卑怯な善意

私は「あんたがいつまでも〜しないからやって上げた。お礼は?」という恩着せがましさが大キライ。
何かやってもらったらお礼を言うのがスジ、感謝するのが当たり前、とされる。なのにどうしてこうした恩着せがましさは腹が立つのだろう?お礼も言いたくなくなるのだろう?

恐らく、自分が成し遂げるはずだった功績を奪われたあげく、それをやろうとしなかった怠け者扱いされるという二重の屈辱を味わうことになるからだろう。いや、三重かも?相手は恩恵を与える側、自分はそれをありがたく受け取る奴隷側、という関係性に追い込まれる屈辱。

たとえ親切心からやってあげたにしても、恩着せがましさがあった途端、その功績は帳消しになると考えた方がよさそう。人間はどうやら、そうした屈辱を味わわされてなおお礼を言うという風に心の仕組みができていない。

「勝手にやってしまったけど、よかったかな?」と声掛けされると、恩恵を与えたという恩着せがましさがなく、相手に屈辱的な関係性を強いることにならない。この場合、こちらも素直にお礼を言いやすい。「やってくれて助かりました、ありがとう」と。

恩着せがましさを平気で出してしまう人は、恐らく、自分に有利な関係性を築こうとしている。それも恐らく無意識に。マウントとるつもりじゃなしにマウントとってる。無意識だけに「なんでお礼も言われず、それどころか叱られるの?理不尽」と不満顔。けれど。

「やってもらったらお礼を言い、感謝しなければならない」という道徳を盾にとって、自分に有利な関係性を築こうとする自分のクセに気づいていない点、タチが悪い。しかも道徳的に自分を正しい側に置いてるから反省しなければならないことに気づこうとしない。こうした無意識のマウントは厄介。

善意で相手を絡め取り、縛るというやり方。いわゆる毒親と似たアプローチと言える。やってもらったのだから感謝しなさい、あなたは私に恩を返すべき立場なのだよ、と、相手を弱い立場に押し込める。この卑怯な善意は、もう少し言語化されてしかるべきだと思う。

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