(仮説)学ぶことが好きで成績も良好な子どもの親の共通点

京都大学に入学して面白いと思ったのは、「勉強しろと親に言われたことがない」という同級生が多かったこと。京大だから、というのもあるかもしれない。東大に行ってガツガツ勉強なんかしたくない、したい勉強だけしたい、という性格の連中が多かった。強制されるのは大嫌い、というのが多かった。

で、本人が親になって、困ってるケース複数。「勉強しろなんて強制したら勉強嫌いになるから言っちゃだめだ、放っておけっていうんだけど、妻はものすごく教育熱心で」と。塾に複数通わせ、帰宅してからも勉強に付き合い。そんな勉強漬けじゃ、勉強嫌いになるよと心配していた。

小学校から受験、中学も受験。中学までは親の強制でどうにか勉強したけれど、高校で母子の確執が激化し、勉強嫌いになるケースが多かった(私が見たケースはすべて)。勉強嫌いなりに大学はなんとかそれなりのところに進んだけど、すっかり勉強嫌いに。

不登校になるケースもある。小学校まではどうにかなるけど、中学から(勉強嫌いになっているから)伸び悩み、親との確執も強まり、不登校に。

両親が高学歴で、子どもが進んで学習するというケースは、どうも「勉強しろとは一切言わない」というタイプが多いように感じる。他方、勉強しろという圧力が強い親のもとだと、仮に成績が良くても中学・高校あたりから伸び悩み、勉強嫌いになっているケースがどうも多いな、という印象。

「親が高学歴だと子どもも高学歴になりやすい」という現象の説明では、よく遺伝が理由に挙げられる。それもあるかもしれないけれど、私が思うに、「勉強しろと言わない」という家庭環境も大きい気がする。勉強しろと言われたことがない子供時代を過ごした両親だと、ほっときゃ学ぶだろ、と考えてる。

他方、親の片方に学歴コンプレックスがあり、子どもを高学歴に育てることでリベンジを狙っているという場合、子どもを勉強嫌いにしやすい。そのため、大学進学までにトラブルが起き、一切勉強しなくなるとか不登校になるというケースも見かける。

他方、両親ともに中卒で学歴はない、という人でも旧帝大に入学するケースもある。この場合、やはり、親から勉強しろとは一切言われていない。そして、「トンビがタカを生んだ」と、子どもが何か一つできたことが増えたらそれに驚き、感心するという感じ。子どもが学びだがれば支援を惜しまない。

私は大学入学と同時に塾を開き、様々な親御さんと接し、「もし自分が親になるとしたら」というシミュレートをずっとしてきて、様々な事例を収集してきた。で、「子どもが進んで学び、成績も良好」というのは、親の学歴とどうも関係ないな、と私は感じている。

共通するのは、
・勉強しろとは一切言わない
・子どもの工夫、発見、意欲に気づくと驚き、感心する
・子どもが学びたいと言ったら支援を惜しまない
・子どもに遺伝的レッテル(俺の子どもだから頭がいいはずだ、悪いはずだ)を貼らない
というのが、私のこれまでの観察結果。

子どもがどのくらい伸びるかはわからない。それは保証できないが、「学ぶことが好きで成績も良好」な子は、親に上記の共通点があると言ってよいように思う。少なくとも、上記の共通点をすべて備える親の子どもは、明らかな先天的問題を抱えていない限り、成績はどの子も良好だった。

共通点4点のうち、後半の2つはできているご家庭は多いのだけれど(それでも満たせていないご家庭も多い)、前半の2点を満たすことがなかなか難しいらしい。つい「勉強しろ」と言っちゃう。つい、子どもの変化を見過ごし、成長を当然視してしまう。

特に2番目の
・子どもの工夫、発見、意欲に気づくと驚き、感心する
ができるご家庭は多くない。「驚く」を「ほめる」と同じ意味に解釈する人が多く、ほめてしまう親御さんが多い。確かに「すごいね!」と驚くことは、ほめることと何が違うのか?と疑問に思われるのも不思議ではない。

しかし私は、教育界から「ほめる」という言葉を滅ぼしたほうがいいのではないか、とさえ考えている。「ほめる」は、「驚く」という要素も含むのだけれど、別の厄介な要素を含む言葉。それは、「ほめることで親の願望通りに動かそう」という、誘導したい意図が含まれてしまうこと。

