「自主性」がよくわからない・・・能動性を引き出す

教育界では「自主性を重んじる」というフレーズをよく聞く。ただ、具体的にどうすることなのか私にはよくわからない。自主性を大切に考えるだけで自主性は促されるかと言うと、どうもそうでもないように思われる場面に出くわすことがある。そこのところを少し考えてみたい。

とある企業が若者を採用し、好きに事業を立ち上げろと任せた。予算もつけてやると言われ。何を始めても構わないものすごい自由度。
しかしその若者は何を始めたらわからず、不眠に陥り、精神の平衡を失い、統合失調症に陥ってしまった。自主性を重んじられてつぶれてしまった。

「選択の科学」という本に、面白い実験が紹介されている。何十種類ものジャムを取り揃えたお店と、数種類に厳選して陳列したお店で売上を比較した。お客さんが自主的に選べる自由度の高い前者のお店の方が売れるかと思いきや、後者のお店の方が売れ行きがよいという。自主的に選ぶのって面倒だから。

何もかも自主的に決めなきゃいけないとなると、毎度決意に要するエネルギーを消耗して疲れてしまう。「自主性を重んじる」として誰の干渉もない状況にすれば、かえってどうでもよいことまで全部自分で決めねばならなくなり、疲れてしまうということが起きるらしい。

そもそも自主性って何だろう?他人に言われて動くのではなく、自分で考え、自分で決めて動く状態をさすらしい。けれどヒルティ「幸福論」にもあったけど、習慣化って大事。その都度決意するって面倒だから、習慣にして考えないで済むようにした方がよいと勧めてる。それはそうだろうと思う。

ある女の子が将来福祉の仕事に就きたいと夢を語った。すると母親が、福祉ならあの大学がいい、だとすると高校はこの水準のところに進学して、ならば中学三年、二年、一年の時にはこのくらいの成績になっておかなくては・・・と逆算。しかし最初は頑張った娘も、途中でイヤになり投げ出した。

「あなたが言い出したことでしょう?!」と母親からなじられると返す言葉がない娘。けれど嫌なものは嫌、辟易してるのは事実。母親からしたらあなたの自主性を重んじ、それを最大限応援しようとしてるのに、自分の言葉に責任を持たないとは、とご立腹。

けれど、多分娘からしたら、自主性を重んじられたどころか、母親にレールを引かれて自主性を奪われたという気分なのだと思う。最初に進路の希望を述べたところだけ自分の言葉だけど、後は主導権をとられてる。むしろ最初の発言は「あなたが言ったんだから」と言質をとられた感がある。

自主性を重んじる、と言いながら、主導権を指導者がうばってる場面は結構ある。いったいどうすることが自主性を促すのか、いい加減なままだと自主性はむしろ潰れてしまうこともあるかもしれない。

私は、「自主性」という大それたことを考えるのではなく、「能動性」を促すことを考えている。
研究室のスタッフは、基本、私の指示通りの仕事をしてもらっている。そうでないと危険だし、仕事にならないから。ただし、私の指示に従うだけの受動的な形だと、仕事はうまくいかない。

言われたこと、指示されたことだけをやるという受け身の姿勢では、楽しくない。楽しくないから理解が深まらない。理解が浅いと失敗しやすい。失敗すると上司から叱られやすい。叱られるとやる気が失われる。やる気失うと仕事はさらに受け身になり、指示されたことしかしなくなる。

そこで私は、スタッフの人に「訊く」ようにしている。「この実験、いざやろうとしたら何か問題起きませんかね?」こう訊くと、間違い探しゲームのように、手順をトレースし始める。「ここ、こうした方がいいんじゃないですかね?」と気づいたことを述べてくれる。私は驚き、それを採用する。

すると、8、9割は私の最初に出した指示ではあるのだけど、スタッフは自分のアイデアが採用されたという気持ちになる。手順をすべて能動的に、問題がないかチェックするためにトレースしてるので、自分事として理解できている。私がアイデア採用するのがわかってるので、提案もどしどししてくれる。

能動的に物事を捉え、工夫を提案してくれることを私は喜ぶようにしている。すると、スタッフの皆さんは仕事や手順をよく観察し、改良すべき点に気づいたらそれを提案してくれる。私が驚き、喜んだら採用。こうしたことを繰り返すと、スタッフや学生の能動性が定着する。

いわば、スタッフや学生には、私の指示のアラを探してもらうようにしている。そしてアラに気がつき、どう修正したらよいか提案がなされたら、そうして能動的に取り組み、気がつき、提案してくれることに驚き、喜ぶようにしている。すると、仕事を前向きに、能動的に取り組んでくれるようになるらしい。

