「そそっかしさ」をエネルギーに活かす

その子はともかくそそっかしかった。親御さんが相談したい、とその子を連れてきたのだが、シャーペンを指先でクルクル。しかし大して上手くないのでよく落とす。そしたら立ち上がる拍子にイスが後ろに倒れる、拾おうとしたシャーペン蹴飛ばしてまた走る、そしたらぶつかる。

親御さんが「話しているときに動くな!じっとしていなさい」と言うのにじっとしていられない。懲りずにシャーペンくるくる、また落とす。とうとう親に手を押さえられ、止めたら、視線をきょろきょろ。当時、ようやく多動症という話が聞こえ始めたころだったが、もしかしたら、という挙動だった。

学年最下位クラスの成績だというので、調べてみた。ところが、そうした成績の子ならほぼできないことが多い、分数がちゃんとできる。あれ?算数に問題がない。これで学年最下位クラスというのが信じられない。とりあえずその時は相談を受けただけで終わった。ところが後日、再度相談があった。

やっぱり学年最下位から5本の指に入る成績なので、面倒見てほしい、と頼まれた。定期テストの答案を見せてもらって、成績が悪い原因が見えてきた。そそっかし過ぎる。数字が、0だか6だか8だか分からない。4だか9だか分からない。7だか9だか判読できない。

漢字は、横棒や縦棒を一本サービスして増やしたり、あるいは値引きして減らしたり。送り仮名も増やしたり減らしたり。「わ」だか「れ」だか見分けがつかない。「ア」と「カ」かも判別できない。非常にあわてんぼうで落ち着きがないことが、文字にも表れていた。そのため、点数がまるで取れなかった。

その子の面倒を見ることに決めてすぐ、「先生に叱られた」と泣いていた。花瓶を割ったのは君に違いない、と先生が決めつけるのだという。「僕はやっていない」と本人は言う。ところが親御さんも「気がつかないうちにお前がぶつけたんじゃないか」と信じようとしない。

この子はあまりにそそっかしく、学校で問題ばかり起こし、その都度呼び出されて頭を下げることの繰り返しに親御さんは疲れ果て、どうせうちの子が悪いに違いない、と思い込むようになっていた。下の妹らも、またお兄ちゃんがやらかしたんだろ、と冷たい視線。
あかん、この子、孤立無援や。まずこの状況、どうにかしないと。

親御さんに、学校に連絡を入れてもらった。私が学校でのその子の様子を聞きたいので訪問させていただく、と。
学校に行くと、担任の先生だけでなく教頭先生が。保護者でも何でもない人間がいったい何の用で?と身構えていたのか、お二人とも非常に緊張していた。

「あ、今度、親御さんから頼まれて、○○君の面倒を見ることになった者です。学校での様子を聞きたくて来ただけです」と言って、学校での様子を興味深そうに聞くよう心掛けた。クラスの雰囲気、同級生の様子など。本当に話を聞きに来ただけらしい、とホッとした様子の教頭先生は、少しして席を外した。

最後に帰る間際、次のように話した。「お忙しい中お時間とっていただき、ありがとうございました。これまであの子は大変そそっかしくて、いろいろ問題を起こしてきたと思います。けれど、きっと変わります!どうか、しばらく様子を見てやっていただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。」

二、三日たったとき、笑顔でその子が報告してくれた。「今日、先生がほめてくれた!」とニコニコ、本当にうれしそう。以後も、なにくれとなく先生が目にかけ、声をかけ、ほめてくれるようになったという。

私が学校を訪問したのには、狙いがあった。親でも親戚でも何でもない人間が行ったら、先生は何事か、と思うだろう。ふつう、学校に押しかけてくるような人間なんかいない。まずそのことで、先生の意識を揺り動かそうと考えた。

そして、「これからは私が面倒見ます。そして必ず変わります!」と伝えることで、先生は、「この子がどう変わるというのだろう?」と、その子を見る目が変わることを期待した。「必ず変わる」と言った言葉に根拠はない。ただのハッタリ。でも、そう伝えることで、先生の接し方が変わることを期待した。

そして実際、先生の見る目が幸い、変わった。それまでは、「この子はそそっかし過ぎて何をしでかすか分からない」という目で見るから、やることなすこと問題行動に見えていたのだろう。しかし私みたいな正体不明の人間が面倒見ると言ったことで、よい変化に目が行くように変わったのだろう。