もっと勉強させたい、もっとよい成績をとらせたい、という親の欲目、期待を裏に抱えた「ほめる」は、子どもが小さいうちは素直に反応してくれるけれど、子どもが大きくなるにしたがって「親の手のひらで転がされている」という不快感が強くなり、反発するようになるケースをよく見る。

「ほめる」だと、かえって子どもの意欲が減退するケースも多い。ほめるということは、親はすでにそれを知っていたり、自分はできていたり、すでに予想済みのことなんだな、と子どもが気がつく。上から目線の言葉だな、と気がついて、子どもが嫌気をさしてしまう。

子どもはどうやら、驚いてほしい。驚かせたい。赤ん坊のころ、初めて言葉を口にしたり、立ったりしたとき、親が手放しで驚き、喜んでくれたのを、どこかで覚えている。だから子どもは、それまでできなかったことができるようになると「ねえ、見て見て」と言う。幼児の口癖がこれなのは、偶然ではない。

教えもしないのに、期待もしないのに、子どもが勝手に意欲を持って取り組み、工夫し、発見する。それに親が驚く。その構図を、ずっと大きくなっても続けられると、子どもは学ぶことが大好きで、大好きだから熱心に取り組み、熱心に取り組むから成績も良好になるのだと思う。

しかし多くの親は、子どもが言葉を話せるようになると教えようとする。教えることでさっさと成功させよう、正解にたどり着かせようとする。そしてそれができるようになったらほめて、次に行かせようとする。この構図で進めてしまう親御さんは非常に多い。

子どもが小さい間はそれでも素直だから、そして親が喜んでくれるから(驚きはしなくなるが)、子どもも頑張ってついていく。しかし多くの親が、子どもが小学校に入り、他の子と比較しだす。すると焦り、クラスで一番にすべく、あれをやってみよう、これをやってみようと先回りし始める。

そして、子どもが頑張ってできるようになっても、ほめるのもそこそこに「さあ、じゃあ次に行こうね」と催促する。次第に子どもは、自分ができるようになったことに親が驚いてくれないことに気がつき、ほめられてもうれしくなくなり、精神的に疲弊するようになってしまう。

たまたま、子どもが進学後もトップクラスになれたまれな例では、このサイクルでもうまくいく。しかし中学、高校と、成績がもっとよい同級生だらけのところにいくと、ほめて先回りしてという方法がうまくいかなくなり、子どもは勉強嫌いになり、反発して破綻するケースをよく見る。

息子を自ら殺害した農水省元事務次官の事件は、どうもそうしたサイクルに入ってしまった様子。ほめるし教えるしで子どもが小さなころまではうまくいったが、進学校に進むと勉強が楽しくなくなり、ついていくのがつらくなってしまったらしい。そして親子の関係も悪化したようだ。

「驚く」場合、
・他の子と比較しない
・教えない
・期待しない
・祈る
という心構えになっていることが必要。
もし他の子と比較し、「もう○○ちゃんはこれができているのに」と焦っていると。

子どもがそれをできるようになっても大して驚けず、「○○ちゃんはそれもうできているよ、それよりも追いつき追い越すために、次のこれをこなしていこう」と先回りしてしまう。子どもは親を驚かせようと思ったのに驚かず、面白くない。それどころか次の課題を示すので気が重くなる。嫌になる。

親が教えてしまうと、子どもがそれをできるようになっても「私が教えたからだ」になってしまい、親は「ほめる」ことはできても「驚く」ことはできなくなる。すると、親の「思枠」通りに生きている自分にいつか気がつき、特に思春期になるとそれが嫌になり、拒絶するようになることが多い。

親が「早くこれができるようになったらいいのに」と期待してしまうと、不思議なもので、それができるようになったら「そうか、それができたか、じゃあ次これやろう」と先回りする心理が働きやすい。驚くどころか次の課題を示されて、子どもは辟易する。

「期待しない」というと、「心理的に見捨てる」という意味にとる人が少なくない。「どうせ言ってもやろうとしないんだから」と。もし子どもが思いがけず意欲的に取り組んだとしても「あら珍しい、雪でも降るかしら」と皮肉を言ってしまう。これでは「驚く」というより、普段のうっ憤を晴らす「報復」。

だから、私は「期待しない」代わりに「祈る」ことをお勧めしている。赤ん坊は言葉が通じないから、教えようがない。だからいつ言葉を話すか、立つようになるのか、期待することができない。でも、親はどうか健やかに育ちますように、そしてもしできるなら、言葉を話し、立つようになって、と祈る。

