なぜ驚けなくなるのか

私は子育てにおいて「驚く」をよく推奨するのだけど、「天才少年によるとてつもないパフォーマンスでも見るのでない限り驚けるはずがない、もしそれでも驚いて見せたらわざとらしくなる、子どもはそうした作為を見破る、だから『驚く』というのはウソっぱちだ」と反応する人がいる。

私が考えるに、驚けないのは、自分を賢いと思ってる(あるいは賢いと思いたい)か、子どもに大して関心がないため、「観察」できていないのが原因のように思う。
自分は賢い、何でも知ってる、と思っている(あるいは思いたい)人は、驚けない(驚くわけにいかない)。それは知ってることだから。

でも、親は大概、赤ちゃんを育てる時に驚かされることになる。首がグニャングニャンで頼りないと思っていたらある日、首が座るようになって驚く。お座りできなかったのに、ある日お座りできるようになって驚く。それまで移動能力を持っていなかったのに、ずり這いして動けるようになったことに驚く。

ある日、立って驚く。ある日、言葉を口にして驚く。昨日までできなかったことができるようになって驚かされる。なぜだろう?大人は首も座ってるしお座りできるし、ハイハイや立つどころか走ることだってできるし、流暢に話すことだってできるのに、なぜ驚くのだろう?

それは、よく観察しているからだろう。昨日までは確かにできていなかったのに、まだできるとは確信持てなかったのに、今日はできた!え?本当に?と驚くことになる。観察しているからこそ、昨日まで「できない」だったことを知り尽くし、だからこそ驚くことになるのだろう。

なのに驚けないとすれば、その人は「観察」できていない可能性が高い。基準を自分に置き、自分ができることを子どもができても当たり前と考え、驚かない。子どもが昨日までできなかったという事実を斟酌しない。「それができたからといってそれがどうした、上には上がいる」と言って急かすだけ。

これでは子どもは辟易してしまう。子どもは自分の成長で親を驚かすのが大好き。幼児の頃は、一つできることが増えたら「すごいじゃん!」「やったね!」と驚いてくれたのに、ある時(大概、小学校に通うようになったとき)から驚いてくれなくなる。驚くハードルを「優等生レベル」に引き上げられる。

いくら頑張ってできるようになっても「◯◯ちゃんはもっとできる」と言って驚いてくれない。これでは子どもは嫌気が差す。もはや親の期待する分野で驚かすのはやめ、親の嫌がる分野で親を驚かすことを企む。ゲームとかマンガとか。

私は、子どもは「親の意外」に出たがる生き物であると考えている。もし勉強するのは当然、よい成績をとるのは当然、頑張って当然、という態度を親が取る場合、それらの分野では親を驚かせられないことを悟り、その他の分野で親の「意外」に出ようとする。「またゲームばかりやって!」と親は怒る。

でも、驚かなくなった親ならば、いっそ怒るという形でもいいから親の「意外」に出てやる、という暗い想念に囚われてしまう。親の期待する分野に行くものか、親の期待に外れてやる!と子どもがなるのは、親の「意外」に出るためではないか、と私は考えている。

ハードルを上げた期待をする親は、子どもを観察できなくなっている。自分の期待に達していない、と不足ばかり気にして、子どもが今どんな気持ちか、子どもが昨日まで何を思ったのか、などに関心を持てなくなり、子どもが自分の期待に応えるか否かだけしか見えなくなっているように思う。

何度も引用しているが、ナイチンゲールは「観察」について次のように言っている。
『経験をもたらすのは観察だけなのである。観察をしない女性が、50年あるいは60年病人のそばで過ごしたとしても、決して賢い人間にはならないであろう。』
何十年親をやろうと、観察できていない可能性がある。

観察眼を曇らせる大きな原因は、期待だと思う。子どもが言葉を話せるようになると、親は「教える」ことで子どもの成長を促そうとする。親はよかれと思ってやるのだけど、これはしばしば「助長」となる。
昔、隣の畑の苗のほうが伸びが良いのに腹を立てた男が、自分の畑の苗の成長を助けようと苗を引っ張りまくった。その翌日、苗はすべて根が切れてしまい、枯れてしまった。これが「助長」という話。
期待をし、上に早く伸びろと急かすことで意欲という根を切ってしまう。これは残念ながら、少なからぬ親がやってしまう行為。しかも良かれと思って。