孤立無援の状態から脱したものの、さあ、そそっかしさはどうするか。ちょっと教えてみたら、理解力は充分高く、スッと理解できる。しかし答えを書いたその文字がひどすぎて、正解を書いているのか間違った答えを書いているのか、分からない。本人も、6と書いたのか1と書いたのか分からない。

字なんかどうでもいい、といいかげんに考えているために、理解できているけれど字が汚いからバツを食らっているのか、それとも理解できていないからバツになっているのか、本人も区別できなくなっていた。これでは実力がついたのかどうか、本人も確認しようがない。

すでに中学2年生になっていて、成績は1,2のオンパレード。少しでも成績を上げたいところだが、いい加減な字を書いている限り、何を教えてもこの子の場合、ムダになる。そこで、学校の勉強はいったんすべて放棄して、「字をきれいに書く」ことに一点集中することにした。

百円ショップでことわざ集を買ってきて、「これを10個、きれいに書き写して。一か所でも間違っていたら、全部書き直しだよ」。その子は楽勝楽勝、といって、ササッと10個書いて提出。チェックすると、どこかしら点が抜けたり線が多かったり送り仮名が多すぎたり。「はい、10個書き直し」

「これ、あってるから、他の9個だけでいいでしょ?」「ダメ。最初に言ったように、10個全部だよ」しぶしぶ、10個書いて提出。私がチェックすると、さっきは正確に写せていたことわざが間違っていて、やっぱり9個ミス。「はい、10個やり直し」

ことわざ集を見ながら書き写すだけなのに、それができない。初回は、たった10個を正確に書き写すのに3時間以上かかった。何度も「ねえ、間違っているの1個だけなんだから、サービスしてよ」と頼まれたが、「最初に言ったように、10個書き直しだよ」。

10個書き写しの課題を始めて3回目くらいだろうか。大泣きした。何度やっても、どこかで線が多かったり少なかったり、ハネがなかったり句読点を写し損ねたり。たった10個を書き写すということが、約束の2時間が終わってもできない。悔しくて情けなくて泣いた。

「君が間違うのはパターンがある。どんな間違いをしやすいか、自分をよく観察しなさい。それと、君は見直しを全然しない。提出する前に、自分の間違いやすいパターンをチェックする見直しの時間を確保して、それから提出してごらん。大丈夫。必ずできるようになるから。」

やがてその子は、横棒の多い漢字は2本か3本か、いい加減にしやすいこと、漢字のハネがいい加減なこと、送り仮名がいい加減なことなど、自分の間違いやすいクセが分かってきた。それを見直しの時間でチェックすることで、書き写しの間違いが劇的に減るようになってきた。

最初はたった10個の書き写しに3時間以上かかっていたのが、終盤には2時間の間に40個くらい書き写せるようになった。間違いも1つか2つ。再提出の時に同じミスをすることがなくなった。そうなるまでに3か月ほどかかったと思う。

そそっかしさは直らない。落ち着きのなさもそうそう直るものではない。生まれ持った性質なのだから。ならば、自分がミスしやすいクセを把握し、それを見直しの時間に修正する習慣を身につければよい。自分のクセが分かれば、そのうち「ここは間違えやすいところだから、気をつけよう」となる。

字を正確に書けるようになって、ようやく、自分が理解てきていなくて間違っているのか、それとも字が汚すぎてバツを食らっているのか、区別できない状態から脱することができた。ことわざ集を書き写すだけで3か月浪費して、ようやく学習に入ることにした。だが。

この子は「教える」という行為に対して、実に相性が悪かった。理解にもそそっかしさがあって、「わかったわかった、もうできるよ」と、中途半端な理解で終わらせてしまう。教えると分かった気になる、そして理解できていないまま、その部分がそのままになってしまう問題があった。

そこで私は、その時点では初挑戦だったが、「教えない」ことにした。この子は幸い、理解力がある。字が汚いから国語の成績も最悪だったが、言葉の理解力は相当なもの。なら、教科書を中心に自分で学ばせてみよう。

