西洋思想はOS、東洋思想は骨董

西洋思想はOS、東洋思想は骨董に似てるかも。
西洋思想も昔の偉人の哲学に敬意は払うけど、間違いは容赦なく指摘する。さらに改良された思想を提案しようとする。そこが、常にパッチをあててアップデートを心がけるOSに似ている。

東洋思想は、先哲を至高とする。後に生まれた人間は先哲には決して及ばず、劣化コピーと謙遜に振る舞う。孔子や老子を理想とし、そこにどこまで近づけるかという形。古いものほど完璧という考えた方が、古くて貴重なものほどありがたがる骨董に似てるかも。

そうなる原因の一つが、思想を作るときのアプローチの違いと思われる。
西洋思想は論理的、体系的。論理をどこまでも伸ばしていって世界を説明しようとし、体系化する。しかしこの手法は途中で誤りが混入しやすい。現実をよく観察せず、論理だけを伸ばしていくから、その途中で誤りが混入する。

東洋思想は「論理を伸ばしていく」という傾向がどうも弱い。その代わり、観察し、端的に真実を切り取るのがうまい。「老子」も「論語」も、断片的な言葉が並ぶ。根底にある哲学は統一感があるけれど、それは言語化されない。断片的な言葉から、言語化されない底流を察する必要がある。

孔子を理想の人物として崇める儒教では、朱子学や陽明学も生まれている。しかし原則、孔子が唱えたことから逸脱しようとしていない。孔子の教えを再解釈するという形。割れた器を金継ぎして価値をさらに高めるような、そんな感じ。

私は、西洋思想も東洋思想も、それぞれに良さがあると思っている。西洋思想は論理的で体系的な代わりに「わき見」が苦手。論理の中に組み込みにくい事象はスルーしたりする。東洋思想は、これ大切だと思ったら言語化する。それがまた、その哲学的背景をうまく醸したりする。

「知ることを知るとし、知らないことは知らないとする。これが知るということだ」という喝破は、実に面白い。現代にも十分通じる喝破。でも西洋なら、「知とは」と、論理的体系的に論じることが始まるだろう。東洋は「考えるな、感じろ」的なところがある。

東洋思想の直観的なところも好きだし、その長所も大いにある。西洋思想の、論理的体系的に論じていくのも、問題の在り処を突き止めるのに至極便利。両方の特徴をうまく活かしていきたいと思う。

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