でも、苗は苗自身の力で伸びるしかない。もし苗の成長を促したければ、苗そのものに干渉しようとするのではなく、苗の環境を改善してやるほうがよい。水はけはよいか、水やりは足りているか、肥料は何が足りないか、などなど、環境(関係性)を改善すると、苗は自分の力で成長し始める。

自分の畑の苗を隣の畑の苗と比較し、不満に思っても仕方ない。それよりは、苗は今どんな状態か、苗は何を求めているのか、何を与えると成長し始めるのか、それらを「観察」から導き出すよりほかはない。そうして観察から導き出した仮説を試し、祈るような思いでいるとき。

無事穂が出てきたら、「ああ!良かった!」と驚き、喜ぶことになるだろう。観察してきたからだ。観察してきたからこそ、目の前の現象は決して当たり前ではなく、いくつもの奇跡が重なって初めて起きることなのだということを痛感する。だから驚かずにはいられないのだろう。

驚けないという人は、何らかの原因で観察できていないように思う。それは、自分を賢いと思い、「その程度で驚く安い人間ではないぞ」と自分を高く引き上げてしまってるか、子どもにやたら期待して、期待以外が見えなくなっているか、そもそも子どもに関心がないか。

「荘子」に、包丁の語源となる料理人、庖丁(ほうてい)のエピソードが。庖丁は王様の目の前で牛一頭を瞬く間に解体して、王様を驚かせた。王様は「さぞかしよく切れる包丁なのだろうな」というと、庖丁は「私は切りません」と言い出した。

「普通の料理人は切ろうとします。しかしそのため、筋や骨に刃が当たって欠けてしまい、何度も研ぐ必要が出ます。私は牛をよく観察します。すると筋と筋のスキマが見えてくるので、そこにそっと刃を差し入れると、肉がハラリと離れます。切らないから欠けず、もう何年も研いでません」

普通の料理人は恐らく、「筋はこう走っているに違いない」と「期待」し、その期待に合わせて刃を入れるために、現実との食い違いが起きて刃が骨に当たり、欠けてしまうのだろう。かたや庖丁は、豊富に重ねてきた体験もいったん脇に置き、虚心坦懐に観察するのだろう。

「これまでの牛とは違って、この牛の場合はここに筋が走ってる気がする」という、観察から浮かび上がった「仮説」に基づき、刃を差し入れるのだろう。十分な観察を踏まえているから、筋通りに刃を入れる確率を上げることができるのだろう。

この庖丁のエピソードは、期待がいかに観察眼を曇らせるかを教えてくれる。そして観察するには、期待やこれまでの経験もいったん脇に置き、虚心坦懐に観察することの必要性を教えてくれる。恐らく庖丁は、「この牛はこんなふうに筋が流れてるのか!」と、その都度驚いていた気がする。

観察とは、ただ注意深く見ることではない。「注意深く見る」って、わかるようで何をどうすることなのか、私にはよくわからない。私にとっての観察とは、自分の気づかなかったこと、知らなかったことに気づこう、探そうとする行為。

何年も一緒に子どもと暮らしてきて、わかってるつもりになってしまいがちだけど、「観察」は、気づかなかったこと、知らなかったことを探そうとする行為。これをやってみると、毎日のように「あれ?こういう面があったの?」と、新鮮な驚きが得られるはず。

わかった気になるのは、もはや観察ができていない証拠。わからないのが当たり前。私達は、大して気づけない生き物なのだから。未知だらけなのだから。
知ったかぶりするより、知らないことを自覚することが大切。その自覚ができると、毎日が驚きの連続となる。楽しい。

思えば、知ったかぶりってなんでやっちまうのだろう?知識のあるところを見せたら賢いと思われると考えるからだろうか。でも、そんな大したことのない優越感を味わうために「驚く」という楽しみを捨てることになるのは、もったいないように思う。

人間の賢さなんてたかが知れてる。自分を賢いと思うのは、やはり傲慢なのだと思う。賢いと思いたいというのも、何か大切なものを見失っている気がする。私達はもっと、自分の愚かさ、足りなさを見つめた上で、そんな未熟な自分を許し、愛おしむとよいように思う。

自分自身をよく観察すること。そして、「お前、おもろいやっちゃな!」と自分に声をかけるとよいと思う。たくさんの欠点を抱えたそのデコボコぶりを面白いと思えばよいように思う。ツンツルテンより、デコボコしてるほうが味あるやん、ねえ。

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