「この問題を解いてごらん。解き方は教科書に書いてあるから、それを探して、解いてみてね」私はそばで新聞を読み始めた。
「ねえ、ヒントちょうだい」
教えたくなるが、ガマン。「教科書に似ているのがあるから、それを探して読んでごらん」また新聞を読み始めた。

「この辺かなあ」と、私の目を覗き込みながら、教科書パラパラ。「そう思うなら、読んでごらん」と言ったら、やった、アタリがついた、と喜んで、読んでいる様子。でももちろん、見当違いの場所。
「いじわる!ヒントくらいくれたっていいでしょ!」と怒った。私は新聞を畳んで、正面を向いた。

「大丈夫、君ならきっと分かる。教科書を読んで、似たところを探してごらん」
「わ・か・ん・な・い、って言ってるでしょ!」と怒った。私は視線をそらさず、「大丈夫!できる!やってごらん!」
とうとうその子は泣き出した。突っ伏してワンワンと。私は黙って、新聞を読み始めた。

30分ほど泣いただろうか。この人は本当に教えてくれないんだ、なんて意地悪なんだろう、という万感の思いを込めた、これみよがしのため息を「ハア~ッ!」と吐いた。そしてやる気なさそうに、片肘つきながら、中学1年の教科書を最初のページからめくり始めた。すると、あれ?似たのがある。

「先生、ここ、似てる」
「おお、よく気がついたね。ゆっくり読んでごらん。例題を読んで、理解ができたら、問題を解いてごらん」
また私は新聞を読み始めた。教科書なんか読んだことがない子だから、ものすごく時間がかかる。ゆっくりゆっくり、繰り返し読み返して、ついに問題を解き始めた。

「先生、見て」提出。
私は答えをチェックして、丸つけ。
「よく自分の力だけでやりきったな!よくやった!」両手を差し出してハイタッチ。泣きべそかいていた顔が一気に晴れやかになって、「いや、ここ、似てると思ったんだよね!」と実に得意げ。

「その調子でやってごらん。大丈夫、教科書をじっくり読んで解けば、どんな難しい問題も解けるようになるから」と言うと、「うん!」と力強い返事。教科書にかぶりついて、ものすごい集中力で学び始めた。

「教える」という行為には一つ問題があって、「理解のアウトソーシング(外部発注)」が起きてしまう。分からなくなっても、またこの人に聞けばいいや、という、他人任せな姿勢。これでは、理解が本人の中で固まらない。そそっかしいこの子には、これが大変起きやすかった。

誰にも教えられず、教科書を読んで理解する、というのは、この子が成績の割に言葉が発達していたからできたやり方ではあるが、この方法なら、「自分の力で克服した」という喜びが強くなる。それに驚いて見せる大人が一人いれば、大人を驚かすことができる楽しみも増す。学ぶことが楽しくなる。

その後、この子は私が新聞を読んでいるそばで、勝手に学ぶようになった。私がたまに「そこ、難しいだろう。どうだ、教えてやろうか?」と声をかけると、「イヤ!教えないで!自分の力でなんとかするから、黙っていて!」と、教えられるのを嫌がるようになった。

その子は中学3年生の終盤では学年の真ん中以上の成績になり、公立高校の受験問題では、自己採点すると8割以上得点していた。自分がどう回答したかを記憶するのはトップ校か2番手校でないと難しい。受験には間に合わなかったが、学年トップクラスの習熟率になっていた。

私が指導したのは中学卒業までだが、その後も連絡を時折くれた。高校では学年トップクラスの成績を維持し、第一希望の大学に現役合格した。どの教科をどう学習したほうがよいか、勉強方法も自ら編み出し、成績を上げられるようになっていた。

私はこの子を教えていない。ただ、その子は、極端にそそっかしい性質であるために、様々な場面で空回りをしていた。家族や学校の先生から見放されかけていたのを、私という異物が少し挟まることで、歯車をかみ合わせた。いいかげんに字を書くことで空回りしていた学習を、字の鍛錬でかみ合わせた。

「教える」ことでわかった気になる上滑りを、自分で教科書を読み、自分の力で解けるようにしていく、というやり方に変えることで、上滑りが起きないようにした。歯車さえかみ合えば、その後は「そそっかしさ」を、持ち前のエネルギーの高さに変えて、学習に注ぎ込めるようになった。

