「居場所」考

ある支援団体で働く方の話。みんなにとっての居場所を提供しようとしたところ、ワガママしまくり、暴言しまくりの人が。注意すると「ここはありのままの自分を受け入れてくれる居場所と聞いた、なのに私を攻撃し、排除する、全然居場所なんかじゃない」と噛み付いてきたという。

そこでその団体は「居場所」を称するのをやめ、コミュニティ・ルームとしたという。みんなにとって居心地のよい空間を目指すのであって、誰か一人が好き勝手してよい空間ではない、一人一人参画する人たちががよりよいコミュニティを作っていくのだ、というメッセージを込めて。

島崎敏樹「生きるとは何か」に、境遇のよく似た、しかし結末が対象的な二人の女性の例が紹介されている。どちらも夫が先立ち、女手一人で息子を育てなければならず、苦労し通しだった二人。どちらも母の苦労に報いようと息子は勉学に努め、一流大学を卒業後、大企業に就職。ここまでとてもよく似てる。

しかしその後が対照的。片方の母親は、三国一の花嫁をもらおうと奔走し、これはという女性を見つけ、息子と目合わせ。夫婦仲もよかったが、気に入らない。嫁に息子を取られた気がして。細かいところにケチをつけるようになり、欠点だらけだと罵り、ついに別れさせた。

そしてまたもや息子の嫁探し。今度は自分がかすまずに済む、大人しそうな女性。息子とも夫婦仲良く。しかしまたもや気に入らない。自分が探してきたクセに。息子を取られた気がして。
嫁の悪口を言い出し、追い出そうとすると、今度は息子夫婦が家を出た。母親はその後、不幸を嘆き悲しむ人生に。

もう片方の女性は。息子の選んできた伴侶に文句も言わず祝福し、同居も求めず、「私は私の人生を生きていく」。これまで息子を育てるために諦めてきた趣味を始め、外の世界に友達を作り、息子たちとは別の人生を歩むように。もちろん、家族としての交流は末長く続けながら。

島崎氏は、前者の女性の求めたのが「居がい」であり、後者の女性は「往(い)きがい」と呼べる、とした。「居がい」の女性は、これだけ苦労して育てた息子なのだから、私に快適な居場所を提供するのは当たり前だし、嫁も私に尽くすべきだと考えてしまった。そしてその居場所を当然視してしまった。

そして自分の居場所を居心地悪くするものがあれば罵るようになってしまった。その結果、息子からも敬遠され、自ら居場所を破壊してしまった。自分がありのまま(好き勝手)でいられる「居がい」を求めた結果、居場所を失ってしまうことに。

「往きがい」の女性は、息子は息子の人生があり、その伴侶は伴侶の人生があり、自分には自分の人生がある。それぞれの道が接することがあれば気持ちよく挨拶し、再び自分の道を歩いていく。常に前を進む「往きがい」の中で、触れ合う人と楽しく談笑して別れる。そしてまた前に進む。

「往きがい」の女性は、未来永劫自分にとって居心地のよい居場所などない、「居がい」を求めることは無理がある、と達観していたのだろう。自分も前に進みながら、そして家族も、他の人も前に進みながら、時折楽しく語らう時間があればよい、と考えていたのだろう。

昔、「リビングゲーム」というマンガが。自分の居場所を見失った男女が、紆余曲折を経て自分の居場所を見つけていく物語。けれど、ここが自分の居場所だと思っていた場所が、次々に失われて、移り変わっていく。

なぜ「居場所」を求めてしまうのか。恐らく、子どもの頃の、親に守られ、愛され、驚かれていた時代の、甘やかな思い出があり、年をとってもそれを再現したくなるからではないか。でもそんな子供時代は、二度と訪れないことを、大人は達観する必要がある。

大人になるということは、子供時代には戻れないことを達観し、再び「居がい」のあるような居場所は得られないのだと覚悟をし、「往きがい」を求めて進むことなのかもしれない。

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