「自分がある・自分がない」考

あの人は自分がない、と評することがある。それ、よくわかるんだけど、いったい自分がない、あるいはあるってのは、どういう人、状態のことを言うのだろう?YouMeさんに聞いてみたところ、「自分の好き嫌いが分かっているかどうか」という回答。なるほど。

私の知っているケースで4人、優等生で性格もよく、人付き合いも悪くなく、みんなとうまくやっていけているにも関わらず、さほどのきっかけもないのに不登校になっている。親もビックリ、先生もビックリ、友人も意外。しかしいくら呼び掛けても登校できない。本人も原因がわからず、混乱。

振り返ると、4人とも「自分がない」という共通点があった。しかし「あれ?自分がない、というのは分かるのだけど、自分がない、ってどういうこと?何を指して自分がない、と私は判断できているのだろう?」と不思議に思った。で、言語化をYouMeさんに手伝ってもらおうとして、上記の回答を得た。

自分の好き嫌いが分かっているかどうか。これ、当たっているような気がする。優等生で何の問題も見当たらなかった4人が、なぜある日、大したきっかけもなしに不登校になったのか、その原因はもしかしたら「自分の好き嫌いが分かっていない」からだったのかもしれない。

4人とも、成績優秀だった。勉強しろと強制されたわけではないけれど、成績がよければ親も先生もほめてくれるし、勉強も嫌いというわけではないからやっていた。友達づきあいもうまくやっていた。先生ともうまくやっていた。けれど、4人とも、「これだけは誰が何を言おうとやりたい」がなかった。

どうやら、優等生を長らく続けているうちに、他人が認めるであろう、ほめるであろう行為をするようになっていて、他者評価が高いものを実行する、という行動パターンが身についてしまったらしい。しかし自分が本当にやりたいものは何だい?となると、4人とも虚ろだった。何をしたいのかわからなくなっていた。

他人からほめられるからやっている、みんながそれをやった方がいいと言っているからやっている。ただ、それらは強制されてやっていたわけでもない。彼らは優等生だったから、誰かに命令される前から成績がよかった。誰からも強制されずに済んだ。済んだのだけれど。

他者からの評価が高いことを知らず知らずのうちに選び取り、それを巧みにやりおおせて、高い他者評価を得てきた。しかしさあ、自分が何をしたいのだろう?となった時、自分の好き嫌いが実ははっきりしていないことに当惑したのかもしれない。だから、どうしたらよいのかわからなくなったのかも。

今さらみんなが高く評価することをやろうと思っても、それは他人の目を気にして実行しているような気がして嫌。でも、他人がどう思おうと自分はこれをしたい、というものがない。では自分のしたいことは見つからないから他のことを、と思っても、それらはすべて他人の目が理由な気がしてしまう。

「自分のなさ」になんとなく気がついた時、彼らは無気力になったのではないか。他人の目なんか気にせず、自分のしたいことをする「自分がある」状態になりたい。でもそれはどうしたらなれるのかがわからない。何かしようと思ったら、他人の目が気になる。気になる自分が嫌。などなどで大混乱。

先生も何がきっかけで不登校になったのかわからないし、親はそれまで手のかからない子だ、それでいて優秀で頼もしいと思っていたら部屋に閉じこもって出てこないから右往左往。友達も「なんで?」と不思議に思い、声をかける。けれど本人は、「心配される自分」というのにも嫌気がさしていたらしい。

自分の好き嫌いが分かっている人は、あまりこうした不思議な混乱状態になることは少ない様子。イヤなものはイヤ、とはっきり言えると、他人がどう思おうとあまり気にし過ぎない。自分を見失わない。こうした人は、あまり心配いらない。

でも、自分の好き嫌いが分かっていない人、あるいは好き嫌いをはっきり言えない人は、後で困ったことになることが多いような気がする。その時は「みんなのしたいのでいいよ」と言ったのに、後で「私は本当は、こっちのほうがよかったのに」と文句を言う。「自分のない」人は、困ったちゃん。

マンガ「家栽の人」で、ずっと優等生を演じてきて、本当の自分がわからなくなってしまう少女が登場する。親からも教師からも友人からも評判がよく、成績は良いし社交的だし人柄もよい、非の打ちどころのない少女。しかしそんな自分を演じ続けてきて、自分は何をしたいのかわからなくなってしまう。