「そそっかしさ」は欠点ではない。興味関心、好奇心が強い表れだ。ものすごいエネルギーがあるから、落ち着かないだけ。ならば、それを長所として活かせばよい。そそっかしくて字を間違えやすいなら、間違いやすいクセを把握させ、素早く見直すエネルギーに少し流れを変えてやればよい。

教えず、自ら学び、克服する経験は、ものすごい達成感がある。「自分の力だけで克服した!」という喜び。その喜びに花を添えるのが、そばで見ていて驚く大人。「ねえ、今の見ていてくれた?」「見てたよ、よく自分の力で克服したねえ」と驚いて見せるだけで、意欲にドライブがかかる。

・「教える」のではなく、本人の学ぶ力をそのまま生かす。
・空回りしているところの調整だけ行う。
・そばで見ておき、自分の力で克服したら、驚いてみせる。
これを行うことで、この子は、学ぶ意欲を取り戻し、自ら学ぶようになった。

「教える」側がどんなパフォーマンスを発揮するのかを、教える側がこだわりがちだが、そんなことは忘れ、「学ぶ」側が、どうやって学ぶパフォーマンスを最大化できるか、という点に意識をフォーカスさせた方がよいらしい、ということを、この子の事例は教えてくれた。

この子(https://note.com/shinshinohara/n/n74b8850ec736 )の事例も、またこの子(https://note.com/shinshinohara/n/n86eb8439c2f2 )の事例でも、学年最底辺クラスの成績から、劇的に成績が向上した。共通するのは、その子が能動的に学ぶ姿勢、能動性を取り戻したことにある。

3通りの事例を見ても、指導の仕方は一様ではない。その子その子の個性、事情に合わせる必要がある。この子(https://note.com/shinshinohara/n/n74b8850ec736 )の場合は、「テレビに子守りさせる」という、ある意味、放置されすぎたために能動性を発揮するきっかけが得られなかった事例だった。

この子(https://note.com/shinshinohara/n/n86eb8439c2f2 )の事例は逆に干渉されすぎて能動性を発揮する機会を奪われてしまった事例。自ら学び、自分が成長する喜びを取り戻してもらう必要があった。

そして今回紹介した事例は、あまりにそそっかし過ぎるために空回りが多く、自分が成長したのかどうかを確認する術を失っていた。そこで持ち前のエネルギーを利用し、そそっかしければミスを後から修正すればよい、という補完機能を付加することで、空回りをなくし、能動感を味わえるようにした。

3タイプとも個性が違い過ぎて、また置かれた環境も違い過ぎて、共通点はない。指導の仕方も三者三様、まったく同じようにはできない。しかし共通することが一つある。子どもが、能動性を取り戻せるようにすること。それさえ心がければ、個性に応じた指導方法が、試行錯誤の中で見つかる。

個性に応じた指導は、
・徹底してその子を観察すること。観察する際、評価・比較をしないこと(ほかの子と比べないこと)。
・空回りの原因を探り、空回りを防ぐ補完機能を、その子自身の力で補えないか、試行錯誤する。
・その子が「できない」を「できる」に変えた差分があったら、それに驚く。

すると、「この子は、こうした環境が用意されると変わるかもしれない」という「仮説」が思い浮かぶようになる。その仮説を試してみて、その結果をまたよく観察し、さらに改良した仮説を考え、試行錯誤を続ける。そうすれば、次第に個性に応じた接し方が見えてくる。

そして何より、「驚く」こと。その子が昨日まで「できない」だったことを「できる」に変えた、「知らない」を「知る」に変えた、その差分に驚くこと。すると、その子は大人を驚かすことができた喜びで、学習意欲にドライブがかかる。そのエネルギーが、次の克服へと向かう。

大人が先回りする必要はない。むしろ先回りすると、待ち構える格好になるので、子どものやり遂げたことを当然視する気分になってしまい、驚けなくなる。すると子どもはつまらなくなり、その分野に関心を失ってしまう。大人はむしろ「あと回り」するくらいの姿勢の方がよいだろう。

「赤毛のアン」のマシューのようになれたら。子供の成長に驚き、面白がり、子どもが悲しそうならオロオロし、どうか悲しみを克服してくれますようにと祈る。そんな人が一人いたら、子どもは、自分の成長で驚かし、喜ばせたいと願うようになるように思う。

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