楽しむから自主的自発的になる

学習は自発的、自主的であるほうがいい、と思っている人がほとんど。ところが自主的自発的でないからやむなく無理やり強制、命令するしかないのだ、という人も多い。自主的自発的に学ぶのは、ごく限られた一握りの人間だけができることなのだ、と思われているフシがある。しかし。

私は不思議に思う。(早教育を強いられている子を別として)小学校就学前の幼児はまず間違いなく学習意欲のカタマリだから。学ぶことが大好き。「できない」を「できる」に変えるのが大好き。「知らない」を「知る」に変えるのが大好き。猛烈に覚えていくし、猛烈にできることを増やすし、学んでいく。

ところが小学校に入学したあたりから、多くの子どもたちが学習意欲を大幅に減退させてしまう。なぜなのか。学習が楽しくなくなってしまうからだと思う。ではなぜ楽しくなくなってしまうのか?強制命令するからだと思う。

多くの大人は、自主的自発的に取り組まないから強制・命令するしかないのだ、と考える。私は順番が逆だと考えている。本来、学習は楽しくて仕方がないものなのに、強制・命令のために学習が「勉強」(勉(つと)めて強いられる)になってしまうからではないか。

いわゆる「できない子」は、すっかり勉強嫌いになっている。こういう子はもはや強制・命令するしかないと思われがち。でも私はそうは思わない。こうした子達も、学ぶことの楽しみを思い出すことができる。でもそのためには、その子の「環境」である、指導者側が変わる必要がある。

学ぶことを楽しくなくしてしまう、「勉強」にしてしまうのは、以下の条件がそろっているからだと思う。
・他のよくできる子と比較される
・指導者に「これくらいできて当たり前」という価値規準がある
・強制・命令される
・できても次を急かされるだけ、誰も驚かない

私はこれまで、公立中学で学年最下位クラスの子を4人面倒見てきたが、4人とも中間以上の成績になっている。その子らを指導するときに気をつけたのは、「その子らの中にあるものだけで勝負するにはどうしたらよいか?」だった。

大人は答えを知っているものだから、便利な解法とかを知っているものだから、これらのツールを使いこなせと子どもに要求してしまう。しかし子どもたちからしたら、知らない外国語の説明書しか付いていない、知らない道具を渡されたようなもので、かえって混乱してしまう。

私はその子になりきったつもりで、その子の持ってる武器だけで次のステージに進むにはどうしたらよいか、という攻略法を考える。もしその子が足し算はできるけど九九ですでにつまづいているようなら、2を3個足すと6、3を2個足すと6になる、というところから積み上げる。そして。

何度計算しても、2が3個なら答えは6、3が2個なら答えは6、ということに気づいてもらう。やがて、だから2×3は6だし、3×2は6だと気づいてもらう。そのうち、本人が「どうやら九九は、数字の順番がひっくり返っても答えは同じ」ということを発見する。その発見に私は驚く。

「よくその法則性に自分で気がついた!」と。こちらがむやみに教えず、自分の力でその法則性に気がついたとき、指導者が驚けば、「そんなこと、今頃気がついたのか」とバカにするのではなく、「君の中の材料だけでよくそこにたどり着けたなあ!」と驚けば。

自分で法則性を発見する喜びを取り戻す。指導者が常に、自分の中の材料だけで新しいステージに進むことの困難さを理解し、それを克服したときに驚き、喜んでくれることに気がついたら、子どもは再び学ぶ楽しさを取り戻せる。そう私は考えている。

少なからずの大人が、「助長」をしているように思う。
昔、中国のある農夫が、隣の畑より自分の畑の苗が小さいことに苛立ち、上に引っ張って成長を助けようとした。しかしそれによって根が切れ、翌日にはすべて枯れてしまったという話。

本来、この農夫は隣の畑と比較し、引っ張るなどという不毛なことをするべきではなかった。育ちがよくないのなら、その原因が水はけの悪さなのか、肥料なのか、日当たりなのか、と、その畑そのものの課題を観察から分析し、その畑でとりうる手段を講ずることが建設的だし現実的。

もしかしたら、いくら改善しても隣の良田には勝てないかもしれない。けれど間違いなく、何もしないより収穫は上がるだろう。場合によっては、改善に次ぐ改善を続ければ、何も努力しない良田よりも収穫が増えるかもしれない。ならば、いっそ隣と比較することも忘れて、自分の畑の課題を探せばよい。

そして課題を発見してはその改善方法を見つけ、それを試すという「ゲーム」を楽しんだ方がよい。ゲームにしてしまって楽しむと、勝手に自主的自発的になる。自ら次の課題を見つけ、それを攻略する方法を考え、挑戦するようになる。

大人は、子どもが学ぶことを楽しめるように、そのアシストをすればよいだけだと思う。
どんなに好きなゲームでも、「この面をクリアしなければ晩御飯抜き!」みたいな強制・命令をされると、途端にそのゲームでは楽しめなくなるだろう。強制・命令は楽しさを強奪する行為。

それよりは、子どもの手持ちの材料を把握し、その子と同じ地平に立って、「どうやったら手持ちの武器だけで攻略できるか?」を一緒に考え、悩む方がよい。すると子どもは「こうしたらいいんじゃない?」と仮説を思いつき、それを試してみたくなる。そうした試行錯誤を繰り返すうち、突破してしまう。

その時、大人が「よくぞ突破した!」と驚き、一緒に驚けば、子どもの喜びは倍加する。そのようにして、子どもが学びを楽しめる環境デザインをすることが、大人のつとめなのかな、と思う。

子どもが学びを楽しみ続けるにはどうしたらよいか。それを子どもと一緒になって考え、一緒に学ぶことを楽しむ。そうすれば、いったんは学びを拒否するようになった子どもでも、学ぶ楽しみを取り戻せると私は考えている。

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