期待せず、祈るとき、赤ちゃんが言葉を話したり立ったりすると「いま言葉を話したよね?」「立った!立った!」と驚き、手放しで喜ぶ。期待せず、祈る心理の時こそ、子どもの成長に驚き、喜ぶことができる。だから、「祈る」はとても大切。

もっとも理想的と私が考えるのは、「赤毛のアン」で登場するマシュー。マシューはアンのことが大好きで、アンが幸せそうなら自分も楽しく、悲しそうだとオロオロし、どうか今の困難を乗り切ってくれますように、と祈る。そんなマシューは、アンが何か一つできるようになると、嬉しそうにうなづく。

「驚く」には、もう一つ、重要な要素が必要。
・観察する
こと。普段から子どもをよく観察しているからこそ、「昨日までこれ、できなかったよね?でも今、できたよね?やった!」と気がつける。そして子どもとハイタッチし、驚き、喜べる。

ナイチンゲールに次のような言葉がある。
『経験をもたらすのは観察だけなのである。観察をしない女性が、50年あるいは60年病人のそばで過ごしたとしても、決して賢い人間にはならないであろう。』
観察というのは、どうやら「見る」だけと違うらしい。「見る」だけでは観察したことにならない。

「観察」とは、私が思うに、自分が気づかなかったこと、知らなかったことを探すこと。「見る」はしばしば見たいものだけ見、知っていることを確認するだけの作業。「それ知っている。あれだろ」で済ましてしまう。これでは、子どもの変化に気づくことができない。看護師なら、患者の変化に気づかない。

「観察」は、自分の知らなかったこと、気づかなかったことを探すこと。そうすると、昨日と今日の「差分」に気がつくことができる。子どもは何なら、「驚く」までの反応を親がしなくても、親が「差分」に気づいてくれさえすれば嬉しくなる。自分をきちんと見てくれている、ということが分かるから。

・他の子と比較しない
・教えない
・期待しない
・祈る
・観察する
この5つの状態に自分の心構えを持っていけると、自然と驚けるようになる。昨日と今日の違いに気がつき、驚き、ともに喜べるようになる。

芸大で指導しているという人から、面白いことを教えてもらった。ほめないのだという。ほめると、同じことばっかり繰り返してほめられようとしてしまい、進歩や工夫がなくなるからだという。芸術は同じことの繰り返しになったらマンネリになってしまう。

だから「驚く」には、意欲、工夫、発見に驚くようにした方が良いように思う。
意欲が湧くかどうかは、親にはどうしようもない。なんなら子ども自身にもどうしようもない。そんな意欲が湧いた時、それは奇跡と言える。その奇跡に驚くと、不思議なもので、驚く人がいると意欲はコンコンと湧くらしい。

本人が考えた工夫に驚くと、また驚かせようと新たな工夫を考える。工夫というのは、同じ工夫では驚いてもらえないから、工夫に驚くようにすると、必ず前回とは違う工夫をするようになる。「驚く」と、常に新しい工夫を考えるようになる。

発見に驚くと、「観察」するようになる。発見をするには、それまで気づかなかったこと、知らなかったことを探すしかない。だから、発見に親や指導者が驚くと、観察眼が磨かれ、次々に発見するようになる。

意欲、工夫、発見に驚くようにすると、子どもの意欲は高まり、工夫をますますするようになり、観察眼が鋭くなって発見が相次ぐ。こうした子どもは学ぶこと自体が遊んでいることと同じになり、楽しんで学ぶ。だから自然と成績もよくなる。

親である自分が、子どもの意欲・工夫・発見に驚ける心構えに自分をもっていくこと。これは意識的に訓練しないと難しい面がある。けれど、意識して訓練すると、誰でもできるようになると私は考えている。そしてそれができるようになると、子どもも、あるいは部下も、意欲的になる。工夫と発見が相次ぐ。

子どもがそれにより、どこまで能力を開花させるかはわからない。しかし、意欲的に工夫や発見を続ける子どもは、持てる能力を最大限に引き出す。なにせ、楽しんで学ぶのだから。それで十分ではないかと思う。

遺伝の話をしても、私は無意味だと思う。遺伝はどうしようもないから工夫しようもない。けれど、「教える」とか「期待する」とか「ほめる」ことで台無しにしてきた子どもの学習意欲については、親の接し方で大きく変わる。そこが改善できるなら、やってみたらよいように思う。

子どもたちが笑顔で、楽しく学ぶ社会を。学ぶこと自体を楽しめるように。学びと遊びの境界線がない社会になりますように。そんなことを祈りながら、今日もつぶやいてみた。

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