子どもを指導するときも、私はどこか抜けた役割を果たすようにしている。例えばは虫類とほ乳類の違いを子どもが答えてくれたら、私は「カモノハシはどっちなん?」と尋ねる。教科書をきちんと読んでる子は「ほ乳類」と答えてくれる。でも私はここでボケる。「え?タマゴ産むんじゃなかったっけ?」

すると、深く考えずにいた大概の子どもが動揺する。教科書を読み返してチェックする。「いや、やっぱりほ乳類だよ」。私はなおもボケる。「え?でもほ乳類はタマゴ産まんやろ?カモノハシはタマゴ産むんやろ?なんでほ乳類なん?」とボケると、子どもは「ええ~?」と言って悩み出す。

もう一度教科書を読み直し、タマゴは産むけど体温が一定なことや、赤ちゃんにおっぱいを上げることなどから、一応ほ乳類に分類されるけど、は虫類とほ乳類の中間的な存在、ということを能動的に確認し、私に説明してくれる。私は「おお」と驚き、喜ぶ。

私はしばしば、理解が曖昧になりやすいところでそうしてボケ、訊いてくるので、子どもはまた揺さぶりに来たぞ、今度は明快に答えてやるぞ、と身構えてるので、教科書の読み込み、理解が深まっている。見事に解説すると、私が「ええ~、詰まんない、もっと動揺しろよ」と言うと、してやったりの顔。

仕事も勉強も、やらなきゃいけないことって結構決まっている。それらを受け身に、受動的に取り組むと、楽しくないし理解が深まらないし失敗は増えるし叱られること増えるし、だから余計につまらない。そこで私はどちらも間違い探しゲームにしてしまう。すると。

どこかに穴がないかチェックする。気づいたことを述べたら私が「おお」と驚き、喜ぶ。また見つけたら驚き、喜ぶ。どう解決すればよいかを提案すると、さらに驚き、喜ぶ。そうしてボケ役、驚き屋に私がなると、スタッフや学生、子どもたちは能動的に物事に取り組むようになる。

穴を見つけ、それを埋める工夫を考え出したら、ボケた私が驚くというゲームにデザインし直すと、仕事も学びも楽しいゲームに変わる。すると自主的、自発的、主体的に取り組むようになる。けれど、「自主的」「自発的」「主体的」という言葉は使い古され、過去のイメージがつきすぎて、誤解されやすい。

だから私は、「能動的」と表現したくなる。やらなきゃいけないことって、大概決まっている。課題自体を自主的に決めることができることって、ほとんどない。晩御飯は誰かが作らなきゃいけないし、部屋は誰かが片づけなきゃいけない。やらなきゃいけないことって、大概決まっている。

やらなきゃいけないことがあらかじめ決まっていると、私たちは受け身になりやすい。工夫の余地もなく、発見の要素も見当たらず、ルーチンワークなので自分の成長も見込めない。ただ給料がもらえるから、親や先生が叱るから、という受け身な姿勢になりやすい。しかし。

指導者がボケ役、驚き屋になると、ルーチンワークに見えた仕事も、改良の余地、工夫の余地が山ほどある課題に変わる。ここをこう工夫してみたらどうだろう?と提案したらそれに驚き、喜ぶ人間が一人いるだけで、決まりきった仕事に見えていたものが、創造的でスリリングな課題に変わる。

工夫の余地がないように見える単純作業でさえ、創意工夫の余地が大いにあることは前に述べた。どんな物事にも、工夫・発見・成長の余地がある。ボケ役、驚き屋が一人いると、それを楽しめるゲームに変わる。
https://t.co/rKMakXJO3v

自主性という言葉は、あまりきちんと考察されてない割に使い古され、よくわからないマジックワードになってしまっている気がする。私はそれを避けるため、能動性、ということを具体的に考えるようにしている。工夫の余地なんかないように見えるものも工夫して楽しむ。すると人間は能動的になる。

何事も鵜の目鷹の目で観察し、問題点を洗い出し、発見し、それを解決する工夫を考え出す。こうして能動的に取り組むと、ゲームをやってる気分で楽しくなる。私はボケ役、驚き屋になることで、能動的になることの楽しさを思い出してもらうアシストをするだけ。

教育の世界では、具体的に何をすることなのかよくわからないまま使われている言葉は多い。自主性、主体的、といった言葉もそう。何をどうしたらよいかわからない言葉を使うのはやめて、具体的にどうするかがはっきりわかる言葉だけで、もう一度考え直していきたいな、と思う。

能動性さえ回復すれば、そもそものところから考えられるようになる。私の考えたものより優れた実験を構想してくれることもしばしば。そのとき初めて自主性(自分で最初からデザインし、計画し、実行する)が生まれるような気がする。自主性は、能動性が習慣になってから初めて生まれるのかもしれない。

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