「しくじり先生」という番組で、尾木ママが登場、懺悔しておられた。「うちの娘は駄菓子なんか食べないし、くだらない娯楽番組なんか全然見ない」と娘自慢していた。娘はその通りの子どもだった。ところが大人になった娘の部屋を覗くと、食べ散らかしたチョコの包装、くだらない番組で笑い転げる娘。

娘は涙を流しながら、実は駄菓子もくだらない娯楽番組も、どちらも小さい頃から大好きだったのだという。「なぜそれを隠していたの?」と尾木ママが訊くと、「だって、パパがそれを望んでいるのが分かっていたんだもの」。父親が望んでいる娘像を演じていたのだという。

最初は子ども自身も望んで、親の希望通りの行動をする。そしてそれでほめられると嬉しいから、ますます親の希望通りの行動を続ける。ほめられる。その相互作用で優等生を演じているうち、思春期を過ぎるあたりから「あれ?私は本当は何をしたいのだろう?」と、疑問が湧きやすくなる。

思春期に爆発すればよいが、成人してから初めてそれに気づく人もいる。私が見た4人の不登校の学生のうち1人は思春期に、3人は成人してからそれが起きた。優等生であることを知らず知らずのうちに内面化して、自分が本当にしたいことを見つけようとせずに、探そうとせずに来てしまい、大混乱。

コレット・ダウリング「母と娘という関係」という本がある。母から見て自慢の娘。娘は母親が望むように立派に成長した。ところが思春期に入ると娘は拒食症で過食症に。進学もうまくいかず、精神的に不安定になってしまう。原因は、母親が「完璧な人間」であることを娘に無意識に求めていたから。

親の期待に添うように生きることを求められ、娘も最初は進んでそうしていた。親が喜んでくれるから。ほめてくれるから。だけど思春期になり、母親の望むように生きている私って、いったい何?と、混乱する。自立を求める無意識と、親の望む完璧な人間でありたいというこれまでの習慣が激突。

私が「子どもをほめて自己肯定感を高めましょう」と子育て本でよく勧められている話を薄っぺらい、と感じるのは、このあたりに原因があるらしい。子どもをほめ、ほめた通りに子どもを動かそうとするのは、子どもの本心を見ようとせず、親の希望通りにだけ行動させてしまう、ロボット化なのではないか。

先生からも親からも高く評価されて、本人もある程度の年齢まではそれで満足していたけれど、自分が何をしたいのかがわからない。それって、自己肯定感が高いと言えるのだろうか?むしろそれ、他者肯定感(他者から認められている感)でしかないのではないか。ほめて自己肯定感は高まらない気がする。

むしろ自己肯定感とは、親が希望する生き方、ほめたくなる生き方から距離を置いたものではないか。自分の好き嫌いをはっきり自覚、それが他者から見て多少いびつなものであっても、「好きなものは好き!嫌いなものはキライ!」とはっきり言える、そんなデコボコな自分を「しゃーないな」と認めること。

自分の醜いところ、至らないところ、みっともないところ、そうしたものをぜんぶひっくるめて「それが自分だもんね、まあ、しゃーないか」と認めること、肯定すること。それが自己肯定感に一番近いかもしれない(私は「自己肯定感」という言葉があまり好きじゃないんだけど)。

好きなものを好きと言えること。嫌いなものを嫌いとはっきり言えること。その上で、他者の感情を傷つけずに意見を表明する工夫も身に着けること。それが大人になるということだし、「自分がある」ということなのではないか。

子育ては、そうした人間に育つよう、親がアシストすることなのだろう。完璧な人間であることを求めたり、親の期待に応えようとさせたり、親に褒められようとさせるのではなく、子どもがそうしたいからそうする。したくないならしない。でも他者を傷つけず、楽しくやっていく術も身に着ける。

自分がありつつも、「お前、おもろいやっちゃな」と周囲から言ってもらえる人間に育つよう、アシストする。それが子育てなのかもしれない。「完ぺきな人間」って、たぶん、人間じゃない。それはロボットか何かなのだと思う。優等生という理念も、たぶん人間じゃないのだと思う。

私たちはいろんなデコボコがある。好き嫌いも、他の人とは違っている。それがダメだと「完ぺきな人間」という評価規準は批判する。でもそんな評価基準を気にして自分を失うより、好きなものを好きと言えて、それでいて他者への思いやりを失わない。そちらの方が大切なのではなかろうか。

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