「子どもの発見」ならぬ「大人の発見」

ルソーは、子どもが大人とは全く異なる存在であることを発見し、子どもは子どもに適した接し方をすべきであるという、「子どもの発見」をしたことで知られる。でも私は、もしかしたら「大人の発見」をせねばならないのではないか、という気がする。

私が最初に書いた本は部下育成本だから、すでに大人になった部下の育て方を論じたものだけれど、その書評に興味深いものがある。明らかに新しい指導法なんだけど、どこかで見たことがある、なぜだろう?と考えたところ、幼児教育の内容を大人に適用しているのだ、と気がついた、というもの。

確かに、私の部下育成の内容は、ほぼ幼児教育から学んだものと言える。子ども本人の学ぶ力を育てるため、本人の意欲が高まるような環境づくりをする。それが部下を能動的意欲的にし、上司の指示がなくても自律的に動く部下を育てることになる、という内容。実は多くを、保育からヒントを得た。

私は、「驚く」というのを指導の基本に据えているけど、これは子どもに限らず、大人にも適用可能だと考えている。自分より年上の人にも。なんなら老人にも。なぜなら、人間はどうやら、いくつになっても驚かせたい生き物のようだから。

社会的地位や名声、成功、お金などをなぜ人間は求めるのか?私は、もしかしたら「驚かしたいだけなんじゃねえか?」と考えている。スゴいと言ってほしい。みんなの耳目を驚かしたい。だからそうした社会的地位だとか名声とかお金とかを求めるようになるのでは?と。

最近の若者は、そうした社会的地位とかにあまりガツガツしていないという。出世したくない、人の上に立ちたくない、とも。これは、もしかしたらSNSの登場が大きいかも、と思っている。SNSでは、多くの人とつながることができ、「いいね」をもらえる。擬似「驚かす」ことができる。

SNSができる前は、人とのつながりといえば会社の中でしか形成しにくかった。平社員だと、直属の上司と同僚としか人とつながれない。出世し、社長ともなれば、会社の人的ネットワークの頂点に立つことができ、その一挙手一投足は、全社員を驚かせるものとなる。

かつて社長が憧れの存在だったのは、社会的地位も、名声も、お金も手に入り、かつ人的ネットワークの頂点に立つことで、人を圧倒的に「驚かす」ことができる立場だったからかもしれない。しかしSNSが誕生すると、会社の枠を超えた人的ネットワークを作るのが容易になった。

「いいね」が擬似「驚かす」にもなる。ならば、無理して出世して、人のしがらみにとらわれる必要はなくなる。出世する気を多くの人が失った原因の一つに、「驚かす」ことが出世以外でもできるようになったことにあるのかもしれない。

そしてどうも、子どもも大人も、「驚かす」のが大好きな生き物なのでは?という気がしている。少し前の世代の男性がスナック等に通って「シャチョーさん」と言われ、「さすが!知らなかった!スゴい!センスいい!そうなんだ~!」と驚かれに行っていたのは、お金を払ってでも驚かせたかったからかも。

ほとんどの幼児が口にする口癖がある。「ねえ、見て見て!」それまでできなかったことが、できるようになったよ!知らなかったことを知るようになったよ!と、自分の成長や工夫、発見で大人を驚かせたい。その思いが、この口癖を生み出すのだろう。

赤ちゃんの頃、多くの子どもは強烈な体験をする。言葉を初めて発したとき、初めて立ち上がったとき。親がものすごく驚き、手放しで喜ぶ。赤ちゃんだからはっきりは覚えていなくても、自分の成長で周りが驚くという体験を日々しているのが赤ちゃん。このとき、「驚かす」快感を知るのではないか。

そして、幼児になり、言葉を発するようになると「ねえ、見て見て!」になるのではないか。そして実は、大人として振る舞え!というしつけのために影に隠れるけど、自分の何かで人を驚かせたいという気持ちはずっと失われず、死ぬまで続くのではないか。

ユマニチュードという介護の技術の伝道者は、老人が能動的に振る舞ってくれたとき、驚き、喜ぶ。すると、老人はもっとこの人を驚かせようと積極的になり、しかも協力的になる。ユマニチュードは、老人でさえも「驚かせたい」と思っていることに着眼した技術なのかも。

現代文明は、西洋の影響を強く受けている。西洋文明はルネサンスで花開いたのだけど、倫理道徳に関しては、中世キリスト教の影響を強く受けたまま。そして中世キリスト教は、人間の本性からズレた行動をとるように強いる面が強かった。

人間の本性に逆らう行動をとることは難しく、その難しいことを実行できるのが聖人なのだ、という倒錯した考え方から、中世キリスト教の教えでは、今から見ると非人間的なのではないか、とさえ思われる考え方が強かった。この考え方は、ルネサンス以降でも、ストア哲学と合流して、続いてきた。

人間のもともとの性質から離れれば離れるほど、聖人に近い、という倒錯した考え方が、西洋文明には根強く残り、それが大人の行動を変に縛ってきた気がする。変な倫理道徳が、大人という生き物の実態を見えなくしてきたのではないか。

だとすれば、もう一度、人間ってどんな生き物なのか、西洋文明で覆い尽くされた「思い込み」を外してみて、虚心坦懐に大人を観察してみてもよいのではないか。そしたら、ルソーが子どもにだけ限定して発見したことは、実は大人にも適用した方がよいことが見えてくるのではないか。

私は、人間の社会的欲望のほとんどは、「驚かせたい」なのではないか、という仮説を持っている。出世したい、お金持ちになりたい、有名人になりたい、という、昔からよく知られている欲望は、すべて「驚かせたい」という欲求の変形でしかないのではないか。

だとすれば、人間を「驚かせたい」生き物だとして捉え直し、様々な社会制度を設計し直せば、「欲望を駆動力にする資本主義」から、「驚かせたい、を駆動力にする社会システム」へと改造し、もっと楽しく、それでいて経済も回し、地球環境への負荷も減らせるのではないか。

人間の欲望のかなりを「驚かせたい」が占めるのだとすれば、お金の設計、社会システムの設計、様々なシステムの動かし方が、スッキリとしてわかりやすくなる予感がしている。
非人間的なあり様を「聖人」とみなすことで、大人が見えなくなってきたけど、人間はどうやら老若男女に関わらず、「驚かせたい生き物」。そうした「大人の発見」こそが、いま、人類が抱えている諸問題を解決するのを、少し容易に、そして楽しくできるようになるのでは?と夢想している。

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