限に使えることを前提した場合、欲望という駆動力では経済システムを動かし続けるのは難しいのではないかと考えている。欲望は、物質的に満たされない時代にだけあてはまる「近似的な」駆動力だったのかもしれない。

私は、経済システムの駆動力を「欲望」から「驚く」に置き換えてはどうかと考える。私たちは欲望といえば、金銭や社会的地位、名声などをイメージする。それらを求める欲望がこれまでの経済システムを駆動させていたのは事実だと思う。けれど、そもそも これらの欲望は何を駆動力にしていたのだろう?

お金持ちになりたいのは「お金持ちだ!すげえ!」と思われたいからではないか。社会的地位を高くしたいのは「偉い人だって!すげえ!」と思われたいからではないか。名誉を得たいのは、すごい人だと驚かれたいからではないか。
実は人間の社会的な欲望はほぼ全て、「驚く・驚かす」で表現できるのではないか。

ここで興味深いことに気がつく。ツイッターやFacebook、インスタグラムなど、SNSではお金をもらえるわけでもないのに何億人もの人が労を惜しまず投稿する。「いいね」の反応があるのが楽しい、というのが大きいのだろう。ツイッターだと「バズる」ことが歓迎される。これも一種の「驚かす」。

私達人間はもしかしたら、「驚かす」のが大好きな生き物なのではないか。お金持ちになりたいのも、社会的地位を得たいのも、名声を得たいのも、「いいね」がほしいのも、実は「驚かしたい」が原動力なのではないか。

赤ちゃんが初めて立ったとき、初めて言葉を口にしたとき、親は大変驚き、手放しで喜ぶ。子どもはどこかでこのことを覚えているのだろう。だから「ねえ、見て見て」が幼児の口癖なのだろう。できないことができたとき、親や大人を驚かせたくて。

これは老人になってもそう。「俺は若い頃は営業マンで鳴らした人間で」「一時は知らないもののない業界の有名人で」などと自慢して、人を驚かそうとする。幼児と同じように「ねえ、見て見て、そして驚いて」という気持ちが駆動力になっている。

ならば、経済システムの駆動力を「欲望」から「驚く・驚かす」に置き換えてもよいように思う。そして欲望ではなく「驚く・驚かす」が駆動力でよいならば、経済システムはもっと面白い形で再構成できるのではないか。

たとえば私達は「働かねばならない」と考えている。義務と考えている。でももしかしたら、働くことを「権利」にすることも可能かもしれない。選ばれし人間だけが働けるという権利。もしそうなれば、働く人は誇りを持って仕事に向かえるだろう。

働ける人は、いわばサッカーのJリーグみたいに、選ばれし者だけが働ける、というふうにデザインすると、もしかしたら労働力はそんなにいらないのかもしれない。AIが知的労働の代わりをし、オートメーションが肉体労働の多くを代替してくれるなら、労働力はそんなに必要なくなるのかも。

「欲望」を駆動力にしたままの経済システムだと話がややこしくなる。AIやIT技術で雇用を失わせておいて、働きたくても働けなくし、それらの産業に投資できるお金持ちだけが大儲けし、その他の人間は野垂れ死ねばいい、みたいな社会像になってしまう。

けれど「驚く・驚かす」を駆動力とし、「欲望」の権化である「お金」を廃止したら、お金持ちは原理的にいなくなる。そして欲深い人間は「驚かしたい」欲求が強いから、選ばれし人間になるために働こうとするかもしれない。

社会は基本、全員を養うに足るだけの食料を生産でき、それを全員に配ることができたら、人類は生きていける。食料を生産する労働力、それを配る労働力を確保できるなら、他の人が働かなくても人類は生きていけるということ。

もちろん煮炊きをしないといけないから、ガスや電気のインフラを維持する労働力も必要。農業用トラクターを作る人、輸送トラックを作る人も必要。そうしたエッセンシャル・ワーカーの労働力を確保できたら、人類は働かなくても生きていける。

ならば、そうした労働に就けるのは「選ばれし人」だけの特権とし、その人たちのおかげで皆が生きていける社会を作れるのでは。そして労働をしない人は、いかに多くの人を驚かし、楽しませるかに専心する「驚かす」経済システムにしてはどうか。

私は結構、この「驚く・驚かす」という駆動力は強いものだと思う。欲望の代わりに経済システムを動かす力になり得ると思う。欲望は、しよせんは、「驚かす」という欲求のねじ曲がった「近似物」でしかなかったのではないか。だとしたら、「驚かす」を駆動力にすると、もっと楽しい社会が作れるのかも。

企業が新製品のスマホを出そうとするのも、世間の人をアッと驚かせたいからだし、新しいゲームを開発するのも世間をアッと驚かせたいからだし、人間は結構、驚かすために働きたい生き物なのだと思う。ならば、「欲望」から「驚かす」に置き換えると、社会はもっと健全に機能するのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?