「批判」「疑う」をやめて「前提を問う」

「批判」とか「疑う」は、合理的な精神の持ち主なら必ず行うべきものだと思われている。新聞やテレビなどマスコミの言うことを鵜呑みにするな、疑ってかかれ、とも言われる。鵜呑みにする人間を合理的精神に欠けた人間としてバカにする風潮もある。しかし、これらには困った副作用がある。

自分に批判的精神があると思う人ほど、何でも疑ってかかる人ほど信じ込んで疑わないという状態に陥りやすいこと。
これは恐らく、傲慢さが生まれるからだろう。批判や疑うことは、辛く苦しい。これは信じていたいというものまで疑いの目を向けるのだから。そしてそんな辛い試練をくぐり抜けた自分は。

「世界の誰よりも正しい思想にたどり着いている」と思いたくなる。世界の誰よりも疑ったから。どんなものも批判にさらしたから。つらいところをくぐり抜けたから。だから自分の考えは誰よりも正しく、誤りのないものだ、と思い込みたくなる。批判するから、疑うから、その代償として「自分は誰よりも賢い」と思い込みたくなる。

「疑う」といえば、デカルトを思い出す。デカルトは「方法序説」の中で、一般に信じられているものに疑いの目を向けていく(方法的懐疑)。私達は現実を生きてる気になってるけど、眠って夢を見ているときも現実を生きてる気になっている。だとしたら現実も夢と大差ないじゃないか、と。

「批判」といえば、カントの「純粋理性批判」などを思い出す。理性って何やねん?というのを、そのままにせずに問うていく。そして、あまり腑分けされていなかった思考というものの正体を明らかにしていこうとする。

この二人の著作を見ると、「疑う」にしろ「批判」にしろ、ダメ出しのニュアンス、バカにするニュアンス、軽侮する姿勢は見られない。私達が信じ込んでる前提を「どうなん?」と問うているだけ。ところがどうも、日本での「疑う」や「批判」は小バカにしてる感。愚かだと見下す感がある。

これは、「疑う」とか「批判」という辛い行為をする自分を英雄視する、一等高級な行為をする自分、と見なしたくなる心理が働いているように思われる。合理的精神に見えて、無意識化では「俺って賢い」と思い込みたがっている傲慢さが進行していると言える。

私は「疑う」や「批判」に伴いやすい傲慢さはどうも問題がある、と考えている。疑り深い人ほど人の話を聞かない。自説を主張して譲らない。これは、「疑う」や「批判」に伴いやすい副作用。これを避けることがとても大切なように思う。

私は「前提を問う」で十分なのではないか、と思う。例えば「鉄はさびやすい」と、一般に信じられている現象がある。ところが超純粋な鉄は光沢を失わず、極めて錆びにくい。さびやすいという現象は「あまり純粋ではない鉄の場合」という「前提」が無言のうちに込められている。

昨年まで、動画などでは「日本に食糧危機は起きない」というのが盛んに流れていたらしい。私もその通りだと思う。いくつかの前提が成り立つなら。「エネルギーは今後も問題なく調達できる」「海外から食料を輸入できる」「日本は自国を養うだけの経済力を維持できる」などの前提が成り立つなら。

しかしそれら一つ一つの「前提を問う」ていくと、心もとない。エネルギーのうち、自動車やトラックなどの運輸を支えてきた石油が採れづらくなってきている。他のエネルギーが石油の代わりになるかとさらに前提を問うてみると、これまた怪しい。というように「前提を問う」といろんなものが見えてくる。

考えてみたらデカルトの「方法序説」もカントの「純粋理性批判」も読んでみると「前提を問う」ているだけ。昔の考え方を小バカにしたり低く見たり愚かだとこき下ろしたりしていない。日本の「合理的精神」に伴いがちな傲慢さ、見下す心根は見えない。だったら、「疑う」や「批判」でなくてよいのでは。

傲慢さを持たないようにする、変に自説を信じ込まないようにするもう一つの装置として「すべては仮説」がよいように思う。他の人が何かトンチンカンなことを言ってるように思えても、その人なりの「前提」があって、その前提に立てばその理屈になるのも無理はない、ということがよくわかる。

コペルニクスが地動説を言い出したときには、トンデモ説だった。だって、星の動きを全然予想できなかったから。天動説は長年の研究のおかげで、惑星の動きや月食、日食をそれなりに予想できた。天動説のほうが使える理論だったわけだ。

ガリレオが望遠鏡で天体観測するようになり、どうやら地動説の方がしっくりいく証拠を次々に出したけど、まだ地動説は天動説のように星の動きを予想できなかった。地動説の方が緻密なデータに基づいて星の運行を予想できるようになるには、ケプラーのデータを踏まえ、ニュートンまで待たねばならなかったらしい。

だとすれば、星の動きを予想できるという実用性から考えて、天動説を当時の人がなかなか手放さなかったのも理由が飲み込める。どちらが実用的であったか、という前提に立つと、おいそれと地動説に移れなかったのも無理はない。なのに当時、天動説だった人たちをバカにしすぎるのはバランスに欠けている。

このように「前提を問う」ことで検証していくと、トンデモ論に見えるのもそれなりに前提があり、その前提に立てば無理のない話だったりする。そこから得られる知見もあったりする。ならば、すべての理論は「とある前提に立った仮説」と捉えた方がよい。もちろん自説についても。

私は食料安全保障の本を書いたが、必ず食料危機が来るとは考えていない。いくつかの前提が成り立つなら、食料危機は回避できると考えている。課題は、そのいくつかの前提が成り立ちにくくなっている思われることだ。それをなんとしても成り立たせることが求められる。

私の説も、ある前提に立った「仮説」でしかない。もし前提が違えば、私の説は成り立たない。そして成り立たないでいてほしいと願っている。
「疑う」や「批判」のように、相手を小馬鹿にする、低く見る傲慢さは不要。自分も相手も仮説でしかないのだから。その前提さえ問えば済むのだから。

私達は、「自分の方が賢い」と思い込みたくなる願望さえも「前提を問う」ことで見つめ直し、「私も他の人も、何らかの前提に立った仮説を述べているに過ぎない」と、公平な立場に立つことが望ましいと思う。やたら攻撃的で微塵も敬意を払わない姿勢は、あまりよくないように思う。

私は、それぞれの意見がどんな前提に立つかだけを明らかにできたら、どの説もあんまり否定したり疑ったり批判したりする必要はないと考えている。誰もが思ってみなかったような隠れた大前提が後で現れて、トンデモ説が意外と真実に近かった、なんてことも起こりうるのだから。ただ。

前提が崩れたら、この仮説の信憑性は低くなった、と考えればよいだけ。否定する必要もないし、バカにする必要もない。こき下ろす必要もない。すべては仮説。生き残った仮説が必ずしも嬉しいものではないことも多い。傲慢になって良い理由はないように思う。

追記
「ずっと疑い続けなきゃいけない」という指摘複数。しかしそれでは無限ループに入ってしんどい。自分の論がどんな前提を根拠にしてるのかを把握すれば、それで済むと思う。前提が立論の限界示してくれるから。

人間はどうやら、傲慢にならずに疑い続けるということができない生き物らしい。

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