「構造」考 原発問題を例にして

原発問題は賛成と反対で二分され、溝が深い。反対派は賛成派を利権のカタマリだと罵り、賛成派は反対派のことを、むやみに放射能を恐がり過ぎている放射脳だとバカにしたりする。話し合いになっていない。互いに相手を愚かだと罵り、理解し合えない状況になっている。

私はどちらかというと原発を早くやめられたらなあ、と思っている方だが、こうも考える。もし原発立地自治体に生まれていたとしたら。家族が原発関連の仕事に就き、それで生活していたとしたら。それでも反対だといえるだろうか。賛成している人を愚かだと攻撃できるだろうか。

原発ができた地域は、もともと産業がこれといってなく、なんとか若い人たちに仕事を与えたい、という考えがあって誘致したり賛成したりした経緯がある。そうした願望は素朴で、別に責められるようなものではない。家族で一緒に住みたい、そう願っていただけなのだから。

原発事故が起きて、状況が大きく変わった。賛成していた人たちも、地震が起きると住めなくなるほどのことが起きるなんて、と、驚いただろう。後悔先に立たず。もう原発はすでにある。ではどうしたらよいか。

もし私がそれでもなお、原発のある地域の住民だったとしたら。過去の経緯から、原発関連の仕事を続けざるを得なかったとしたら。その仕事を簡単には辞められないだろう。年も年なら、安易に転職もできない。原発以外にもともと仕事がなかった地域なら、転職はままならない。そのまま働くしかない。

もし原発をやめるなら、原発関連で働く人たちの仕事をどう提供するか、セットで考える必要がある。「あいつらは原発でいい思いをしてきたから放っておけばいい、よい気味だ」という態度は、怨念を生む。私は、どんな立場であろうとそこに生きる人がいること、生活があることを忘れるべきでないと思う。

原発で生きている人がいるのであれば、原発をやめる場合にも仕事があるように、生活ができるようにするにはどうしたらよいか。それも含めてセットで考えることが「やめる」ということなのだと思う。「そんなことはあいつらが考えればいい、俺たちの責任じゃない」という人たちもいるけれど。

私たちは日本という同じ船に乗っている。同じ船に乗る人に不都合が起きれば、結局まわりまわって私たちにはね返ってくる。その「構造」を考えると、「あいつらが尻ぬぐいすればいいんだ」では、残念ながら済まない。同じ船に乗るものとして、一緒に考える必要がある。

原発をやめる際に厄介なのが、プルトニウムの問題。原発で発電すると、燃料のウランがプルトニウムに変化する。これが非常に厄介。プルトニウムは原子爆弾の原料になるというので、国際的に貯蔵が認められていない。でも日本では、原発動かすからどんどん貯まってきた。なぜそれが許されてきたのか?

「いずれプルトニウムは燃やすから」と国際的に約束することで許されてきた。一応、プルトニウムを燃やして発電することは、理論的には可能。もしプルトニウム発電が実現すれば、プルトニウムは燃やせば燃やすほどウランがプルトニウムに変わって増えるので、ほぼ永久に発電できる。二度おいしい。

ところが。プルトニウム発電は非常に難しい。プルトニウムは非常に扱いの難しい燃料で、世界的にもあまり成功していない。なにせ、核反応というのは膨大な熱を出し、それに耐えられる金属がこの世にない。上手に冷やす技術を開発しようにも、難し過ぎて難航。

プルトニウムをほんのちょっとウランに混ぜて燃やすMOX燃料というのを開発して、通常の原発で燃やす工夫もしてみたけれど、それでも制御が難しいらしい。プルトニウムという燃料を上手に扱える原発は、事実上日本にない状態。これでは「プルトニウムは燃やすから」という約束が果たせない。

プルトニウムを燃やして減らす、という目論見もうまくいかない。このため、プルトニウムがどんどん貯まっていく。このままだと、「あんたが燃やすって言うからプルトニウムが貯まっていくのも容認してたけど、それができひんのやったらプルトニウムを貯めるのやめてんか」と国際的に批判されてしまう。

もし「プルトニウムを燃やすの、無理でした」と白旗を上げると、プルトニウムを貯めてはいけない国に日本なるので、プルトニウムの引き受け手を探さなきゃいけなくなる。その時、きっと引き受け手から足元見られる。「これだけのお金もらわなきゃ引き受けられないよ」と。貧乏な日本にそれができるか?

今の日本にそれだけのお金はない。だから政府は、もう無理と分かっていても「いや、燃やしますから!プルトニウムは必ず燃やしますから!」と言い続けないといけなくなっている。プルトニウムを燃やす、という建前を崩すわけにいかなくなっている構造。

「燃やすっつったって、プルトニウム発電、うまくいってないやないか!ちびっと混ぜたMOX燃料かてうまくいってへんのに!」と責めるのは簡単。でも、たぶん政府はどうしようもなくて困っている。「お前らのせいだ!」と責めるのは簡単。でも政治家も世代交代して昔の人は死んでる。

結局、同じ日本という船に乗る私たちがこの問題にどうにか決着をつけなきゃいけない。日本は地震国で、貯まったプルトニウムを長期間保管するのも難しい。どこの自治体も、プルトニウムを足元に埋めるのはイヤ。かといって、現時点で貯まっている場所の住民もイヤ。解決困難。

こうした袋小路の構造を理解したうえで、何か方策があるか。「あいつらのせいだ」では話が進まない。「俺はもともと反対だった」それはその通りだと思う。反対してきた人は、憤懣やるかたないと思う。賛成した人間が尻を拭け、と言いたくなる気持ちも当然。けど、悔しいことに同じ船に乗っている。

明治維新の時、新政府は、江戸幕府が抱えていた借金を全部肩代わりした。革命が起きて別の政府が生まれたのだから、「幕府の借金なんか知るか、将軍家に請求しろ、俺達には関係ない」と言いたかったと思う。しかしそれをしなかった。なぜか。

借金を肩代わりしなければ、西洋列強が幕府から借金を取り返すため、「あくまで正当な政府は幕府」と考え、新政府を「反乱軍」とみなし、正当な政府とみなさない恐れがあったからだ。だから、江戸幕府の借金も新政府は自分の借金として肩代わりし、支払い続けた。

「それは俺のせいじゃない」といっても、外から見ると知ったことじゃない、という「構造」がある。自分は賛成しなかった案でも、その尻を拭く必要が出てしまう。悔しいし腹が立つかもしれないが、そういう「構造」の中で生きている。ならば、どうせならなるべく楽しく解決していきたい。

誰かを責め、攻撃をすれば留飲を下げることができ、一時の快を得ることができるかもしれない。しかしそれでは問題はなんら改善されない。しかも、攻撃された側は恨みに思い、協力するどころかそっぽを向いてしまう。誰も問題解決に対処しないという厄介な構造を作り出すだけ。

そうなるくらいなら、ただ対立構造をあおるのではなく、「ええい!過去のことをあれこれ言ってもしゃあない!みんな死んどる!それより、子孫にしわ寄せいかんようにするにはどうしたらいいか、みんなで考えよか!」と、なるべく多くの力、知恵を結集できるようにしたい。それも自発的に。

それには楽しく。「うわあ、厄介やなあ!でもそれだけやりがいがあるというもんや!」という磊落さ、朗らかさで物事を進めていきたい。どうせなら剣呑な空気ではなく、ワイワイとにぎやかに。楽しい方が知恵が動くし、力も湧く。そんな「構造」の国に、日本がなればなあ、と思う。

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